『新世紀エヴァンゲリオン』映画版 観賞後数日の記録

平成9年9月 5日(金): 映画版完結篇
とにかく「壮大な失敗作」なのは言うまでもないような気がする。もはや問題は、なぜ、そしてどこが失敗であったのかだろう。見終った後に思わず笑ってしまった(そして半分くらい本気で怒った……あんな「自己啓発セミナー」で私が考えていた解決法を説明してほしくなかったから)テレビ版最終2話に対し、その唐突な終幕といい、「結局どういう決着にしたわけ?」という疑問を放り出す点といい、なんかもう脱力してしまって何を語るべきかも判然としない。
いずれにしても今日の段階で気がついた点。
「謎は解決された。少なくとも「人類補完計画」その他の(ギミック的な)問題には決着が付けられた」という主張の当否について。否定。何故なら、映画において明かされた「人類補完計画」その他の(隠された)意図を前提として過去を振り返った場合に、各登場人物(特にゲンドウやリツコ、カヲル君)の行動が理解できるようにならないから。この点でエヴァンゲリオンは全体として、陰謀ものあるいはピカレスクになる資格を欠いたと言える。
「君の現実に帰れ」というメッセージの当否、あるいはその表現手段については別にするとしても、その「現実」の表現が「実写映像」というのはあまりに短絡的で杜撰ではあるまいか(しかもその実写映像もどこかで見たような陳腐なものに過ぎない)。「現代」を描き出すためにこそ、「未来」に設定された「どこにもない東京」の姿を、しかもどこにもないものを描くアニメーションという技法で描いてみせた押井守(特にパトレイバー映画版1)の腕前と比較するとき、その感は非常に強まる。現実を使わなくては「現実」が見えないってのは、ピースボートの論理だ。
何か結局、男ってのは女に支えられんといかんのか? シンジは結局女性という呪縛を逃れられなかったような気がする。「私と一つになりたい?」というのが他者との境界を解き放つ象徴というのも、非常に人間関係のバリエーションが狭そうだ。小谷真理は何か褒めてるけど、エヴァンゲリオンの女性陣というのは不可解な崇拝対象であるか(綾波)、知性的なように見えて結局自分の中の「女性」に裏切られるか(リツコ)、ケガれた存在=「オンナ」であるか(ミサト)という感じで、ステレオタイプな女性観をなぞってるに過ぎないような気はするよねえ。
そういう意味で、ああいう、綾波とシンジの最終幕における対話なんかを、ヘテロセクシャルでない人々なんかがどう見るか、ってのが気になる。
9月5日
庵野監督が自我をめぐる問題(愛されなかったことに由来する不全感とか、まあそういった類のもの)に執着しているのはわかる。それが現代日本に蔓延する病であるかもしれないことも認める。しかし、結局「それ、そんなに大した問題か?」という感は拭えない。考えてみると、(保健体育の教科書のような書き方にはなるが)そもそもそのような不全感は(フロイトの言い種ではないが)誰しもが抱えていて、しかしもはやそこに戻ることはできないから社会的な評価を得ることなどを通じて補償していくものではないのだろうか。それの規範的是非は別問題であるが、事実的にはそれが大多数の人間のたどる道筋であって、だから「不全感を問題にする前にやることがあるだろう」という指摘は正しいもののように思える。庵野監督は、そのような社会的補償——「成長」に背を向けて、問題自体を見据えて作品を作っているように思え、従ってそれはある種の感動を呼ぶのだが、しかしあらかじめ出口を塞いだ戦いだなあという思いもある。そのような問題意識自体を転換しない限り、解決は見えないのではないだろうか。
9月10日
問われるべきでない問いの物語としてのエヴァンゲリオン。
「では、あなたはなぜココにいるの?」……では、あなたはなぜそのようなことを問うの?
すべてのものを問い得るからこそ、問われるべき/問われるべきでないという規範的論議の必要が存在する。また、すべてのものが問い得るということは、すべての問いに対して、それが終局的な解決であるような回答を示すことが不可能であるということも意味する。従って、エヴァンゲリオンの示していた問いは、そもそも満足な回答を示すことなどできない種類のものであり、それに答えられないことが問題だとは思えない。
その問題を鮮烈に切りとることにおいて庵野監督は卓越した手腕を示したが、そもそも回答を示す準備がなかったからこそそのような行動が可能だったのではないか。すなわち、これは「同人御三家」たちとも共通する問題なのだが。
解き得ない問題を提出する作品に、価値がないとは言わない。しかし、それはあくまで「解き得ない」問題なのであって、それが解けないことを気に病む必要はないように思われる。
考え直した点。「同人御三家」たちに関して言えば、(木谷氏が指摘したように)とにかく劇的なシチュエーションを描きたいという欲求が根本にあると考えられる。そして、そのさらに根本には、自らの価値を認められたいという問題があるのかもしれない。しかし、すでに解答はある意味で示されているのであって、彼女たちがつくり出しているドラマというのは、その解答を極端なシチュエーションにおいて確認するための道具であると考えることができるのではないか。その解答とは、無論、彼女たちにおいては他者が自らの価値を認めてくれる(しかも自らの属性ではなく、自ら自体を認めてくれる)恋愛であるわけだが。
これに対して、庵野監督の場合は多少状況が異なっているように思える。エヴァンゲリオンの展開を見ても、あるいはその終局的な様相を見ても、監督が解答を提出し得たとは思えない。むしろ、エヴァンゲリオン全体が、考えられるいくつもの解答を示しては、それが終局的な解決になり得ないことを確認していく作業であったようにすら思える。恋愛、家族という絆、あるいは国家や人類といった巨大な使命。そのいずれもシンジを救うのに十分ではなかった。監督は、その過程を、すなわちシンジが救いを求めてはことごとく拒絶されていく、あるいは自ら幻滅していく過程を自ら辿っていったのではないか。リアルタイムに、エヴァンゲリオンという物語全体をつくり出していく過程において。
だとすれば、事態はある意味で深刻であり、ある意味で良心的である。本来終局的な解決になり得ない「恋愛」という絆を絶対視することによって偽りの救済を与え、あるいはその救済を自らも信じ切ることができずに物語全体を破綻させるのに比べれば、良心的な結末を迎えたという評価は可能であると思う(まさに宮崎哲弥がそう評価したように)。一方で、本来忘れ去られるべき問題を拡大し、終局的な解決の不在に焦点を当ててしまった挙げ句、偽りの救済すら与えなかったこと。すなわち、人々を「日常」から引きはがし、しかも「日常」へと帰っていく術を与えなかったことは、非常に問題であると思われる。
その意味で、映画版のパンフレットで鶴巻和哉が語る、以下のようなセリフ……「普通に生活できて、普通にコミュニケーションとれてる人が見てもしかたない作品なんですよ」「確かにアニメファンという小さな括りで見ると、庵野秀明のいう通りなんだけど、一歩退いて日本人という括りで見ても、同じような問題があるという事なのかもしれませんね」は、何も考えていないものだという思いがする。そもそも普通の「アニメファン」にしても、ある程度のコミュニケーションは取っているし、ある程度世間との決着をつけていかなければ生活できていないはずである。それができていないのは「引きこもり」とかそういう類の人間であって、それはむしろ「アニメファン」のような世界とは異なった、別の次元の問題系であるように思われる。むしろ、世間との決着が付けられず、自らの内部の問題を拡大してあたかもそれが世間に存在する問題のすべてであるかのように考えている庵野監督の方が「おかしい」のではないか。(あまり「エヴァンゲリオンは中産階級の問題隠蔽の典型である」みたいなものいいをしても仕方がないのではあるが……)
また、(この指摘の当否については断言しかねるものがあるが)そのような庵野監督の思考が、「自分の問題さえ解決すれば世界はうまくいく」「悪しき問題は自分の中にのみあるのであって、それが解決すれば問題なく運営される社会が姿を現す」という、私のいうところのデフォルト主義的な世界観につながっている可能性を考えておく必要がある。だとすれば、「結局エヴァンゲリオンは戦後民主主義のもたらした問題の果てなのである」という指摘は免れ得ないものになるだろう。
かくして、私は当初の「エヴァンゲリオンは壮大な失敗作であった」という評価を修正することを考えている。成功か失敗かという尺度は、何が成功であり何が失敗であるかに関する認識が共有されている場合にのみ有効である。しかし、庵野監督と、彼の創造した物語を受け入れる側のあいだには、そのような先行了解が存在しなかったのではないだろうか。もし彼の狙いが「問題を描き逃げすること」にあったとするならば、これほど効果的な作品もなかったわけであり、結果として彼はまんまと成功を収めたことになる。その可能性は薄いにしても、彼が一般視聴者を翻弄することを通じて最終的な興行収入の最大化を狙っていたとしても、そうだろう。エヴァンゲリオンを「失敗作」と評価するのは、あの物語に物語としての終局、すなわちシンジの救済を求めた人間のみであったのではないだろうか。その種類の人間——すなわち、シンジと同じ類の人間であると自覚するもの——にとって、救済への願いは切なるものであった。それは、野火氏の論考の悲痛な叫びに良く現れているだろう。そして、私は私自身がその種類の人間であったことを否定しようとは思わない。だからこそ、私は映画版を——あるいはエヴァンゲリオン全体を「失敗作」と断じてしまったのではないだろうか。
これは断片的な情報をもとにするいい加減な推測ではあるが、だが、庵野監督自身は例えばテレビ版最終2話を、壊れるものなら徹底的に壊したかったという言い方で現しており、狙ってやった成功という評価は自らもしていないように思われる。だが、(陳腐な言い方にはなるが)無意識の領野ではどうだったろうか。彼が、このまま偽りの終局を描き出すという世俗的な成功より、問題を描くという隠された狙いを満足させる方を無意識のうちに選好したとは、言い得ないだろうか。
9月18日
T氏の意見: エヴァンゲリオンは、シンジの物語として読めば筋が通っている。しかし当初はロボットものとして始まったのであり、その観点から評価する限り決着をつけたとは言えない。
私の意見: 基本的に肯定。あとは、エヴァンゲリオンがそもそもロボットものとしてみられるべきだったのか、シンジの物語として読むべきだったのか、あるいは学園ものであったのかという問題になる。事後的な話にはなるが、結論的にはやはりシンジの物語だったのだろう——考えたら、事後的にしか決定できないんだからTさんに対する反論に全くなってないな。
ともあれ、言いたかったのはこういうことだ。エヴァンゲリオンの主人公がほぼ間違いなくシンジだったのだろうということの理由は、無論そう言われていたからでもあるが、彼の内面にしか「決定的な解答の不在」という問題が存在していないからとも言えるのではないか。否、むしろ解答を突き付けられ、次々と答を提示していくのだが葛藤を逃れられない、というエヴァンゲリオンの根本的な(悪夢のごとき)世界を生きているのは、シンジだけなのではないだろうか。幾人かを考えてみる。綾波——問題の不在。ミサト——恋愛、もしくは日常への逃避。リツコ——「人間」と「女」の相克。この人々は、結局葛藤なしにあらかじめ決められた結末へとまっしぐらに落ち込んでいくようにすら思えるのだが。
平成10年1月1日
本稿の目的は、ビルドゥングス・ロマンとしてのエヴァンゲリオンがいかなる「問い」に答えようとしたのか、またその「問い」を問うことはそもそも適切であったのかについて考察することである。
本論に入る前に、容易に考え得る批判について一言する。それは、「庵野監督の意図はそのようなものではなかった」というものである。
このような論調は、既存のエヴァンゲリオン評論の至るところに見られる。例えばテレビ版最終2話に着いて。それを「単純な失敗作」と批判する人々に対して擁護派は庵野監督の発言を引き、それを否定しようとするであろう。これに対し、批判派は往々にして、「いや、しかし私にとっては失敗作なのだ」という口調を取るように思われる。しかし、それは妥当なことなのだろうか。
ここで哲学上の煩瑣な議論に立ち入ることは避けるが、ある個人の外的に示された行動からその個人の意図を推定することは、事実的には可能であるが規範的には不可能である。という意味は、実際に我々が日常的にそれを行なっている以上それが不可能なわけはないが、我々が推定した結論が正しく、本人の認識が誤っているのだと言うことはできないのだということである。
しかし、これは本人の意図に対する本人の認識の特権的な地位を確認するものではない。我々は往々にしてそのような罠にはまりこみがちである。つまり、「本当に」その人がそのとき考えていたことを知っているのは本人だけである、と。しかし我々は翻って考えなくてはならない。本当にその本人は自分の「意図」などを知っているのかと。本人の人格における連続性は保証されているのだろうか。あるいは、自分に問いかけてみよう。私があるときある行為を欲したとして、そのとき私はある意図を持っていたのだろうか。むしろこう言うべきではないのだろうか。私は端的にそのとき、何の意図も持たずその行為を欲し、その行為を為した。その後、私はある人に「君は如何なる意図をもって行為したのか」と問われ、そこで翻って考えた。
この時、「意図」について考える自分は、行為したときの自分ではない。あえて言うなら、もっとも持っている情報量の多い他者であるに過ぎない。
我々はすでに、本人の述べる「意図」に特権的な地位を認めない例を知るであろう。例えば、刑事事件における「殺意」の認定についてはどうだろうか。そのとき殺意があったか否かについて、本人の陳述は特権的な地位を認められているだろうか。答は、明らかに否である。では、それは何故か。無論、ここで経験則を持ち出すことができる。人は自らが不利になる陳述を好んでしはしない。従って、本人が有利になる陳述に関しては作為があることを疑う必要がある。
では、本人が不利になる陳述をあえてした場合には特権的な地位が認められているだろうか。答は、再び否である。

自分の存在の根元を問わないことこそ本質的である。
「最高ですか?」我々はこの問いに対してどう答えれば良いのか。答えないことが正しいのではないか。
無条件の「問うこと」は許されない。それが許されるのは、相手がそれを許容するからである。それを「愛」と呼んでも良い。だが愛の存在は相手が認める限りにおいて認められるであろう。従って、「愛しているから」何事かが正当化されると考えるのは誤りである。

 

『人狼』見ちゃったよ(*1)

平成12年8月6日(日)

ええと、巷で噂の『人狼』(*2)をようやく見てきました。

まずよいのが音楽と映像。人物は色彩的にも形状的にもデフォルメを抑えた描写になっています。非常に抑えた色調で影も少なめ(*3)、ともすれば平板に終わりそうな手法なんですが、仮想の過去としての東京の描写ともあいまって淡々とした味わいになっているあたりが上手いですね。特に個人的に気に入ったのは路面電車の描き方で、確かにああいう曲がり方をするよねえ、と昔ひろでん(広島電鉄)(*4)によく乗っていた人間としてはなつかしかったわけですよ。

ええと、しかしながら。先程も使った「仮想の過去としての東京」、つまり実際にはどこにも実在しなかった仮想の光景であるにもかかわらず、何故か我々が昔なつかしいものとして懐旧してしまう東京の風景というのは押井監督(*5)が『機動警察パトレイバー The Movie』(以下、『P1』)とかでその描写を追及してきたもので、私はP1では成功していると思うのですが、『攻殻機動隊』ではアジア風味と水底の風景(地球温暖化による都市の水没) を組み合わせた過剰演出の結果この都市がどこなのか誰にもわからなくなって失敗したように思います。問題は我々がなつかしさを感じる「よすが」としてのガジェットがどの程度あるか、という点にあって、その意味で言うと学園紛争とか路面電車とかが体験として感じられない一般的な若者にとって『人狼』がこの面の演出で成功していると思えるかはやや疑問(*6)。ただ私は気に入ったと言えるだけです。

音楽は——私はてっきり川合さんだと(事前には)思っていたのですが、彼はあれだね、偉くなってしまったのだね。『リング』とかやってるのには驚きましたよ——溝口さんという方だそうですが、絃楽器の使い方が非常に効果的でした。こちらも過激な演出というか、音の量で勝負というハリウッド的な使い方はほとんどなくて、むしろ音の数を減らしてごく一部を際立たせるような演出でした。

ストーリーは、ですね。ええと、かっこいいですよ演出。私にはよく善悪がわかりませんが銃撃戦も迫力あるし。和製アクション映画と銘打たれた『いつかギラギラする日』を見たときには「そうか、ハリウッドってやっぱりすごいんだ」と認識を新たにしましたが(深読みすること)、『人狼』はそんなことないです……って比較するのも悪いか。『ケルベロス』をきちんと撮った人たちなので、多分大丈夫なんだと思いますよ。

ええとストーリーね。うん、あの、演出は雰囲気が出てていいですね。こう何と言うか、全体を覆う時代の重苦しい空気と、その中での許されざる恋、だからこその思いの美しさとか、言葉にすると歯が浮きますが、これが音楽が盛り上げて卑怯なんだ。人のこと泣かせようとしちゃいけない。いい大人なんだから。

あ〜ストーリーですか。ええとええと。実のところ、ですね。主人公二人の物語は大変に趣深いのですが、こう、それを取り囲むオヤジたちの話というか、『犬狼伝説』がそういうものであったような陰謀ものストーリーというか、つまり政治的対立を前提にした情報機関の暗闘を描く部分があるのですが、そこの出来はよくないと思います。問題点etc.を指摘しようとするとネタばれを含んでしまうので書けませんが、一言でいうと陰謀としては拙劣だし登場人物の行動に必然性なさすぎ。

ミステリとかスパイものというのは基本的に、その登場人物の全員が可能な限り理性的かつ賢明な行動を取る、という前提で成立するエンタテインメントであってですね。犯人がついうっかり電車を乗り間違えたためにアリバイが成立した云々というのは例外としてはともかく(*7)、本道としてあってはならん存在なわけです。その意味では、こう、良い点はあげられないよねえと思う。実はここに、今回の監督が押井監督でないことの問題点が出たなあと思うわけですが。

総合して言うと、お値段分の価値は確実にあると思う(ちゃんと大人料金払って見たけど)(*8)。ただ、映画の雰囲気に酔うだけじゃなくてストーリー全体を理解したいのなら、あらかじめ『犬狼伝説』(*9)を読んでおくのは必須。雰囲気はわかりやすい映画なので、他の押井ものと違って怖がる必要はないと思います。

新宿テアトルでの上映は11日までらしいですが、そのあとも池袋テアトルに移って上映を続けるらしいので、夏休みにちいと高等な映画を見たいと思ったらお勧めではないでしょうか。

*1) このタイトル自体が「ばけこ」氏のパロディマンガシリーズ(『アニパロコミックス』掲載)へのオマージュであることに気付く人はどれくらいいるのだろう……
*2) 『人狼』原作・脚本 押井守、監督 沖浦啓之。
*3) P1等で押井監督が試みた手法の延長線にある、と言うことができるのだが、第一に押井監督が拘泥していた・何の意味があるのかわからない魚眼レンズ描写がないのと、第二に「原作」と比定されてついイメージを規定してしまうようなものがないせいか、こちらの方がよほどうまくいっているように見える。
*4) 広島市内を縦横に走っている路面電車。私鉄。各都市での路面電車廃止に伴って不要になった電車を引き取って走らせていたり、原爆に被災した車輛がまだ現役だったり、異様に物持ちのいい電車。
*5) 上述の通り本作では監督をしていないのだが、この人物を形容するのに「監督」以外に適当な言葉を思いつかないので以下このように書く。
*6) 東大構内にある銀杏並木(正門〜安田講堂)のアスファルト道路を敷石に戻す工事が行なわれたときに、愕然として「日本も平和になったもんだ」と思ったのですが、こういう感慨を共有してくれる同期生はほとんどいませんでした。平和だよねえ。
*7) 『アクロイド殺人事件』はクリスティが最初の一人だったからOKなんで、他の人間がそのあとにやったらただの駄作。
*8) 学者が学割料金にならない点にまだ納得がいっていないらしい。
*9) 『犬狼伝説』原作 押井守、作画 藤原カムイ。角川書店 Kadokawa Comics 藤原カムイコレクション [1]、1999。