討論を終えて

小河原 誠

 私の報告に対して、当日、会場で御批判してくださった方、また、個人的に問題点を指摘してくださった方にまずお礼を申し上げたい。以下では受けとめることのできた批判を三点に絞って、現時点における自分の考えをまとめておきたい。

1. 「討論的理性」の概念について

 ポパーは伝統的な認識論を科学方法論に転換させたと思う。ポパーにとっての基本的問題は、たとえば、知覚とか認識はわれわれのうちにおいてどのような心的過程をへて生じてくるのかといった事実的な問題ではなく、知識を成長させるためにはわれわれは如何なるルールにしたがって学問的営みをすべきかという規範的な問題であったと思う。そして、ルールの設定(提案)は、明かに共同の営みに対する社会的、あるいはこう言ってよければ、政治的なかかわり(介入)を意味するであろう。この意味において、彼の知識論(科学方法論)は、初めから社会哲学であったと言えると思う。
 私は、彼の科学方法論がルールの設定にかかわるのであるとすれば、その一群のルールは、自然科学の営みを規制するためのルールとしてのみならず、(もし必要ならば、修正をほどこした上で)討論一般のためのルールとして受けとめることができるであろうと考える。こうしたルールの体系は「合理性」という概念のもとで、把握されるのであろうが、私は、我が国の思想的風土のもとにおいては、真の意味での「討論の精神」といったものが希薄なのではないかと考えるので、あえて「討論的理性」と名付けた次第である。
 討論的理性とは、平たく言って、社会的なルール、換言すれば、社会のなかで後天的に育てられるべき社会的な態度であるから、ここから倫理的規範を引き出すことは容易である。むしろ、討論的理性自体が倫理であると言った方がよいかも知れない。(倫理の問題については、また後で触れる。)
 さて、「討論的理性」ということを言いだせば、当然のことながら、「では、そのルール体系を詳しく述べてみよ」という要求の前に立たされることになろう。私は、この課題を果たすにあたっては、ポパーの『科学的発見の論理』をルールの体系として解読することが第一歩であると考える。具体的には、I. ヨハンソンの先蹤にしたがって、研究をすすめていきたいと考えている。

2. 下からの合理性

 この言葉を使うことによって、「非正当化主義的合理性」を必要以上に「政治化」しているのではないかという批判を受けた。換言すれば、もともと知識論の内部で構想された非正当化主義をストレートに政治的文脈に移し変えることに対する懸念が表明されたわけである。
 こうした批判に対しては、すでに述べたように、討論的理性が最初から社会哲学的な概念であることを再度強調しておきたいと思う。ここで詳論することは控えるが、私としては、正当化主義的合理性が、いわば天下り的合理性として権威主義と強い親縁性をもつのに対し、下からの合理性としての非正当化主義的合理性は制度の建前の論理に対するプロテストを支えるものであるという点を強調しておきたい。
 シンポジュームの終わった後、NHKの番組(「新・日本人の条件」)を見ていたら、山形県のある小さな町の町長がヒモつきの補助金(実に、一つの建物に二つの玄関を設置しなければならないとか、一つの店からものをかっても提出先毎に領収書を書いてもらわねばならない、等々)の是正を求めて陳情している姿を伝えていたが、町長の行動は下からの合理性を体現するものであると思わざるをえなかった。官僚たちは、補助金が国会の承認を受けたものであり、それを遂行することは正当であり、合理的であると考えているのであろう。彼らにとっては、国の政策が現場でテストされ、苦情を上申されてくることは煩わしく厄介なことでしかないだろう。しかし、こうした場面で如何なる行動が合理的なのかということを考えた場合、この町長の行動に見られるように、欠陥をはっきりと指摘し、その除去を求める行為のみが合理的であると言わざるをえないであろう。正当化主義的合理性のみが合理的であるとされていたら、町長の行為は非合理な反逆行為となってしまうことであろう。
 下からの合理性の概念は、政策が遂行されるあらゆる局面で草の根民主主義を支援する合理性の概念になると私は考える。下からの合理性は、行為の合理性を評価する概念であるから、これを担う集団とか政党といったものを想定する必要はないであろう。合理性の概念はどのような行為にも、また行為の主体に対しても適用される概念である。

3. 倫理の問題

 私は、すでに述べたように、討論的理性(の概念)から倫理を引き出すことに問題はないと考える。実際、ポパーも『よりよき世界を求めて』の第14章では「新しい職業倫理」を知識論的考察から引き出している ― もっとも、大胆におこなっているとはいえないと思うが。私は、可能なかぎり大胆に討論的理性から倫理を引き出すべきであると考える。
 たとえば、限りなき無知を前にしてのわれわれの平等、世界2に対するパーソナルな批判ではなく世界3における客観的で非個人的な批判、可謬主義に由来する寛容、議論における負(マケ)を生きるということ、友好的にして敵対的な批判というときの最適な批判のあり方、立場ではなく問題の共有。
 こうした倫理の体系が全体としてどう名付けられるのかということをわたくしは知らないが、これが「知識論的偏向」をもっていることは、いままでの議論からしても明かであろう。しかし、この「偏向」は糾弾されねばならないものなのだろうか。確かに、糾弾はされないにしても、批判を受けることは間違いないだろう。私は、桂木氏の交換を原理とした「市場倫理」という考えを聞いて、知識論的偏向をもった倫理と市場倫理とはどうかかわってくるのだろうかと思わざるをえなかった。ただ、私としては、知による人間の解放というソクラテス的理念にこだわった場合、真理が「交換の原理」によって歪められることのないようにと願わざるをえない。しかし、いずれにせよ、知識論的偏向をもった倫理をきちんと組み立ててみることをしなければ、他の倫理体系と討論することもできないと考える。