「観測問題」とポパー量子論

篠崎 研二


はじめに

量子論のいわゆる「観測問題」の研究が最近一つのブームを迎えている。なかでも、1982年のアスペの実験を筆頭とする、ベルの不等式が破れていることを立証した一連の実験結果(1)には、それが量子力学の当然の予測とはいえ、その「常識」との乖離にあらためて驚かされることとなった。その点ではポパーも同じようだ。

こうした実験結果に驚いたことを私は認めざるを得ない。クローザーとシモニーがベルの定理を検証しようとしているという話をはじめてきいたとき、わたしはこれで量子論は反駁されるだろうと思った。けれどもこの予想は間違っていたようだ。多くの実験は違う結果に至ってしまった。(2)

そして、遠隔作用の存在を認め、特殊相対論を放棄しなければならなくなる可能性に言及した後、こう言っている。

もちろん、相対論による数式の説明は単純で美しく、説得力があるというのに、いまどきローレンツの静止エーテルにニュートンの絶対空間と絶対時間を持ち出すなど、半ば論外に響くだろう。私の見方では、アインシュタインの理論の決定的な重要性は、ニュートンの理論が別の理論に置き換えることができる(原文イタリック)ことを示したという点にあるのだ。つまり、ニュートンの理論自身が、従来提案されたどの理論よりも成功したものであったが、これよりももっと視野が広く、ニュートンの理論の成功のすべてはまたその理論の成功にもなるという関係にあり、さらにはニュートン理論の結果をいくつか修正するような理論があり得るということである。だから私にとっては、このような論理的状況のほうが、二つの理論でどちらがより真理に近いかという問題よりも重要なのだ。(3)

アインシュタインと相対論がポパーの思想形成に果たした役割を考えると、この言葉には驚きを感じる。「ベルの不等式」が破れたことの哲学的意義はそれほど重いということだろう。しかしそれは別にして、以上の議論を聞くとポパーの量子論について考え込まされてしまう。ポパーは言うまでもなく、「隠れた変数」理論の立場は取らず、シュレディンガーの波動関数の確率解釈をはじめ、量子力学の基本的枠組みは認めている。「コペンハーゲン解釈」は批判しても、理論のどこかがおかしいという主張はしていない。とすればその理論の必然的結果であるベルの不等式の不成立になぜ驚くのだろうか?
エレクトロニクスの進歩でかつての思考実験が本当にできるようになったこともあって、量子力学の基礎、特に観測問題に対する理解は深まりつつある。その結果、「コペンハーゲン解釈」も含めて多くの議論が修正を迫られている。ポパー量子論もその例外ではないということだろう。量子論をめぐる認識論な議論においては「不確定性関係」と「EPRパラドクス」と「波束の収縮」がいつも話題になる。 "Quantumtheory and schism in physics"(以下QSP)でも、これらをめぐって刺激に富む議論がなされるが、また疑問も少なくない。本論ではなかでも「波束の収縮」−いわゆる観測問題をめぐって特に疑問に感じられる点をあげ、問題提起としたいと思う。

量子論の泥沼

 波動関数Ψは多くの固有状態φiの重ね合わせからなるが、観測できるのはある特定の固有状態である。だから測定によって、たとえばφ3にあることが見出されたとすると、ほかのφi (i≠3)はすべて消失してしまう事になる。すなわち、

 Ψ=Σaiφi → φ3                      (1)

とΨは収縮する。これがいわゆる「波動関数の収縮」(4)のコペンハーゲン解釈だ。これはシュレディンガー方程式によっては記述できない非因果的過程で、これから主観の作用とか「シュレディンガーの猫」といった多くの議論が生じた難問である。ここに「量子の異常な大泥沼」(5)があるというから、これをめぐる議論がよほど嫌いなのだろう。この泥沼は確率の主観的な解釈に起因するもので、これを正せば雲散霧消するとポパーは主張する。ポパーの主な論点は以下の二つにまとめられる。
量子論は統計理論である。混乱は統計的命題を単称命題に取り違えたところからくる。シュレディンガーの猫が死んでいる状態と生きている状態の「重ねあわせ」で、観測して初めてどちらかに確定する、などというのはそのことからくる混乱である。つまりそれが意味しているのは、シュレディンガーの猫でも犬でも百匹捕まえてきて、同じ実験を百回やれば、そのうち五十匹は死んでいて、五十匹は生きているということを言っているに過ぎない。
量子論における(そして一般に物理学における)確率は、実験の行われる条件bに依存する条件付き確率である。すなわち事象aの起こる確率はP(a,b)と書かれる。観測を行えばこのbが変わり、したがってP(a,b)もその瞬間変化する。これは確率論では当然のことであり、何の神秘もない。
QSPにおいては特に後者について、ピンボールやランダムウォークのたとえで詳細に議論されている。こちらを先に議論してから後者についても論じたい。話を簡単にするために1次元のランダムウォークを例に取る。一直線上をある人が一秒間に一歩ずつでたらめに進む。一歩で1メートル進むとすると、t秒後にその人が原点からxメートル離れた場所にいる確率P(x,t)は、

 P(x,t)=(2πt)-1/2 exp(-x2/2t)       (2)

で与えられる。10秒後のその人の場所を問題にしょう。その確率分布はP(x,10)で与えられる。これは鈴の形をしたガウス分布関数で、ポパーが確率の「雲」と呼ぶものだ。(6)実際に観測したら、原点から3メートルの場所(x=3)だったとしよう。すると確率分布の雲は、

P(x、10) → P(3,10)=1、 P(x,10)=0 (x≠3)  (3)

とx=3の一点に「収縮する」というわけだ。  これは(1)式と形式上似ているが、本質的に同じことだとポパーは主張するのである。
しかし私はこの説明で観測問題が解決するとは思わない。第一の反論はこうだ。
シュレディンガーの波動関数は系の客観的記述であるとすれば、それは観測の過程にも適用可能できなければいけないと考える。測定装置もミクロな物質からなるのであるから、これにも量子力学が適用可能なはずだという議論に私は賛成である。この立場は、波動関数の客観性を主張するにあたっても重要であると思う。つまり、ポパーの言うP(a,b)で条件bが変わるという過程そのものも量子力学の場合は理論の対象となるのであり、それを描き出せなければ観測問題は解決していないということである。
波動関数の収縮はシュレディンガー方程式で記述される因果的な記述を逸脱するものだ。「測定器である巨視系との相互作用で収縮するのだ」というボーアの「説明」で大方の物理学者はわかったふりをしていたものの、結局この問題は「理論外」のこととして扱われてきたのだと思う。この態度は、波動関数の実在性を犠牲にして、それを系についてのわれわれの知識を表すものだという立場に通ずる。ポパーの条件付き確率による説明も実はこの「理論外」のことだ、という説明の一種であると思う。実際、固体物理学の大家で「正統派」のパイエルスは、波動関数はわれわれの知識をあらわすとしながら、ポパーとまったく同一の解釈をしている。

量子力学では、波動関数とか系の状態関数とかいう言葉を使うが、これは数学的なもので、系についてのわれわれの知識、たとえば電子の知識をあらわすものだ。さて、観測をすると、波動関数による記述を、系についての新知識を計算に入れた新しい記述で置き換えてやらねばならぬ。(7)

しかし、ノイマンとウィグナーはその説明に満足せず、巨視的測定系も微視系の集まりであり、これにも量子力学は適用されなければならないと主張した。そこで生じた難問は純粋状態、すなわち確率振幅が干渉可能な状態から混合状態、すなわち振幅の干渉がなく、各状態が排反事象になっている状態への変化がいつまでも起こらないということである。たとえばガイガーカウンターと粒子が相互作用し、観測者がカウンターの目盛りを見る。目盛からの反射光を視神経が感じ、さらには視神経からの信号が脳に達する。これらすべてに量子力学が適用可能で、この過程でいつまでも純粋状態から混合状態への変化が起こらない。そこでウィグナーは収縮を起こすのは「抽象的自我」だと主張するに至った。この明らかに観念論的な結論は、しかし、あくまで波動関数の客観性を追求した結果といえないこともない。そこで第二の反論に至る。
測定過程もシュレディンガー方程式によって記述されなければならないと考えることによって「観測問題」が発生するのであるが、議論の端緒であるノイマン、ウィグナーのころから、そこで問題にされていたのは(3)式のような確率の収縮ではなかった。問題は観測によって、確率振幅が干渉可能な状態(純粋状態)から干渉のない状態(混合状態)にいかにして移行するのかという点にあったのだ。
(2)式、あるいはP(x,10)で表される古典的確率分布においては、各事象は排反であり、P(3,10)とP(5,10)との干渉など無い。しかし量子力学的確率においては、二重スリットの実験に見られるように、スリットaを通った事象とbを通った事象とが干渉するのである。ところが、どちらのスリットを通ったかを観測してしまうともはや干渉は起こらず二つの事象は排反となる。つまりψaとψbとは位相相関を失う。なぜ測定によってこうなるのかが問題にされてきたのである。ファイヤアーベントが指摘しているのもこの点である。(8)
だからポパーの議論は噛み合っていないことになる。そして、主観的解釈へと誘惑する量子系の奇妙な振る舞いはもっぱら振幅の干渉のほうからきているので、これを客観的過程として表現し得なければ問題はまったく解決しないといわざるを得ない。(9)
それでは「シュレディンガーの猫」のほうはどうなるであろうか。これが排反事象の収縮について語っているのであればポパーの指摘は正しく、また誰も反対しないが、純粋状態における重ねあわせについて語っているのであれば正しくない、ということである。純粋状態では系の状態は定まっておらず、測定によって初めて定まるというのは量子力学の否定しがたい帰結であると思う。さて実際問題としては、放射線を検出した段階で「測定」は終了しており、猫の生死は排反事象になっていると私は考える。
 観測問題を実在論的に解決するためには少なくとも以下の課題を達成する必要があろう。
1)純粋状態から混合状態への変化が測定器との相互作用の結果として量子力学の枠組みの中で計算される。
2)その結果生ずる混合状態は、たった一つの固有状態に収縮するというのではなく、いくつかの排反事象の間の統計分布を与えるもので、それは多数回の実験によって実証される。
 いろいろある解決の試みの中で、どれがもっともすぐれているかな判定する能力をわたしはもたないのであるが、最近の、並木・町田らによる「多ヒルベルト空間理論」(10)はこのような性格を持っている注目すべき理論である。この理論は上記の性格を満足するだけでなく、波動関数の収縮には有限の時間がかかること、測定の条件によって純粋状態から混合状態への中間状態があることを示した。
しかし、上記を達成したとしても「観測者」が追放されるわけではない。測定器をセットするのは観測者だから、人間が測定を行わない限り、自然はいつまでも純粋状態にあるということになる。「観測者なき量子力学」への道すじは、それが可能かも含めて、まだ定かではない。

傾向性解釈と多重宇宙解釈

 ところで、観測問題の奇抜な解決のひとつにエベレットの多世界論がある。ポパーはこれを批判しているものの、意外なほど評価が高い。これには、観測者が不要だということだけにとどまらない、深いわけがあると私は思う。ポパーの傾向性解釈と多世界論には親近性があるのだ。

 ポパーは傾向性解釈の量子論への適用に続いて、QSP終章の「形而上学的エピローグ」で世界観としての傾向性を提唱する。「フィルム」のたとえである。それは世界を導く波動関数である。この話が多世界論に非常に似てくるのだ。実際、ポパーも自分こそ先駆者だとほのめかしつつ、それを認めている。(11) しかし似るのには必然性があり、それにポパーが気づいていないかに見えることこそ問題なのだと私は思う。だがまずポパーの議論を要約しよう。
映画のフィルムのようなものを考える。ただしそれはわれわれの現実を描く映画である。現実世界のある時刻にそのフィルムを「合わせ」よう。つまりその時刻に相当するフィルムのコマの内容と現実とが完全に一致するようにする。さて、「古典的(決定論的)フィルム」は、ラプラスの魔の世界で、一定時刻に合わせられれば未来も過去も決定されてしまう。これと対極にあるのがまったく非決定的な「混沌のフィルム」で、一つのコマの中にあらゆる可能な事象のカタログが集約されている。まったく予測能力を持たない。現実の世界は、継続性はあるが非決定論的な世界である。だから時間が進むにつれて古典的フィルムとは次第にずれが生じてくる。一定時間たった後で「合わせた」もう一つのフィルムは、未来と過去を一元的に予測するが、前の時刻に合わせたフィルムとは異なっている。現実の世界に相当するのは「傾向性のフィルム」である。これは一つのコマの中にさまざまな事象がウェイト付けされて存在している。世界のさまざまな可能性を示す、「世界の波動関数」である。
この、量子論をモデルとする傾向性解釈による世界観を、ポパーは非決定論的世界観の根拠にしようとしているように見える。ところで、世界への、というよりも「全宇宙」への量子論の適用というのは既に試みられているのである。それには難点がある。「全宇宙」は単一(singular)であるにとどまらず、「唯一(unique)」だということだ。(だから、universeなのだ。) しかし、確率理論は必ず統計集団(確率母集団、標本空間)を要求する。「次のサイコロ投げで6が出る」は単一事象であるが、サイコロ投げは繰り返しがいくらでも可能で、その統計集団を作ることはできる。あるいは、電子や陽子は同じ物がいくらでもあるので、同一の実験をいくらでも行えるから統計集団を作れる。実際、ポパーはこう言っている。

それ(確率の傾向性解釈)が、私の知る限り、「繰り返し可能な実験」への確率計算の適用についての最善の解釈だということである(12)

しかし、唯一事象はその定義からして繰り返し不能で統計集団が作れない。そこで「多重宇宙解釈」としてのエベレットの多世界論が、宇宙論への量子力学の適用において脚光を浴びることとなったのだ。世界観としての傾向性解釈は唯一事象への確率理論の適用という点で、エベレットの理論と同様の性格を持っているのだ。したがって論理的には多重宇宙解釈をとらなければならないのだが、そうしないので確率分布関数たる「フィルム」はその「相手」を失う。たとえば「傾向性のフィルム」はさまざまな出来事がウェイト付けされているが、それを現実と対比するすべがない。世界は一つだから、そのウェイト付けは何の頻度分布も与えない。「ウェイト」は反証不能だ。「傾向性のフィルム」は単に「波動関数の収縮」を連発する極めて無能なフィルムだ。論理的にはここで多重宇宙解釈を取って、「傾向性のフィルム」のウェイトは多重宇宙における出来事の頻度分布を与えると解釈するほかはないと思う。もちろんこうしても、われわれは他の宇宙のことなど知り得ないのであるから、新たな知識を得るわけではない。この辺の事情も多重宇宙解釈と良く似ている。
このような、確率母集団に無頓着なポパーの議論には私は違和感を覚えざるを得ない。なかでも不可解なのが、「古典的」フィルムがどの時点で予測能力を失うかを論じたくだりである。それは、古典的フィルムがたとえば100の事象を予測するものであった場合、その1/2以下、つまり50以下の事象しか正確に予言しなくなったときだ、とポパーは言うのだ。(13)つまり相互に全く無関係な事象についての予測の当たり外れを足しあわせた星取勘定で「確率」を定義しているのであるが、このような「確率計算」が許されるとは私には思えない。しかも皮肉なことにそうした「計算規則」がまがりなりにも与えられた「古典的フィルム」だけが、三種のフィルムの中で反証可能なのである。

確率予測と「くり返し」可能性

「全宇宙」ではなくて、「来年の7月7日の天気」という事象はどうだろうか?これもくり返し実験は不能である。だから傾向性解釈をしようとも、確率予測をすることができるとは私には思えないのだ。だいたい予測値をどうやって導出するのだろうか? (まさか過去の天気の統計データではないだろう。それでは帰納の論理になってしまう。)これに似た議論が "A world of propensities"にある。「ブライトンの6月の日曜日が雨になる確率は五分の一である」という言明は、その後たとえば百年統計をとって、約400回の日曜日のうち、80回が雨であれば真であるというのだ。(14)これは帰納の論理を免れているが、「ブライトンの天気」も同様に確率予測などできないと思う。ポパーもこの事は分かっているはずだ。"A world of propensities"では次のように言っている。

フランク−ヘルツの実験で重要なことは…たくさんの電子が関わっているので、傾向性を測定できるということだ。というのは、統計的測定においては、電子が沢山あるおかげでくり返し測定を延々とやらなくても済むからだ。しかし多くの事象はそうではなくて、関連する条件が変化し再現できないために傾向性は測定できない。(15)

天候に「関連する条件」ほど複雑なものはなく、カレンダーの日付が同じだからといってそれを再現したことにはならないのは明らかだ。ポパーの態度は首尾一貫していないと言わざるを得ないのである。
さて、唯一の、あるいは繰り返し不能な事象と、繰り返し実験できる事象との間にはグレーな領域があるだろう。また、「繰り返し」になっているかどうかということ自体が「理論負荷的だ」という、いつもの議論も生じよう。しかし、複雑さが増すにつれて事象はいずれ「繰り返し不能」になるのであり、その時点で頻度解釈とは切り離され、したがって傾向性解釈は確率の客観的解釈ではなくなってしまう。ポパーは、競馬の再現性の薄さを認めて次のように言う。

傾向性解釈は競馬の賭けには適用できないと主張されてきた。たとえそうなったとしても、私は別の解釈を薦めるだけだ。私は競馬のことは良く知らないが、ある馬に賭けるにあたっては馬の持久力や速力、健康状態などを知ろうとするだろう。これらのことが合わさって、その馬がレースで勝てる傾向性がかたち作られるのだ。(16)

たとえ繰り返しのきかない事象であっても、その「合理的予測」ができることはもちろん私は否定しない。問題は、客観的な確率予測としてのそれができるか否かということなのだ。それができないのならば、別種の「合理的予測」を追究すべきであると考える。しかしポパーは "A world of propensities" で、次のように主張する。

(進化のような)種類の傾向性は、繰り返しが不可能だから、もちろん測定できない。それは一度限りの事だ。それでも、そのような傾向性があると考え、それを見積もってはいけないという理由はない。(17)

たしかに、ある事象の起こる確率は70%ぐらいだと「見積もる」ことはできるかもしれない。実際にはそれが起こらなかったら、現実は30%のほうに転んだのだ、あるいはわれわれは30%の世界にいると「思う」ことはできる。しかしこれは、「確率は主観的信念の強さの度合いをあらわす」という確率の主観的解釈と事実上どれほど異なるのだろうか?適用可能範囲を逸脱した「傾向性解釈」は主観主義への接近だ、というのは言い過ぎであろうか?

私もポパーと同じく、世界の理解と説明を放棄した実証主義や操作主義に未来はないと思う。問題は、量子力学が予言し、実験によって確かめられた事実の「理解」と「説明」が恐ろしく困難であるということだ。それが、物理学者が時として主観主義や観念論に陥る最大の原因なのであって、実証主義や「確率解釈における主観主義」などの「策謀」だけでは片づけられないと思う。
 ポパーと同じく私も実在論の立場を取りつつ、「決定論の悪夢」から逃れたいと思う。しかし傾向性解釈に基づく世界観を受け入れるのには躊躇する。実は、なぜ相対頻度説から傾向性解釈へ「発展」しなければならないのかという論理が私は今一つ理解できなかったのであるが、(18)ともかく「ポパー確率論」を突止めない事にはその世界観はもちろん、ポパーの科学哲学自体も的確に評価できないのだと、"Postscript"を読んで思った。

(1) ベルの不等式を検証する最初の本格的な実験は、クローザー、シモニー(1972年)であるがこれには不備があった。これを解決したのがアラン・アスペの実験(1982年)でこれは大きな衝撃を与えた。さらに改良された実験がハンス・クラインポッペン(1986年)によりなされた。
(2) "Quantum theory and schism in physics" (以下QSPと略記), p. 25.
(3) QSP, p. 29.
(4) 「波束の収縮」ともよく呼ばれる。「波束」は波動関数が限られた領域にあるものを指す。この呼び方はおそらく慣習的なもので、意味するところは「波動関数の収縮」と同一である。
(5) QSP, p. 77.
(6) QSP, p. 124.
(7) 『量子と混沌』 地人書館 p. 110.
(8) P. K. Feyerabend, Philosophy of science, 35 p. 309 (1968).
(9) 蔭山氏も同様の指摘をしている。「傾向性と非決定論的−実在論的世界像 第二部」 ポパーレター  Vol. 9, No. 1
(10) S. Machida and M. Namiki, Progress of Theoretical Physics, 63, 1457 (1980).
(11) QSP, p. 187 注1.
(12) QSP, p. 69.
(13) QSP, p. 180.
(14) "A world of propensities" (以下WPと略記), p. 16.
(15) WP, p. 16.
(16) QSP, p. 69, "Realism and hte aim of science", p. 348‾349にも同様の記述がある。
(17) WP, p. 17.
(18) たとえばQSP, p.79でポパーは「波動関数は1個の粒子の確率分布を与えるものだが、こうした単一の場合(single case)への確率論の適用こそ、傾向性解釈で可能になるものだ」という趣旨の主張をしている。しかし、1個の粒子だろうとその確率分布はやはり多数回の試行によって確かめられる。それは1個のコイン投げの場合とまったく同じである。10個の同一のコインをいっぺんに投げる場合には相対頻度説が適用可能だが、1個の場合には傾向性解釈でなければいけないというのだろうか?