Open Society Forum


ポパー哲学とPL法
(編集:小河原誠、蔭山泰之)

編集者による注(1997年9月9日)
以下に公開させていただくのは、東京湾での重油流出事故をきっかけとして小河原と蔭山が交わした私信の一部を両者で抜粋し編集したものである。小河原の書いた第一信を読まれた方は、問題がもっぱらPL法にかかわるかのような印象をもたれるかもしれないが、われわれが扱おうとしたのは科学技術文明がもたらす災害であった。PL法への言及はその部分問題という腹積もりであった。われわれの意見交換と深い関連をもつ論文として、蔭山泰之
「企業組織における批判的方法」(本ホームページの『ポパーレター』vol.3,no.2,1991年11月)、「ポパーとクーン:エンジニアリングの観点から見た反証主義と通常科学」(『ポパーレター』vol.9,no.1,1997年5月)を挙げておきたい。

小河原 誠(1997年7月5日)メールからの抜粋
蔭山 泰之(1997年7月8日)メールからの抜粋
小河原 誠(1997年7月25日)メールからの抜粋
松尾 憲彦(1997年11月7日)メールからの抜粋
小河原 誠(1998年8月28日)書き込み

From: 小河原 誠(1997年7月5日)

ポパーの反証主義と製造物責任法(PL法)を比較することはできないかということを思いつきました。製造物責任法ということで考えているのは、現行のある意味でざる法に近いものではなく、本来の精神です。私の思いつきは、アナロジーが成立するかどうかという点にあります。(アナロジーを考えるひとつの根拠は、商品は世界3をになっているということだと思います。)要点だけ書きます。

反証:商品における欠陥の立証(ユーザー側)
反証のがれ:賠償責任のがれ、言い逃れ(製造者または販売者)
算出可能性:賠償責任の発生条件、あるいは商品が正常に機能するための使用条件(製造者が明示する)

1。科学哲学的議論においては、反証を呼び起こした原因(犯人)の追求は、言明レベルでなされるのみであって、責任者の追求ということは生じない。そして、これはこれで当然。しかし、われわれの通常の社会生活では、誤りを犯せば、それに対する責任ということが絶えず問題になる。ポパー自身が、悪しき統治者(試行をおこなっている者)を速やかに解職する手段として二大政党制を支持しているのは、誤りの除去と責任の問題をペアにして考えている証拠ではないかと解釈できないでしょうか。開かれた社会での誤り除去の問題として、欠陥商品の問題はひとつの典型例ではないかと思われます。

2。厳格責任(無過失責任)
科学のレベルでは、反証を呼び起こした原因(犯人)探しは一般論としては簡単には決着しないと思われます。しかし、欠陥商品の場合にはそんなことはいっておられず、製造者に責任をとらせ、賠償させることになる。この時、責任をとらせる論理として厳格責任の考え方は興味深い。まだ十分勉強していませんが、店主がバーテンダーを雇ったところ、その者が店主の知らない間に未成年者に酒を売ったという場合、厳格責任の考え方からすると、店主にも責任があることになる。

3。厳格責任主義は、誤りから学ぶ組織を作るか?
厳格責任主義が法的に確立するならば、経営者や使用者は、従業員に対する教育を徹底させる方向で対処しようとするかもしれない。それは、いわゆる組織の「締め付け」ということになるかもしれない。しかし、これは本当に有効なのであろうか。欠陥やミスが生まれてくる背後には、数多くのそれとして認知されなかった欠陥、ミス、失敗、小さな事故があったと考えられる。そうした誤りから速やかに学ぶことのできる組織を作った方が有利なのではないか。ここでは、ポパーの反証主義を支えている考え方は強力な支えになると思われる。その組織は、下からの批判が有効に作用するような組織であると思うが、具体的にどのようなものになるのかはよくわからない。

4。厳格責任主義を生み出すものは何か。
厳格責任主義を支持する人たちは、ユーザーは弱者であり、製造者は強者という想定をしていると思います。そして、私も「弱者」、「強者」の概念は日常レベルでもわかりやすく、また現実に使用可能な概念だと思います。弱者は、商品の欠陥を立証するだけでよく、欠陥を生み出した過失が製造者にあったことを立証する義務はないという考えは、今日のハイテク社会では当然といえば当然な考えだと思います。しかし、科学・技術に対する批判ということを考えた場合、弱者・強者という概念はもっと鋭いものにされて良いのではないかと思うのですが、どうアッタクしてよいのかわかりません。

5。製造物責任法から学ぶ批判の概念科学者の世界では、批判ということで、

1.反証
2.反証を引き起こした原因についての推測
3.反証を克服するような新しい仮説の提示
といった3条件、しかも3条件をすべて満たすような議論が模範的な「批判的考察」として褒め称えられているのではないでしょうか。あるいは、こうしたものを「批判」のモデル・デースとしているのではないか ― 言い過ぎかもしれませんが。ところが、製造物責任法の考え方では、ユーザーは欠陥を立証するだけでよく、欠陥を生み出した原因を指摘する必要もなく、ましてや欠陥を生み出さずにすむような別な生産方法を指摘する必要もないということになると思います。これは、「批判」ということについての非常に気楽な考え方でおもしろいし、われわれも積極的に採用することを考えてもよいのではないでしょうか。

6。言い逃れ、責任のがれを防止するもの。
製造者が言い逃れや責任のがればかりしていては、市場メカニズムのなかで信用を失墜することになる。ここからして、おのずと歯止めがかかると考えられる。しかし、算出可能性に対応するものとしての賠償責任の発生条件を明示しておくことでも、責任のがれへの歯止めはかかるのではないか。科学哲学の世界では、市場メカニズムに対応するような「反証のがれの防止」は考えられているのだろうか。科学者は反証のがればかりしていたのでは評価を落とすということか。???

7。「批判」の概念
「批判」の概念を社会哲学的観点から考察していくためには、「当事者」の概念を問題にする必要もあると思います。また、組織のもつ社会的機能を問いただし、しかるべき機能を果たしていないといったタイプの批判を積極的に「批判」概念のなかに組み入れていく必要があるように思われますが、まだどう考えていったらよいのかよくわかりません。

*********************
製造物責任法について勉強もしないで、上のことを書きました。急いで勉強して見るつもりです。おそらく日本国の製造物責任法には筋が通っていないのではないかと予想します。としたら、逆にポパー哲学の観点から法を批判できると思います。


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From: 蔭山泰之(1997年7月8日)

「ポパーと厳格責任主義」のメールを拝見致しました。私も、製造物責任法についてはよく知りませんが、小河原さんが取り上げられた問題は、ポパーの考え方を現実の具体的な問題に適用する際の好適な切り口のひとつだと思います。ここで、参考になるかどうか分かりませんが、システム開発について、強者弱者の現状をいくつかかいつまんで述べてみたいと思います。

パッケージソフトのマーケットでは実際はどうなのかは分かりませんが、少なくともシステム開発では、現在では一般に、システム開発を請け負うベンダーは弱者で、顧客は強者になる場合がしばしばあります。これは、この業界では競争が、しかも過当競争が激しいということが主な原因のひとつでしょう。いまだに1円入札のようなことがなかば公然と行われているという事実からもこの原因は推察されます。

そしてベンダーと顧客の弱者強者の関係は、競合他社がすべていなくなった契約成立後も続くことがあります。たとえば患者を診る前に命を保証する医者などふつうは考えられませんが、システム開発の場合、顧客が本当に望んでいる要件が明確になる前にシステム開発に要する期間と金額が決まってしまいます。もっとも、手続き上では顧客から要件を聞いた後で見積りを出すという順序にはなっていますが、現実にはシンポジウムの報告でも書いたように、システムがかたちになっていくにつれて顧客の要件が変わったり、膨らんだりすることがほとんどです。いわば、10階建てのビルを設計したつもりなのに、実際には20階建を望まれていたといったことです。

以上のような理由のため、一般にベンダーは顧客に対して、閉じた、自己防衛的な態度を取りがちです。たとえば、システムのマニュアルが分厚くなるのは、取扱いを説明することのほかに、トラブルが発生した場合に欠陥と欠陥でないものを明確に区別し、少しでもベンダーの責任を軽減するためでもあります。

大衆的な商品の場合、日本では、メーカーが強者で消費者が弱者だと言えるでしょう。逆に米国では大衆的な商品の場合でも、消費者は日本ほど弱くないようです。濡れた猫を乾かそうとして電子レンジで過熱したところ、爆発してレンジの扉がふっとび、あごの骨を砕いたということで、メーカーから莫大な倍賞金を獲得したという話や、マクドナルドのコーヒーが熱過ぎで口内を火傷したために訴訟を起こして倍賞金を獲得した話など、日本では考えられないようなエピソードが米国には多数あります。

このように考えると、強者弱者の考えには一筋縄ではいかない部分があるようにも思われます。また、「厳格責任主義は誤りから学ぶ組織を作るか」という点に関しては、厳格責任主義も推し進め方によっては、責任逃れを助長し、閉じた組織を作り出してしまうかもしれません。つまり、なにか学べるほどの軽い誤りならよくても、致命的な誤りの場合、おそらく企業は決して受け入れようとはしないでしょうから(ポパーが言うように、損失を取り戻そうとしてますます損失を重ねていくでしょう)。

以上、とりとめのないことを書いてしまいましたが、「ポパーと厳格責任主義」の問題はきわめて現実的な意味のある問題だと思います。

ところで、世界3とのアナロジーは私も興味があるところです。実は、ソフトウェアプロダクトを三世界論の観点から見られないかどうか考えているところです。その際、カギになるのはポパーの三世界論を記述的な理論と見なすか、それとも規範的な理論と見なすかだと思います。ポパーの反証可能性理論は、明確に規範的な理論でしたが、三世界論は微妙でしょう。しかし私としては、三世界論を規範的な理論として見る見方も可能だと思います。むしろこう見ることによって、三世界論に対するなんらかの新しい解釈が見いだせないかとも考えています。

三世界論を規範的な理論と見るということは、われわれの生産物をわれわれとは独立な自律的な存在であると見なすべきであるということになると思われますが、こう見ることによって、われわれの生産物に対する肯定的な側面と否定的な側面のふたつが見えてくるように思われます。肯定的な側面とは、われわれの生産物がわれわれの創造性にとって果たす役割が、従来考えられていたよりももっと大きいのではないかということです。逆に、否定的な側面とは、まだはっきりとは述べられませんが、ノーバート・ウィーナーの次のことばにそれへの重要な示唆が含まれているように思われます。

「[魔法]の恐ろしさの本質は、魔術のはたらきは融通のきかない馬鹿正直なものであり、たといそれが何か願いをかなえてくれるにしても、それはかけた願いの通りのことをしてくれるのであり、願うべきだったことではないばかりか、本当に願っていたことをかなえてくれるのでもないことにある。」(N.ウィーナー,『科学と神』,みすず書房,p. 64.)

「人間が自分の真に欲している以外のことを願う可能性はつねに存在するが、この可能性が最も重大な危険をはらむのは、自分の願望が達せられる過程が間接的で願望がどの程度まで達成されたかが最後までいかなければはっきりしない場合である。ふつうわれわれが自分の願望をできるだけよく実現させる仕方はフィードバック過程によるのであり、それによりわれわれは、中間の諸目標がどの程度達成されたかを、それまでにした行為からの予想と比較しつつ進む。このようにして進んでゆくさい、フィードバックのループがわれわれ自身を通過するので、予想がはずれたときは手おくれにならないうちにあともどりすることができる。もしフィードバックが機械にそっくり仕組まれていて、最後の目標が達成されるまでに検出できないようになっていたら、破局に到達する可能性は著しく大きくなる。」(N.ウィーナー,同書,pp.67-68.)

「しばしば機械崇拝者たちは、高度にオートメーション化された世界は人間の才知を今日ほど必要としなくなるという幻想をもち、あたかもローマの奴隷になったギリシャの哲学者たちが主人のために働いたのと同様に、機械がわれわれに代わって困難な思考をひきうけてくれるだろうと考えている。これは途方もないまちがいである。目標追求機械は、必ずしもわれわれの目標を追求してくれはしない。」(N.ウィーナー,同書,pp.68-69.)

「機械はわれわれの手助けをすることはできようが、それとひきかえにわれわれの誠実さと聡明さを極度に要求するであろう。未来の世界は、われわれの知能の諸限界への闘争がますます必要になる世界であり、奴隷ロボットにかしずかれて安閑と寝て暮らすことのできる世界ではない。」(N.ウィーナー,同書,p.75.)

結局ウィーナーがここで言っているのは、機械の持つ(ポパーの世界3の意味での)自律性のために、とんでもないことが起きる可能性があるということと、機械はわれわれの生産物の意図せざる帰結をわれわれにまざまざと見せつけるようになるだろうということでしょう。こうした点は、製造物に対する責任という問題と関係してくるのではないかと思います。


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From: 小河原 誠(1997年7月25日)

ポパー哲学を現代社会の問題と結びつけようとしてPL法に言及しましたが、失敗しているみたいです。ただ、私としては、ポパー哲学の解釈をしているだけではダメだという気持ちが強くあります。

いまのところ、PL法関連の書物を一冊だけ読みました。寺澤有、山下雄璽郎『PL法事始』三一書房、1995年

「猫を洗った後、電子レンジに入れて乾かそうとした、……」の話は、この本の著者たちによると、(ためにするための)まったくの作り話であるということのようです。私も信じていました。メディア社会の恐ろしさですね。読みながら考えたことを書いておきます。

1。日本社会は開かれた社会か討論によって物事の決着をつけようとする開かれた社会にとっては、裁判が重要な位置をになうのは明白であると思います。しかし、日本の社会ではそもそも訴訟を起こしにくい(民事)。

1-1 訴訟費用(着手金)が高すぎる。裁判を支援する公的制度も整っていない。(アメリカでは、成功報酬のみで、裁判に負けると費用を請求しないそうです。)

1-2 裁判が長期化し、被害の救済がうまくいかない。

1-3 弁護士などの数が足りない。(アメリカ80万人、日本1万5千人)などなど。こうしたことは、法曹関係者には常識なのでしょうが、やはり、日本が「開かれた社会」ではないことのひとつの印であると思います。議論(裁判)によって、悪を排除しようとする道が閉ざされている。「PL法ができると、日本は訴訟社会になる」といった議論があったようですが、そんなことはまずなさそうですね。

2。日本のPL法は、杜撰、ざる法。
悪の除去、すなわち、被害の救済ということをPL法がめざしているというのは、ポパー哲学の観点からしても、評価できる。しかし、この本を読む限り、現行法は問題点が多すぎる。PL法を、悪を除去するための制度的手段と考えると、ないよりはましということになってしまうのだろうか。

3。PL法と反証主義
3-1 「開発危険の抗弁」については、日本の場合でも、ほとんど取り上げる必要なし。(注、これは、メーカーが製品を出荷した時点では、欠陥の存在を知ることが不可能であったとメーカー自身が証明した場合、メーカーの責任が免除される、ということのようです。)この種の責任のがれは許されないと言うのでしょう。

3-2 被害者の側が、原因はメーカーの側にあったという「事実上の推定」が、現行法には盛り込まれていないということのようですが、実際には、これがなされ、被告の側が、その「推定」を崩すための反証責任を持つというのが、おおよその現状ということのようです。(ただし、欠陥であることの立証は難しい。) ポパー哲学からすれば、事実上の推定を立てた人自身がその推定を反駁しても構わないわけですが、裁判では、ゲームのようになって、反証責任はメーカー側にのみ帰されるのでしょう。これは、無過失責任とともに、今後とも確立されていく必要があるように思われます。

3-3 「他原因の排除」:実際の裁判では、メーカー側は、「他の原因が考えられる」という論法で争ってくる。しかし、(小河原には)アド・ホックな仮説をたてているだけではないかとも思われる。この点で、アド・ホックな仮説の排除の原則という考え方は役に立つ。また、基本理論に責を帰そうとするポパーの反証主義も、「事実上の推定」を支える哲学になると思う。これに対して、一般にデュエム・クワイン・テーゼと呼ばれているもの(反例に対しては適当なところを調節すればよい)がイデオロギー化すると、それは、「他の原因が考えられる」とか、原因を企業責任のおよばないところにもっていこうとする論理となってしまうのではないか。(この点で、ポパー的観点からデュエム・クワイン・テーゼを厳しく批判し、反証の成立することを論じているGreenwoodの論文は、科学哲学のみならず、PL法との関連でも、読み方次第で重要な示唆を与えてくれると思う。

(John D. Greenwood, 'Two Dogmas of Neo-Empiricism: The "Theory-Informity" of Observation and the Quine-Duhem Thesis', Philosophy of Science, December, 1990)

3-4 方法論的反証主義をテストする場
従来、方法論的反証主義は知識の成長に寄与するか否かという点から議論されてきたと思いますが、PL法のようなものを念頭に置いて、悪の排除に寄与するかどうかという観点からテストすることは出来ないのでしょうか。この場合、「事実上の推定」が反証されたか否かということが決定的に重要になるのですから。しかし、こうしたことをするのは、ポパー哲学の換骨奪胎を狙っているにしても、意味がないのかもしれない。

3-5 方法論的反証主義を法思想の観点から解釈できないのか。
これは、全くの思いつきです。父親が法律家であったこともあって、ポパーは法的思考になじんでいたのではないか。(実際に、裁判にもかけられた)。『科学的発見の論理』を科学の論理としてのみ読むのは問題があるのかもしれない。Jarvieのように科学の憲法として読むのも、悪の排除との関連が薄れてしまうのでは。しかし、この思いつきを具体化することはいまのところ、まったくできません。

4。弱者・強者
PL法は、ハイテク社会での被害救済を目標としている。(実際には、はなはだ不十分)。ここでは、弱者・強者の観念を持ち込む必要はない。この観念はあまりにも無造作に使われているように思われます。ポパーも(?)。要するに、悪の除去ということだけを言えばいいのではないか。


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From: 松尾 憲彦(1997年11月9日)

1.全般的コメント
(1) 小河原先生が、「Popper哲学」を、現実の問題(此処では、「PL法」関連)に適用しようとされておられる事は、素晴らしいことだと思います。現実の問題を解決するのに、「Popper哲学」の良いと思われるものを活用して行き、成果を上げられればPopperもニッコリでしょうし、我国に於ける「Popper哲学」に対する認識も深まるものと期待したいと思います。

(2) 自分は、今のところ「PL法」の名前程度しかわかりませんが、先生方の表現の中で次の点等に触発されますので、それらについて、若干のコメントを述べさせて頂きたいと思います。

2.『3世界論』を中心としたコメント
(1) 「商品は、『世界3』を担っている。」に関連するコメント
1)小河原先生の言われる真意は定かではありませんが、字面どおりの意味合いならば、全く同感です。但し、『世界3』の考え方に共鳴するところ大ではありますが、ポパーの言うような『世界3』の「客観的内容」だけに関心が向いている訳ではないように、自分の関心傾向を考えています。

2)即ち、カッシラーの言う「シンボル空間」的なものとして、或いは、それと相通ずるのではないかと勝手に推測して『世界3』を理解したつもりになっていると思っています。
勿論、自分の言う「カッシラー理解」とて確信がある訳ではありません。(従って、「お前何を言っているんだ。両者は全く違うぞ!」と言われてしまうのかも知れません。)
只、自分の関心事・疑問は、次のように言えるかも知れません。
a)「若し、現実世界が同じものだとするならば、様々な考え方が存在する原因は何か?」
b)「何故、人間同士のCOMMUNICATION に於いて誤解が生ずるのか?」
c)「この多様性の故に発生するCONFLICTを克服して行く為の方法は何か?」 等々
そして、自分が勝手に決め込んでいる原因・理由領域と言ったものは、人間に与えられている「認識能力」の在り様あたりかなと言うものです。
是非、これらの点について、ご教授頂きたいと思います。結局、『3世界論』を全く理解しておらず、『世界2』と『世界3』とを混同しているだけかも知れません。

3)又特に、「商品」とか「マーケティング」と言った事柄と『世界3』との問題に関連が有りそうだと思い込んでいる点としては、次のようなものを想起しました。
a)1984年当時、慶応義塾大学で「マーケティング」ご担当の井関先生が、「LIFE STYLE論」で、次のようなお話をされました。
「君、何故、女子大生は、夏、バドワイザー(BEER) を飲みたがるかわかるかねー!?」
曰く、「夏の晴れた日には、やはり、白いドレスね。今日私は、白(い服)を着ていて正解ね。ビール? それなら当然、バドよ!白でコーディネイトしなきゃ。」

〔解説〕商品である以上ビールも品質が第1であるが、品質での訴求力は均衡し易いので、「差別化」の決め手は消費者が描く「LIFE STYLE像」となる。つまり、「商品」そのものではなく、消費者の「頭」(=『世界2』?or『世界3』?)の中が問題となるのである。

b)1990年末に、谷口正和JAPAN LIFE DESIGN SYSTEM社長(TREND WATCHER)が、90年代の「市場」・「マーケティング」について、次のような記述をされています。
『日経ビジネス』(1990年12月17日号)
市場の新『見えざる手』は「心」
・「新しい市場原理がマーケットを動かしている。それは「心」である。」
・「すでに単なるモノは人を動かさない。まず「心」、それに引きずられるようにして消費が起こる。」
・「顕在的なモノや経済原則で動く市場から、潜在的な心理の市場・精神の市場へとマーケットは云々。」
・「抽象と観念が売れる時代に入った。感激・感動・感謝、正に心が揺り動かされるものに対して人は代価を払う。新しい市場原理は、心という『見えざる手』である。」
・「心そのものを扱うものをマーケティングと呼ぶ時代の到来である。」
・「人々は願望の実現に投資をするようになる。」

『流通ビジネス』(1990年12号)
「願望」時代の到来
・「『願望は実現する』ということを強く認識しなければならない時代になった。」
・「『願望』がすべてを決定する時代である。」
・「顧客の『願望』がマーケットを形成し、国民の『願望』が国を変え、更には我々の『願望』が我々自身を育てていくのだ。」
・「願望の時代は、顧客の望み・市民の願い、そして世界中の人々の祈りを実現していかなくてはならない時代である。そして又、我々自身が望み・願い・祈る力をもって、我々の未来をつくっていく時代なのである。」
・「生活者の願い・夢・思いを調査することこそが重要なのである。」
・「何を『願望』の焦点とするか。あらゆるチャレンジは『願望』を明らかにすることに拠ってのみスタートできる。」

果たして、10年経った今日、これらトレンドが現実化しているかどうか?又、ここで言われたような「心」とか「願望」と言う言葉が新しい兆候を表現するのに適切なのかどうか?はたまた、「心」と言おうが、「願望」と言おうが、何も新しい指摘になっていなのではないか?余りに言い古されている内容で、何ら新鮮味が無いのではないか?等々色々ご意見の有るところだと思います。
更に、こんな格好付けた事が尤もらしく言われるものだから、本当の意味での「心」とか「願望」と言う言葉と、「我儘」と「欲望」とを勘違いしたような「バブル現象」を助長させてしまったのではないか?そして、こんな御託は、「商品」と『世界3』との問題に何の関係も無いのではないか?
先生方の率直なご意見は、如何なものでしょうか?

4)加えて、現時点では全く未整理な内容なのですが、上記迄に関連して気になっていることを書かせて頂くと、次のとおりです。(全く自己の馬鹿さ加減を露顕させてしまって、恥ずかしい限りですが)これらの点についても、何かご助言賜れれば、幸甚に存じます。
a)「言語体系が違えば勿論、同一言語体系下に在っても、人々が同一世界を視覚的な意味で見ていると考えるのは、大いなる錯覚なのではないか?」
b)「言語体系の違いをもたらした原因は何か?本来は同一の「認識能力」を与えられていたのが、存在する環境の違いが反映して、異なる世界観を前提してしまった為なのか?−−あたかも、鳥類の「刷り込み」の如く。」
c)「数学で言う「代入」と言う頭脳活動は、世界観を変化させることに貢献するところ大であるが、このことは『3世界論』ではどの様に捉えれば良いのか?」

ここでの「代入」には、
・(x +1)の(x) に数値を入れる事だけでなく、
・(x +1)全体を(X)と仮定する事も含む。

(2) 「機械の持つ自律性」に関連するコメント
蔭山氏ご指摘の「機械の持つ自律性」(ノーバート・ウィナー)は、ポパーのいう「エディプス効果(Oedipus Effect) 」の一形態・一種とは考えられないでしょうか?

3.『法』を中心としたコメント
(1) 「現行法は問題が多過ぎる。」に関連するコメント
1)小河原先生が言われている次の点(字面どおりの意味合いで)には、基本的に賛成です。
a)「日本の社会では、そもそも訴訟を起こしにくい。」
b)「裁判が長期化し、被害の救済が上手くいかない。」
c)「日本が「開かれた社会」ではない。」
d)「議論(裁判)に拠って、悪を排除しようとする道が閉ざされている。」
e)「『他の原因が考えられる。』と言う論法で争って来る。しかし、アド・ホックな仮説を立てているだけではないかと思われる。この点で、「アド・ホックな仮説の排除の原則」と言う考え方は役に立つ。」

2)そして、それら諸々の点を総括して「現行法は問題が多過ぎる。」と表現されていると推察致しますが、小河原先生のこの表現に触発される自分の問題意識・関心事は、小学生の頃から依然未整理状態なのですが、個別的な法問題と言うよりは、法体系全般というかその根底辺りに関係するであろう
・「何故、現行法には問題が多過ぎる事になるのか?」
・「それを克服する方向性は見出せないのか?」
と言ったものです。

3)小学生の頃から依然未整理状態と申し上げましたが、現時点迄で到達している一応の結論を要約すると、次のとおりです。是非、ご意見をお聞かせ頂きたいと思います。
a)「法体系」と言った「形式的議論」からすると、「現行法は問題が多過ぎる。」となる原因は、
・我国の法体系の中に、『立法法(法律を作る為の法律)』が、完備していないからではないのか?
・或いは、『立法法』を所謂「官僚族」だけが駆使しているからではないのか?
・更に、国民にその認識・理解・自覚が無いからではないのか?
と言うものです。
b)若し上述a)のとおりだと仮定した場合、それを克服する方向性は、
・我国の「法学」の中に『立法学(立法の作法、行政・司法との関係の在り方・立法行為の運用方法等々を研究する学問?』を確立する事に見出せるのではないか?
・そして、その成果を我国の「義務教育過程」に取り込み、国民の「法意識」に対する認識・理解・自覚を涵養して行く中に見出せるのではないか?
と言うものです。
c)加えて、COMPUTER・衛星通信技術等々に代表される昨今の「情報通信技術」の発達と日常生活への活用実態は、INTERNETに象徴されるように、上記a)・b)をより有効ならしめる素地・環境が整い出したと期待できるのではないか?と思うのです。即ち、
・「『立法学』を学んだ国民一人一人が、『立法法』に基づき「立法」する事を、INTERNETは可能にするのではないか?」
・「INTERNETは、「立法過程」を国民にモニターさせ、その「立法」に関する議論・討論の実施を可能にするのではないか?」
・「INTERNETは、「立法過程」の明瞭性・迅速性・公明性を国民に確保し易くさせ得るのではないか?」
・「INTERNETは、「直接民主主義的手続」の確保と「悪の排除」を国民に確保し易くさせ得るのではないか?」
と言った具合の夢を持ってしまうと言う事です。
勿論、若しこれらが可能だとしても、国民自身一人一人の法に対する「自覚」と「遵法精神」の存在が「大前提」となります。そうでなければ、ポパーが言う以前に比べれば「より良い世界」となった今日にも拘わらず、『仏作って魂入れず!』の状態に堕してしまうと思われます。

(2) 「ポパーは、法的思考に馴染んでいたのではないか。」に関連するコメント

1)小河原先生が言われている点、同感です。寧ろ、ポパーは充分法的思考に馴染んでいたのではと思います。

2)「法的思考」の内容は、人によって色々な解釈が有り得ると思いますが、自分では、次のように解釈しています。
a)「悪・不正の排除」の為の思考
b)「論理」的な思考
c)「明快」な思考
d)「公平」な思考
e)「分かり易さ」の為の思考
f)「ルール・基準」の為の思考
g)「行動・実践」の為の思考
そして、ポパーもこのような事を大切だと考えていたのではないかと勝手に思い込んでいる訳です。

3)その事から触発されて、前項(1) でご説明したような趣旨での『立法法』を検討して行く場合、「法」として具備しているべき条件の洗い出しや、その記述作法・方法等に関しては、ポパーが指摘した観点・議論・ルール等々が有益ではないかなぁーと、漠然と考えています。勿論、具体的な検討は未だしておりません。

4)只、いずれにしても、「法」であれ、ポパーの言う「科学的検討に於けるルール」であれ、結局は一人一人に「それを守ろう!」と言う意識が無い限り、全て水泡に帰す事になってしまうとは思います。
人間の、或いは、人間集団の「業・サガ」と言えばそれ迄ですが、その部分はチョット残念ではあります。
でも、だからこそ、ポパーの言う「より良き世界」を作って行こうと言う目的ができ、意欲も湧こうと言うものです。


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From: 小河原 誠(1998年8月28日)

一年くらい前に、蔭山さんとPL法について議論をしましたが、最近になって、製造者 の側が販売に先だって行うべき製品テストとcorroborationとのあいだに関連がある ことに気づきました。自分でもなんと頓馬なことかと思いますが、しょうがありませ ん。気づいたのは、アガシの次のような個所を読んでいたときです。

...Being evidence of responsibility, corroboration is invoked in case of failure, exonerating the responsible from the charge of neglect, of having committed a prohibited error....

Agassi, "Celebrating The Open Society",Philosophy of the Social Sciences, Vol.27No.4, p.496.


corroborationは、たしかに製造者におけるある種の責任を回避させるときに、持ち 出すことのできるものだと思います。前回の議論では、こうした点についての目配り が欠けていたと思います。どの程度のcorroborationがあったところで「欠陥」が生 じたのかという議論をしないと製造者の責任、あるいはその免除という事を問いがた くなると思います。(corroborationは製品の無欠陥性を立証するものではなくても 、使用者(消費者)の側からの不当な言い立てに対する反論の材料にはなると思うの です。)

PL法について、ポパー哲学の観点から論じてみたいと思っているのですが、時間も知 識もなくてさっぱり進みません。誰か助けてくれる人がいると本当にありがたいので すが。私としては、法律についての素人が、悪(欠陥)の制度的排除の典型例として PL法を議論することには意味があると考えています。


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