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著者:
根岸毅(ねぎし・たけし)
慶應義塾大学名誉教授・政治学専攻
出典:
慶應義塾大学法学研究会『法学研究』第69巻第4号、1996年4月、1-21ページ。
Copyright (C) 1996 by Takeshi Negishi
国家の概念とウェーバーの間違い
根岸 毅
目 次
一 はじめに
二 対立する二つの定義
三 装置としての国家
四 ウェーバーの間違い
五 おわりに
一 はじめに
これまでの国家の定義で、とくに大きな説得力を持っているように思えるものに、それが行使する力の要素から国家を規定するものがある。その種の定義を行なう代表的な学者はM. ウェーバーである。現在、多くの政治学者が彼の定義に強く影響された形で国家を理解している【1】。彼は、国家に特有の仕事はない、したがってそれが実行する仕事の内容から国家を定義することはできないとし、代わってそれに特有の手段から国家を定義する。
この見解は、もう一つの国家の理解、すなわち、国家に特有の仕事、その仕事によって実現される状態(目的)から国家を規定しようとする立場【2】には大きな壁として立ちはだかっている。この立場が成立するためには、ウェーバーの見解は論破される必要がある。
結論を言えば、ウェーバーの見解は間違っている。したがって、それにもとづく国家の理解もまた間違っている。本稿は、ウェーバーの立論の間違いを指摘することを通して、国家にはそれに特有の仕事があること、したがって国家がその特有の仕事から定義できることを示そうとするものである。
【1】その影響の一例が、W. G. Runciman, Social Science and Political Theory (Cambridge: The University Press, 1963), pp. 34-41である。ここで著者は、ウェーバーの国家の定義を下敷きとし、「結果ではなく手段」に注目して自分の定義を構成している。
【2】その一例として、see Ernest Barker, Principles of Social and Political Theory (London: Oxford University Press, 1951), pp. 2-5.
二 対立する二つの定義
^ ウェーバーの論理構成
ウェーバーは『職業としての政治』(1919年)のなかで、目的ではなく手段に注目して国家を定義している。私がここで問題にするのは、その定義そのものではなく、そのような定義を行なうにいたる立論の仕方である。それはつぎのようになっている。
ウェーバーは、国家は「その活動の内容から考えていったのでは、社会学的に定義することはできない」とする。その根拠として、つぎの二点が指摘されている――(a) 「どんな問題であれ、まずたいていの問題は、これまでどこかでどの〔国家〕かが一度は取り上げてきたと考えられる」、(b) 「これだけは、いつの時代でも百パーセント、〔国家〕の専売特許だった、と断言できるような、そんな問題も存在しない」。【1】その上でウェーバーは、「物理的暴力の行使」という、彼が国家に特有だとする手段に注目して国家を定義する。すなわち、国家とは「ある一定の領域の内部で・・・正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」である。【2】
ウェーバーの主張の核心はつぎの二つにある。ロ国家は何でも手掛ける、つまり国家が手掛ける活動の範囲には限界がない。ワ国家しか手掛けない活動(国家の専売特許)はない、つまり国家と同じ活動は他の活動主体も手掛ける。この見解にしたがえば、国家に「特有の」活動は特定できないことになる。
【1】M. ウェーバー(脇圭平訳)『職業としての政治』岩波書店・1980年、8ページ。強調はウェーバーによる。ウェーバー自身「政治団体」について「現在でいえば国家」であると記しているので、引用文中「政治団体」は〔国家〕で置き換えてある。
【2】同、9ページ。強調はウェーバーによる。
_ 国家を目的から規定する立場の論理構成
国家を目的から規定する立場の例として、E. バーカーを挙げることができる。彼は、国家を「法秩序という強制的体制の維持という特別の目的のために存在し、それゆえ明示的に規定された制裁によって効力を担保される法律を通して行動する、独特かつ特別の団体」と定義する。彼によれば、この独特の「目的」が国家に「法律を制定し、法的強制力を行使するという独特の力」を付与することになるという。【1】
この立場はウェーバーの見解と対照的である。バーカーの国家の定義は、法秩序の維持という目的を指摘することではじめて成立する。さらに、ウェーバーが国家に特徴的とする力の要素も、バーカーにあっては、その目的から派生するものとして理解されている。
【1】See Barker, op. cit., pp. 3-4. Emphasis in the original.
` 対立
ウェーバーは国家の活動を語り、バーカーは国家の目的を語っている。両者は一見異なる事項を論じているようにみえるが、じつはそうではない。目的を語るのも活動を語るのも、論じているのは同じ文脈の問題である。
私たちは目的を語る際、「特定の状態(事実)と、それを望ましい(価値)と評価するがゆえにそれを実現しようとする意図と、それを実現するためにはなんらかの行動を起こす必要があること」を意識している。目的とはこの文脈における「特定の状態」のことをいう。それは、私たちの「活動」の結果として生起する。したがって、私たちは、目的を語ろうとする場合、目的そのものを直接語る場合もあれば、その実現に必要な活動を語ることを通して間接的に目的を語ることもある。【1】
したがって、バーカーのように国家をその目的から規定しようとすれば、「国家に特有の活動は特定できない」とするウェーバー流の主張は論破する必要があることになる。
【1】厳密にいえば、上のバーカーの定義の後半は、定義としては蛇足である。この部分は、前半の目的の実現に必要な「活動」を記述している。
三 装置としての国家 ★
★ 本節に関しては、参照、根岸毅『政治学と国家』慶應通信・1990年、236-246ページ、および、根岸毅他『国家の解剖学』日本評論社・1994年、93-96ページ。
^ 国家を装置として捉える
日常語の「国家」は多義的である。したがって、国家の目的や活動を論ずるにしても、そのままでは何について語っているのかが明確ではない。対象が異なれば、同じ国家の定義といっても食い違いが生じるのは当然である。従来の国家の定義の間での対立は、これに由来する面が大きかった。
しかし、日常語の「国家」は、実態としては相互に深く関連し合っているが、論理的には截然と区別できるいくつかの要素に分けることができる。それは、最低つぎの四つの要素を含んでいる。
第一は、私たちが「国家の意思」について語るときに、それを表明する者として想定している「人の集まり」である。これを「有権者団体」といってもよい。第二は、私たちが「国民生活」について語るときに想定している「人の集まり」で、ふつう「国民」と呼ばれるものである。第三は、私たちが「国家機関」について語るときに想定している「社会的な装置」である。ふつう、「政府」と呼ぶものがこれに当たる。第四は、私たちが「国家の秩序」について語るときに想定している「社会関係」である。
これらは、一まとめにして一挙に定義することが難しいものである。このような場合には、まずこのなかから特定の一つを選び出し、それを明確に規定し、他のものはそれと関連づけることで後で特定するのが得策である。この方法にしたがって、私は立論の出発点を「装置としての国家」とする。かくして、「国家とは何か」は「国家はいかなる装置か」に置き換えられることになる。
_ 装置の特定の仕方
すべて装置は、それが造られた目的からのみ特定することができる。
装置は、「特定の目的を実現するために必要な仕事を実行させようとして人が造った道具」である【1】。あるモノがある種類の装置だと認められるのは、それが、その種類の装置に「特有の目的」の実現のために「必要な仕事」を実行するように造られている、と考えられるからである【2】。この、ある種類の装置に特有の目的は、ふつう、社会通念として一般の人々の間で確立している。
このことは、それが装置であるかぎり国家にも当然あてはまる。つまり、装置としての国家を特定するためには、それが造られた目的またはその目的の実現に必要な仕事を特定する必要がある。これは、国家をその目的から規定しようとする立場そのものである。そして、この規定の仕方にウェーバーの見解が対立することになる。
【1】装置はそれに特有の目的を実現するために「働き」を行なう。人が構成する社会的な装置の場合、この働きは「活動」といった方がなじみやすい。しかし、以下に展開する議論は、物としての装置、社会的な装置の区別なく、すべての装置にあてはまるので、両者に適用できる「仕事」という言葉を使うことにする。
【2】ここで「必要な」というのは、その仕事が実行された「直接の」結果としてその目的状態が実現する、という意味である。回り回ってその実現に役立つという意味ではない。
` 装置の複合化
装置の目的や仕事についての理解を混乱させる原因の一つに、私が「装置の複合化」と呼ぶ現象がある。
装置の種類は、時と場所に応じ、社会通念として確立している【1】。装置の複合化とは、社会通念上それぞれ別個の種類の装置と考えられている複数の装置が合体し、一つのモノとしての外形をもつようになる現象である。身近な例をあげれば、「目覚まし時計付きラジオ」がそれである。
この複合化の現象は、たとえば便利さ追求の動機から生まれる。どの装置とどの装置を合体させたら便利さが高まるかは、理論的にも、実際的にも予測不可能であり、その意味で複合化に制限はない。
このようにして複合化した装置が実行している仕事とその結果生起した状態をすべて列挙しても、合体した一つ一つの種類の装置の何たるかを特定することはできない。たとえば、「目覚まし時計付きラジオ」が行なう仕事とその結果生起した状態【2】のすべてを列挙しても、ラジオと目覚まし時計のそれぞれについて、それらがいかなる装置かを特定することはできない。
対象が複合化した装置の観察にもとづいて、それを構成する装置の一つがいかなる装置かを特定しようという場合には、つぎの手順を踏むことが必要である。第一は、どの装置を特定しようとするのかを明らかにすることである【3】。第二は、対象が実行している仕事とそれが生起させている状態のなかから、特定しようとする種類の装置にかかわりのないものを排除することである。これから特定しようとする装置に注目すれば、その目的と仕事に対して、他の目的と仕事は「複合化によって後から付け加わった」ものということができる。
【1】新しいものが生まれ、古いものが消えて行くという移動は当然ある。
【2】「番組を音声として流す」「時刻を表示する」「あらかじめ設定した時刻にブザーを鳴らす」「一定電圧の直流を発生させる」「交流電源の周波数を積算する」など。
【3】対象が複合化しているか否かは、装置の種別に関する社会通念にもとづいて判断すべきこと、できることである。複合化と判断されれば、どの装置とどの装置が合体しているのかも判断できるはずである。
a 装置が実行する仕事の構造
装置の目的や仕事についての理解は、もう一つの原因によっても混乱させられている。
一般に、装置は、複合化が行なわれていない場合でも、それに特有の目的を実現するために多種多様な仕事を実行している。これらの仕事の間には、一方が他方の仕事を実行するための条件整備を行なっている――一方の仕事が行なわれた結果生起する状態が他方の仕事を実行するための条件となる――という関係が広範にみられる。この、同じ装置が実行する他の仕事を実行するための条件整備として行なわれる仕事を「準備作業」と呼ぶことにする。
これに対して、装置が実行する仕事のなかには、同じ装置が実行する他の仕事の条件整備を行なっていない仕事がある。いいかえれば、この仕事が生起させる状態はこの装置の最終の産物である。したがって、この装置はその状態を生起させることを目的として造られた、ということができる。この仕事がその装置に「特有の仕事」であり、それが生起させる状態がその装置に「特有の目的」である。
装置の特定は、この意味での「特有の目的」と「特有の仕事」を記述することによってのみ可能であり、「準備作業」を指し示すことによっては行なうことができない【1】。
【1】このことは、異なる種類の装置が同じ準備作業を行なうことがよくある、という事実に照らしても明らかである。たとえば、風防ガラスについた水滴を拭き取るという仕事は、自動車も、飛行機も、ある種のスキー用ゴーグルも行なうが、私たちは、それが同じだからといって、自動車と飛行機とスキー用ゴーグルが同種の装置だとは決して考えない。
b 思考実験
以上に指摘したのは、ある装置に特有の目的と仕事を特定しようとするならば、ロその装置が現に実行する多種多様な仕事のなかで、元からの仕事と複合化で後から付け加わった仕事の区別をつけ、さらに、ワ元からの仕事のなかで、特有の仕事と準備作業の区別をつける必要があるということである。これは、理論上の議論としては明快である。しかし、ある装置の現実の働きを観察し、このロとワの区別を実際につけるにはどうすればいいかは別の問題である。
実際にその区別をつけるには、つぎのような思考実験をしてみればよい。
この思考実験が行なわれる場面では、実験者はある種類の装置を特定しようとしており、実験の材料として、社会通念上その種類の装置であると考えられる具体的なモノ(装置)を念頭に浮かべている。この場合、そのモノは、複合化しているかも知れないし、そうでないかも知れない。
思考実験を行なう者は、まず、そのモノが現に実行している多種多様な仕事を観察して、仕事群の一覧を作成する。つぎに、その仕事群のなかの特定の一つにつき、そのモノがその仕事を実行しなくなった場合を想定して、社会通念上そのモノが依然として当該種類の装置と認められるか否かを判定する。もしその判定結果が肯定的であれば、その仕事は、複合化で後から付け加わった仕事か準備作業であるので、はじめに作成した仕事の一覧から外す。この判定と排除の作業を繰り返し、最後に残る仕事が、その種類の装置に「特有の仕事」である。
四 ウェーバーの間違い
すでに指摘したように、ウェーバーは、国家に特有の仕事はないと主張し、その根拠として、ロ国家は何でも手掛ける、つまり国家が手掛ける活動の範囲には限界がない、および、ワ国家しか手掛けない活動(国家の専売特許)はない、つまり国家と同じ活動は他の活動主体も手掛ける、の二点をあげる。
この見解は、つぎに指摘する意味で間違っている。
^ 国家の「守備範囲」の拡大
ウェーバーは、国家は何でも手掛ける、つまり国家が手掛ける活動の範囲には限界がないと主張する。個々の国家が行なう活動には限りがあるが、さまざまな国家がこれまでに実行したことのある活動を列挙すれば、そのなかにすべてが含まれてしまう、というのである。
現代国家のいわゆる守備範囲の広さを指摘すれば、この主張は一見抗しがたい説得力をもつように見える。しかし、この主張には、装置の種別を論じているにもかかわらず、「装置の複合化」の現象を考慮に入れないという、立論の仕方の上での間違いがある。
A 国家が手掛けない仕事はない
社会通念にしたがえば、国家に特有の仕事は「一定範囲の人びとを対象とする規則の設定と維持」である。これはまた、表現に違いはあっても、伝統的に、数多くの政治学者が支持してきた見解でもあるB【1】
しかし、これに対しては、国家が規則の設定と維持を行なうこと自体は否定しないが、それ以外にも多種多様な仕事を現に実行していることを指摘し、国家の目的と仕事は特定のものに限定されないと反論することができる。
19世紀後半以降のいわゆる行政国家化現象のなかで、各国政府が手掛ける仕事の範囲は拡大し、その頂点に20世紀の社会主義国家が位置していた。現在の日本の国家――その部分機構である地方公共団体も含め――は、規則の設定と維持から、郵便事業、銀行業務、保険業務、住宅・道路・港湾施設の建設と管理、学校・病院・博物館の経営などまでの、じつに多種多様な仕事を実行しているのが事実である。現在日本の国家が手を染めていない仕事も、たとえば核爆弾の開発製造は、中国やフランスなどが行なっている。
このような事実を突き付けられると、規則の設定と維持のみを国家に特有の仕事だとする説は、挫折するか、ウェーバー流の反論を無視するという非学問的態度をとらざるを得なかった。
【1】二_で紹介したバーカーの説は、その一例である。ある装置がどのような装置であるかを特定しようとする場合には、最終的には、それが社会通念上どのように捉えられているかに依拠する必要がある。具体的には、社会通念にもとづく思考実験(参照、三b)を行なう必要がある。
B 二重の基準
ところで、国家が手掛ける活動の範囲には限界がないと主張する人たちも、国家以外の団体(社会的な装置)の活動は特定のものに限定されると考えている。たとえば、「学校」に特有の仕事は「教育」であると一般に考えられている。
しかし、現実には、学校が行なう活動は教育に限られない。たとえば、大学は、外部行事のために教室を貸し、賃貸駐車場を営業し、美術館や音楽堂さらには食堂やホテルを経営し、保養施設や病院を運営している。このように、学校は教育そのものでも、教育の準備作業でもない活動を広範に行なっている。この事情は、学校だけに見られることではない。その意味では、学校や他の装置が手掛ける仕事の範囲にも限界がない。
それにもかかわらず、一般に私たちは、そして国家が手掛ける活動の範囲には限界がないと主張する人たちも、「学校」に特有の仕事が「教育」に限られることを疑わない。それは、教育そのものでも、教育の準備作業でもない活動は「装置の複合化によって後から付け加わった仕事」だという認識があるからである。
私たちは、少なくとも国家以外の装置に特有の仕事を指摘する場合には、その装置が現に実行する仕事群のなかで、装置の複合化によって後から付け加わった仕事を無視する。これが、装置に特有の仕事を発見するための適切な方法である。したがって、もし、国家が実行する仕事で、規則の設定と維持そのものでも、そのための準備作業でもない仕事が「装置の複合化によって後から付け加わった仕事」だとすれば、国家が手掛ける活動の範囲には限界がないと主張する人たちは、国家についてだけは、この適切な方法をとらないことになる。しかも、この「二重の基準」論法を正当化する根拠は一切示されていない。
つぎに明らかにするように、国家が実行する仕事で、規則の設定と維持そのものでも、そのための準備作業でもない仕事は「装置の複合化によって後から付け加わった仕事」である。したがって、意図的ではないかも知れないが、ウェーバーは「二重の基準」論法をとっているといわざるを得ない。
C 国家の複合化
では、今日の国家は「複合化した装置」といえるであろうか。答は「然り」である。
社会通念にしたがえば、国家に特有の仕事は「一定範囲の人びとを対象とする規則の設定と維持」である。現在の日本の国家は、この仕事の他にも多種多様な仕事を実行している。そのなかには、それを行なわなくなったとしても、日本の国家を依然として「国家」と呼ぶことができるものが多数存在する。
たとえば、日本では近年、鉄道事業と電話事業を民営化した。それでも、日本の国家が「国家」でなくなったとは誰も考えていない。思考実験を行なえば、この他にも数多くの事業について同じことが指摘できる。
これらの事業は、規則の設定と維持そのものでも、そのための準備作業でもない。さらに、鉄道事業主体(国鉄)や電話事業主体(電電公社)は、社会通念上、それぞれ独自の種類の装置と考えられる。ここには、社会通念上「国家」と呼ばれる装置と、社会通念上「鉄道事業主体」「電話事業主体」と呼ばれる種類の装置の複合化が見られる。現代の国家は大々的に複合化が進んだ装置である。行政国家化現象とか国家の積極化といわれる現象は、主として国家の複合化の現象である。
この複合化はつぎのようにして起きている。
社会的な装置としての国家は、規則を設定し、人びとの行動に規制を加えることを仕事とする。その結果生まれるのは、人びとの間である型の行動は行なわれ、他の型の行動は行なわれない状態である。この仕事の実効性は、国家が規制対象の人びとに比べて相対的に大きな強制力を持つことで保証される。【1】
この、ある行動が抑制され、他の行動が促進または容認される状態は、さまざまな社会的活動をやりやすくする条件となる。その社会的活動の側からみれば、国家の仕事はその活動の条件整備の役を果たしているということができる。
郵便法は、この事情を明らかにしてくれる。同法は、「郵便は、国@ の行う事業であって、郵政大臣A が、これを管理する」(第2条)こと、「何人B も、郵便の業務を業とし・・・郵便の業務に従事してはならない」(第5条)ことを規定している。これにより、日本では、郵便事業は国が独占的に行ない、民間の事業主体がこの分野に参入できないようになっている。つまり、「国」という郵便事業の主体の側からみれば、郵便法という規則は、このような有利な事業環境(条件)の整備を行なっていることになる。
この条文は、@を「事業主体A」、Aを「Aの長」、Bを「A以外の事業主体」と一般化して読み替えることが可能である。そうすると、@とBの間には、@が条文により有利な扱いを受ける事業主体、Bは不利な扱いを受けるそれの違いしかないことが分かる【2】。つまり、論理的には、「規則の設定と維持の仕事を実行するために『国家』と呼ばれる装置」をもって@とすることも、別のすなわち民間の活動主体をもって@とすることも、いずれも可能である。@が国家である必然性はない。いいかえれば、@には、特別の扱いを受けない(競争状態を確保し、あらゆる民間の活動主体に平等の参入の機会を認める)場合、特別の扱いを受ける場合でも「私的独占」「公的規制」「公的独占」の三つ【3】の、合計四つの可能性がある。そのどれをとるかは、郵便法の制定者にまかされた選択であった。
【1】国家が絶対的な力(主権)をもつというのは、事実に反する(参照、根岸他『国家の解剖学』、89-91ページ)。したがって、規則の実効性は状況の関数でしかない。
【2】@もBも、国家が設定する規則によってその活動を規制される客体という意味では同じである。この場合の「国」は、民間の個人、団体となんら異なるところがない。「非権力的な行政・給付行政の担い手」は、「行政主体といえども、権利義務の主体であり、私人と異なって民商法の適用外にあるということは、法論理的に成り立ちえない」(山田幸男「給付行政法の理論」(雄川一郎他編『岩波講座 現代法 4 現代の行政』岩波書店・1966年)、43-44ページ)。
【3】ミルトン・フリードマン(熊谷尚夫他訳)『資本主義と自由』マグロウヒル好学社・昭和50年、32ページ。
D 装置の種類分けに必要な手順の^
以上が国家の複合化のメカニズムである。そこでは、国家の強制力を利用してなんらかの活動の条件を整備させようという場合に、これだけはそれができないという社会的活動は、論理的には考えられない。したがって、論理的には、国家の複合化に限界はない。つまり、国家は何でも手掛けることになる。その意味では、ウェーバーの主張は正しい。
しかし、私たちがいま行なおうとしているのは、装置の種別の確認である。すでに明らかにしたように(参照、三`「装置の複合化」および四^B「二重の基準」)、装置の種別を確認するためには、装置が実行する仕事群のなかで、装置の複合化によって後から付け加わった仕事を無視する必要がある。また、実際私たちは国家以外の装置の場合にはそれを行なっている。国家に関するウェーバーの立論は、この必要な手順を踏んでいない。したがって、結果的には、彼は「二重の基準」論法をとってしまっている。ここに彼の間違いがある。
_ 国家に「専売特許」の仕事
ウェーバーは、国家しか手掛けない仕事、つまり国家に専売特許の仕事は存在しないと主張する。この主張が一見抗しがたい説得力をもつように見えるのは、なにを国家に専売特許の仕事と指摘しても、その同じ仕事を現に実行している国家以外の装置を事実として挙げることができるからである。
しかし、この主張には、装置の種別を論じているにもかかわらず、装置が実行するさまざまな仕事の間で「装置に特有の仕事」と「そのための準備作業」の区別をつけていないという、立論の仕方の上での間違いがある。
A 国家しか手掛けない仕事はない
社会通念にしたがえば、国家に特有の仕事は「一定範囲の人びとを対象とする規則の設定と維持」である。これはまた、表現に違いはあっても、伝統的に、数多くの政治学者が支持してきた見解でもある。
しかし、これに対しては、「規則の設定と維持の仕事は国家以外の団体も行なっている。したがって、それは国家に特有の仕事とは言えない」とする反論が出される。具体的には、反論の証として、学校の校則、企業の定款や従業員規則、テニス・クラブの会則などが挙げられる。
どうこじつけようと、校則や従業員規則が「規則」ではないと言いくるめることはできない。とすれば、国家以外に規則の設定と維持の仕事を行なっている装置があることは疑うことができない。規則の設定と維持を国家に特有の仕事だとする説は、ここで挫折するか、ウェーバー流の反論を無視するという非学問的態度をとらざるを得なかった。
B 二重の基準
ところで、国家に専売特許の仕事はないと主張する人たちも、国家以外の団体には専売特許の仕事があると考えている。たとえば、「教育」は「学校」に特有の仕事であると一般に考えられている。
しかし、教育という活動を行なうのは学校に限ったことではない。たとえば、企業は、新旧の社員に対して研修を行なう。これは、別名「社員教育」と呼ばれる。このように、事実、教育は学校以外の装置によっても行なわれている。その意味では、教育は学校に専売特許の仕事ではない。
それにもかかわらず、一般に私たちは、そして国家に専売特許の仕事はないと主張する人たちも、「教育」は「学校」に特有の仕事であることを疑わない。それは、企業による教育活動は「利潤の追求」という企業の目的にとって、それをうまく運ぶための「準備作業」にすぎないからである。
私たちは、少なくとも国家以外の装置に特有の仕事を指摘する場合には、装置が現に実行する仕事群のなかで準備作業を無視する。これが、装置に特有の仕事を発見するための適切な方法である。したがって、もし国家以外の装置による規則(校則や従業員規則など)の設定と維持が、その装置にとっての準備作業であるとするならば、国家に専売特許の仕事はないと主張する人たちは、国家についてだけは、この適切な方法をとらないことになる。しかも、この「二重の基準」論法を正当化する根拠は一切示されていない。
つぎに明らかにするように、国家以外の装置による規則の設定と維持は、その装置にとっての準備作業でしかない。したがって、意図的ではないかも知れないが、ウェーバーは「二重の基準」論法をとっているといわざるを得ない。
C 装置による規則の設定と維持
装置は、規則を設定することを通して、人に一定の行動を求めることがある。この、装置による人の行動規制は、人が装置とどのようなかかわりをもつかに応じて、三つの型に分かれる。
第一は、装置の「使い手」に対する行動規制である。すべて装置は、特定の目的の実現のために造られ、使われる。その目的の実現に必要な仕事を装置に実行させようとするならば、使い手は一定の手順にしたがって装置を「正しく」使う必要がある。この「装置の正しい使い方」は、使い手の「使うという行動」に枠をはめる。この行動規制は、なんらかの形の規則の設定を通して行なわれる。
装置はすべて、使い手を対象とするこの種の規則の設定と行動規制を行なう。その点では国家も例外ではない。国家の場合のその規則は、公職選挙法などである【1】。
この種の規則の設定と維持の仕事は、装置に特有の目的を実現するための準備作業の一つに過ぎない。したがって、これに言及することによって、装置の種別を特定することはできない。また、国家に特有の仕事が規則の設定と維持だといっても、国家が設定する規則のすべてが、その種の規則だというわけではない。
第二は、装置の「部品」に対する行動規制である。すべて装置は部品を組み合わせて造られる。装置に特有の目的の実現に必要な仕事を装置が実行するためには、部品は決められた仕事を決められた通りに「正しく」実行する必要がある。この「役割の正しい遂行の仕方」は、部品の立場にある人びとの「部品としての行動」に枠をはめる。この行動規制は、なんらかの形の規則の設定を通して行なわれる。
装置はすべて、部品を対象とするこの種の規則の設定と行動規制を行なう。その点では国家も例外ではない。国家の場合のその規則は、国家公務員法、国家行政組織法などである【2】。
この種の規則の設定と維持の仕事は、装置に特有の目的を実現するための準備作業の一つに過ぎない。したがって、これに言及することによって、装置の種別を特定することはできない。また、国家に特有の仕事が規則の設定と維持だといっても、国家が設定する規則のすべてが、その種の規則だというわけではない。
第三は、装置の「仕事の相手方」に対する行動規制である。社会的な装置が実行する仕事は、何らかの形で関係者または相手方を想定している場合がある。その場合、事情によっては、装置はそれらの人びとに対して規則を設定し、行動規制を行なうことになる。
この種の行動規制のその一は、装置に特有の仕事が他にあり、その準備作業として行なわれる場合【3】である。この種の作業は、すべての装置がかならず実行するわけではない。
典型的な具体例を二つ示すことにする。
利潤の追求を目的とする企業は、仕入れおよび販売取引の相手としての人びとを想定している。企業は、事情が許せば、利潤を大きくするため、これらの人びとに対して自分に都合のよい取引条件(規則)を示し、それを一方的に強要しようとする。たとえば、独占企業は買い手に言い値で商品を購入させようとし、また、取引上優位な立場にある企業は、原材料の購入に際し、外国の納入業者に自国言語による見積書の作成を求める規則を作り、それを強要したりする。
教育を目的とする学校は、教育活動の対象としての人びと(学生や生徒)を想定している。学校は、教育を円滑に行なうため、学生や生徒に対して規則(学則、校則)を設定し、それに従わせようとする。たとえば、現在の日本の多くの公立中学校は、校則により、女子生徒のスカート丈が床上何センチから何センチまでの間に収まっている状態を作り出そうとしている。
これらの規則の設定と行動規制の活動は、その種の装置にとって準備作業である。したがって、これに言及することによって、装置の種別を特定することはできない。【4】
国家を除けば、社会的な装置が設定する第三の種類の規則のすべてについて、企業や学校の場合と同様の説明が可能であろう。しかし、国家の場合は事情が異なる。
装置の「仕事の相手方」に対する行動規制のその二は、それが装置に特有の仕事として行なわれる場合である。
社会通念上、「国家」は「一定範囲の人びとを対象とする規則の設定と維持」の仕事を行なう社会的な装置だと理解されている。社会通念上、「国家」がこの種の活動を行なわなくなったら、それはもはや「国家」とは呼ばれなくなる。つまり、この行動規制の仕事は、国家にとってたんなる準備作業ではなく、「国家」がそれを目的として造られた「特有の仕事」である。
ただし、これまでの分析から明らかなように、国家が設定する規則のすべてが「国家に特有の仕事」の道具として設定されたわけではない。ここでいう規則の例は、刑法、民法、独占禁止法、道路交通法などである。公職選挙法、国家公務員法、国家行政組織法などはこれには含まれない。
国家以外に人びとの行動規制を特有の仕事とする社会的な装置は存在しない。なぜならば、装置の種別は特有の仕事の違いにもとづき付けられ、同一の仕事に同一の種類が対応するものだからである【5】。
【1】他の装置にみられるこの種の規則の例としては、企業の「定款」のなかの「株主総会の規定」、家庭電化製品の「使用説明書(マニュアル)」などが挙げられる。
【2】他の装置にみられるこの種の規則の例としては、企業の場合の「従業員規則」、家庭電化製品の場合の「配線図」とか「仕様書」などが挙げられる。
【3】それが準備作業であることは、基本的には、「その装置がその作業を行なわなくなった状況を想定してみて、それでもまだそれが同じ種類の装置と考えられるか」という思考実験を行なえば確認できる。準備作業であれば、この問に対する答は肯定である。複合化していない装置の場合には、それが準備作業であることは、それが、同じ装置が実行する他の仕事の条件を整備していることでも分かる。
【4】国家が行なう仕事群のなかにこの種の準備作業が含まれていないとはいいきれないが、現時点ではその実例は思いつかない。
【5】一つの種類の装置が複数の呼び名で呼ばれることがあるが、これは、同じ仕事を行なう装置の種類が複数あることを意味しない。
D 装置の種類分けに必要な手順の_
以上の三類型、第三の類型を二つに分けた四つの場合はすべて、たしかに「規則の設定と維持」が行なわれている事例である。その限りでは、ウェーバーの主張は正しい。規則の設定と維持は、国家しか手掛けない仕事ではない。しかし、つぎの点も明白な事実である。すなわち、国家以外の装置が行なう規則の設定と維持の仕事はすべて、その装置にとっての準備作業である。国家の場合には、国家に特有の仕事と、そのための準備作業の双方が含まれている。
私たちがいま行なおうとしているのは、装置の種別の確認である。すでに明らかにしたように(参照、三a「装置が実行する仕事の構造」および四_B「二重の基準」)、装置の種別を確認するためには、装置が実行する仕事群のなかで準備作業を無視し、特有の仕事のみに注目する必要がある。また、私たちは国家以外の装置の場合にはそれを行なっている。国家に関するウェーバーの立論は、この必要な手順を踏んでいない。したがって、結果的には、彼は「二重の基準」論法をとってしまっている。ここに彼の間違いがある。
上の事例のなかで、「装置に特有の仕事として規則の設定と維持の仕事を行なう」のは「国家」だけである。その意味で、規則の設定と維持は「国家」に専売特許の仕事である。
五 おわりに
本稿で検討したのは、国家の定義の仕方である。国家について論ずる際その目的や活動に言及するのは、論者が国家を一つの社会的な装置(団体、組織、機関)と捉えている証拠である。
装置はすべて、それがそのために造られた目的(特有の目的)と、その目的を実現するために直接必要な仕事(特有の仕事)を指摘することで、そしてそれのみで特定することができる。社会通念上ある種類の装置だと考えられる対象を観察して、その種類の装置に特有の目的と仕事が何であるかを確認するためには、つぎの二つの手順を踏む必要がある。
第一は、対象が複合化した装置であるかないかを確認し、複合化が行なわれている場合には、その装置が現に実行する多種多様な仕事のなかで、元からの仕事と複合化で後から付け加わった仕事の区別をつけ、後者を無視することである。第二は、その元からの仕事のなかで、特有の仕事と準備作業の区別をつけ、後者を無視することである。
この手順は、論理がそれを求めるだけではなく、国家以外の装置については、国家の目的は特定できないと主張する人たちも含め、日頃私たちが当然のこととして行なっている方法である。ところが、ウェーバー流の議論を行なう研究者は、国家についてはこの方法をとらない。しかも、この「二重の基準」論法を正当化する根拠は一切示されていない。ウェーバーの間違いはここにある。
以上で明らかにしたように、国家についても「特有の目的」と「特有の仕事」が特定できる。したがって、国家は他の装置と同様、素直に、その目的と仕事から定義することができる【1】。手段から定義を試みて、国家の理解を混乱させるのは終わりにしたい。
「国家はいかなる装置か」の問(参照、三^)には、つぎのように答えることができる。「国家」は「それに特有の仕事として規則の設定と維持を行なう社会的な装置」である、と【2】。
【1】ウェーバーも、『職業としての政治』で展開した議論の限りでは、もし国家の目的が特定できたら、その目的から国家を規定したかったように読める。
【2】私の詳しい国家の定義については、根岸毅「政治学とは何か」(根岸他『国家の解剖学』)を参照のこと。
★ 『法学研究』第68巻第2号は、慶應義塾大学名誉教授太田俊太郎先生の退職記念号として編まれたが、折り悪しく私はアメリカに滞在しており、寄稿できなかった。いまここでこの論文を同先生に捧げ、永年の学恩に対する感謝の気持を表わしたい。
(1995年9月1日・脱稿)
追記。上記出典の『法学研究』第69巻第4号、13ページ註2に印刷ミスがあるので、ここで訂正する。同註3字目の「A」は、正しくは「B」である。
Copyright (C) 1996 by NEGISHI, Takeshi
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《「国家の概念とウェーバーの間違い」終わり》