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著者:
根岸毅(ねぎし・たけし)
慶應義塾大学名誉教授・政治学専攻
出典:
石川忠雄教授還暦記念論文集編集委員会編『現代中国と世界――その政治的展開』(慶應通信・1982年)、793-816ページ。
Copyright (C) 1982 by NEGISHI, Takeshi
政治における試行錯誤の機会
もうひとつの民主主義論
根岸 毅
はじめに
一 進歩と試行錯誤の機会
二 国家と抑圧の契機
三 しくみとしての国家(政府)を使う(操作する)ということ
四 民主主義と試行錯誤の機会
五 国家(政府)の使い勝手の故善(すなわち民主主義の拡充)
はじめに
政治にかんして行なわれる論議は、積み重ねの恩恵を受けることがすくない。議論の余地のない共通の理解の領域が明らかになり、以後の論争はそれ以外の領域での共通の理解を求めて行なわれる、ということはあまり多くはない。
これにはいくつかの理由がある。実際政治上の利益の増進のために、積み重ねのきかない議論が意図的になされることもそのひとつである。本縞で私が問題にするのは、もうひとつの理由、すなわち、論議にさいして用いられるコトバの明晰さの欠如の問題である。周知のように、「文化的民主国家」の建設をその綱領にかかげる【1】自由民主党の施策に対して、野党なかでも社会党や共産党が「民主勢力」を結集してその阻止にあたる、ということがよく行なわれている。ここにおける「民主」または「民主主義」は、その種のコトバのよい例である。
本稿は、「試行錯誤の機会」というコトバを使うことによって、政治にかかわる論議のある部分に、明晰さと積み重ねの可能性を導入しようという試みである。ここでは、「試行錯誤」というコトバは、心理学の分野での厳密な意味でではなく、ごくふつうの日常語としての意味――問題を解決しようとするさいに、ひとまずよさそうに思われる手を打ってみる、その結果がよければよし、わるければまた別のよさそうな手を打ってみる、というようにいろいろ試みながら、より好ましい状態を求めていく過程――で使うことにする。
一 進歩と試行錯誤の機会
進歩とはなにか、なにをもって進歩とするかは、ひとによって議論が分れる。しかし、なにを進歩とするにせよ、人間の生き方に進歩を生ぜしめる、すなわちそれに望ましい方向での変化を起すためには、生活の主体に、判断と行動のうえでの試行錯誤の機会が確保されている必要がある、ということはできるであろう。
個人人格の涵養と文化の発展は、人びとが日常の生活のなかで試行錯誤をくり返しながら行なう、情報の入手とそれにもとづく判断の作業、その判断にしたがって起される行動の、積み重ねと相互作用を基礎としている。もしこれが、ほかの人の意思によって制限された情報と知識、ほかの人の意思に拘束されて自分の判断を生かせない行動、すなわち試行錯誤の機会の欠如に基礎をおかなければならないとしたら、そこに人格の十全な形成と文化の創造的な発展がありうるだろうか。答は否である。多くの人びとをその機会の欠如した状態におく専制的な体制の指導者たちも、自分たちだけにかんしては、ほかの人の意思によって拘束されない、みずから思うままに試行錯誤を行なった結果としての自分たちの判断を生かすことこそが、よりよき社会を建設する基礎だと信じているものである。さらに、その人たちにも、ことを誤る可能性はつねにつきまとっている。それは、近年の中華人民共和国での毛沢東の再評価をみるまでもなく明らかである。この意味で、ひとりひとりの個人に試行錯誤の機会――判断と行動において過ちを犯す機会と、その過ちの経験に学んでのちの判断と行動をみずから修正する機会【2】――を確保することは、個人にとっても社会にとっても欠くことのできない価値がある、といわなければならない。
このような価値をもつ個人の試行錯誤の過程には、自分の意思による自分自身の行動の規制という事態が生じてもおかしくはない。たとえば、住宅地に住む声楽家が、近所づきあいでのいざこざを避けるため、深夜の発声練習を自粛するなどがその例である。つまり、自己規制は試行錯誤と対立するものではない。試行錯誤の機会を否定するのは、ほかの人の意思による拘束・規制である。
他者の意思による不本意な拘束は、個人が集団的意思決定にしたがう場面において現われる。たしかに、この種の拘束は、家庭でも、友人間にあっても生じている。しかし、国家との関連で生ずるそれはつぎの意味で特異であり、ほかの場合にはみられない重大性を帯びている。
特殊なごく少数の例外を除いて、人はつねにどこかの国家の国民である。その国家は、その国民との関係では、みずからが物理的強制力の唯一の合法的な独占者である状態をつくり出す。その結果、国民は、合法的には国家の命令からのがれることができない状態におかれることになる。くわえて、国家の命令は、国民の心の内面にまでは手を伸しえないにしても、心の外に現われる行為のすべてに干渉してくる可能性をもっている。また、こんにちその実際の干渉は、人びとの生活のきわめて広い範囲にわたるようになってきている。ところが、この国家の命令が要求するのは、行為の合法性である。命令に従わざるをえない国民個人にとってその命令の内容が不当であると判断されようと、それは合法の名のもとに否応なしの強制を加えてくる。国家以外の集団的意思決定がこれと決定的に異なるのは、それに右の物理的強制の契機がないことである。【3】その意味で、国家は、右に述べた価値をもつ個人の試行錯誤の機会、すなわち、個人の自由で主体的な判断と行動の機会に対する最大の抑圧者となる可能性をもっている、ということができる。
二 国家と抑圧の契機
個人の試行錯誤の機会の国家による抑圧の可能性を小さくするには、どうしたらよいのであろうか。この点を明らかにするためには、「国家とはなにか」に答えなければならない。
ところで、この問は「私たちが『コッカ』というコトバを使って議論をするとき、私たちがそれについて論じようとしているモノはなにか」と、置きかえる必要がある。日常の議論においては、このモノは、相互に関連をもつがまたはっきりと区別することができる、最低四つのモノであると考えられる。【4】それは、一定の人の集まり(国民)、その人びとの間に形成される社会関係(国家秩序)、有権者の団体、政府に代表される国家機関である。
この最後の国家は、「機関」というコトバが示すように、ひとつの社会的な「しくみ」(装置)である。しくみ・装置は、一般的にいえば、一定の目標の達成のために、一定の作用を果すように作られた人工のモノ、道具である。【5】
この社会的なしくみとしての国家(政府)との関連で、人びとは三つの異なる立場を占めることになる。その一は、このしくみを構成する部品の立場である。ふつうこの立場にある人びとは「公務員」(最広義)と呼ばれる。その二は、このしくみを使う機会をもつ人すなわち使い手の立場である。国家の別の意味「有権者」は、この立場にある人のことである。どんな社会的しくみにも、部品と使い手の立場はある。国家の特異性は、つぎの立場を占める人びとが別に特定できる点にある。すなわち、しくみとしての国家(政府)には、そのしくみのまさに存在理由として果される――他の作用を果すための手段として付随的になされるのではない――作用のおよぶ対象として、一定の人の集まりを特定することができる。この人びとは、ふつう「国民」と呼ばれている。
この、しくみとしての国家(政府)の存在理由である作用とは、その作用対象としての人びと(国民)に対して活動の枠を設定し、くわえて、その人びと(個人、集団)の実際の活動をその枠内に規制することである。【6】逆にいえば、この作用を果している社会的なしくみがあれば、それが国家(政府)である。
国家(政府)が国民に対して活動の枠を設定するのは、基本的には、国会による法律の制定、より一般的には政府の政策決定を通して行なわれる。この枠にあたるものは、具体的には民法、刑法、独占禁止法など、民事法、刑事法、社会・経済法の分野の法律が中心になるが、道路交通法などもそれにあたる。これらの法律を根拠にして行なわれる国家(政府)の活動は、国民生活に対する規制であり、ここに、国家による個人の試行錯誤の機会の抑圧の可能性が潜んでいる。
ところで、法律のすべてが右の枠にあたるものではない点に注目する必要がある。とくに、国家行政組織法、国家公務員法、地方公務員法などについては説明が必要である。
これらの法律は、たしかに、人びとの活動に規制を加える枠という性格をもっている。しかし、それらは、基本的には、右にいう枠ではない。それらが規制を加えるのは、しくみとしての国家(政府)を構成する部品(公務員)の立場にある人びとであって、しくみの作用対象としての人びと(国民)ではない。
しくみの部品としての人びとの活動を規制する枠(規則)は、社会的なしくみすべてがもっている。営利を目的として設立された企業の場合、社員や各部署の活動を律する社則がそれにあたる。しかし、企業の設立の目的である財・サービスの生産・販売という活動それ自体は、特定の人の集まりに対する活動の枠づけとは無縁である。
しくみの部品と作用対象とを区別することをせずに、ただ人びとの活動に対する枠づけの作用に注目するだけでは、国家と他の社会的組織を区別することはできない。政治学が国家を特定しえなかったのは、そのためである。
国家(政府)が国民の活動に規制を加えるというのは、そのしくみが作動を起しているということである。しくみが作動を起すのは、それが使い手によって使われた(操作された)からである。国家というしくみの場合、その使い手(有権者)の立場にある人は、そのしくみを操作し、作動を起させることによって、自分も含めてそのしくみの作用対象(国民)の立場にある人びとの活動に規制を加えているわけである。したがって、原則論としては、使い手の立場にもある人が作用対象の立場を占める場合に被むる、国家によっての活動の規制は、自分の意思による自分自身の行動の拘束すなわち自己規制である、ということができる。それは、その人の試行錯誤の機会と対立するものではない。むしろ、その場合、自己規制は試行錯誤の過程のひとコマでさえある。
個人の試行錯誤の機会の国家による抑圧の可能性をできるかぎり小さくするためには、まず、国家(政府)というしくみの作用対象(国民)のできるかぎり大きな範囲を、同時に使い手(有権者)の立場におくことが不可欠である。さらに、そのしくみの作動は間違いなく、使い手自身の意思どおりの操作によってひき起されたものでなければならない。つまり、使い手がそのしくみを使う(操作する)さいには、できるかぎり広い試行錯誤の機会を確保することが必要となる。
三 しくみとしての国家(政府)を使う(操作する)ということ
国家(政府)というしくみの場合、その使い手による使用(操作)の活動の枠づけと規制は、そのしくみ自体が行なっている。すなわち、国家の作用のひとつは、そのしくみを使う機会をもつ人びと(使い手=有権者、主権者)の範囲と使い方にかんする規則を定め、くわえて、使い手がそのしくみを実際に使うさいに行なう活動をその規則の枠内に規制することである。
現在の日本の場合、この規則にあたるものは、憲法(前文、第一五条一・三・四項)、公職選挙法などである。これによれば、日本の国家のしくみの使い手は、「日本国民で年令満二十年以上の者」(公職選挙法第九条一項)であることが原則である。この人たちの実際の使用の活動とは、とくに選挙に関連するさまざまな活動――立候補、選挙運動、投票など――のことである。この活動の実際は、選挙管理委員会などが管理することになっている。また、この使い方の規則は、使い手の「自由に表明せる意思によって公明且つ適正に行われること」(公職選挙法第一条)を目的とすると定めている。これは、日本の国民(作用対象)のなかの右の範囲の人びとを使い手(有権者)とし、その人たちには、国家(政府)というしくみを使うさいに、じゅうぶんな試行錯誤の機会を確保することを原則としている、と読むことができよう。
国家との関連で生ずる、他者の意思による不本意な拘束すなわち試行錯誤の機会の抑圧のもっとも深刻な例は、使い手になれない人びとのそれである。歴史に現われた多数の専制体制下の一般の人びとの場合が、その典型的な具体例である。また、現在の日本国民で年令満二○年未満の者、いわゆる未成年者もまたこの例にあてはまる。個人の試行錯誤の機会に高い価値を認め、それを最大限に保障しようとすれば、赤子も含めてすべての国民に参政権を認めなければならない、ということになろう。しかし、これは机上の空論でしかない。その年令をなん才としたらよいかは、それこそ試行錯誤の経験から、与えられた諸条件の下でもっとも「都合がよい」ところに便宜的に定める以外に方法はない。とすれば、現行の二○年をなん年か引きさげることも検討してみる必要があろう。【7】
さて、現実の問題として可能なかぎり広範な国民が同時に使い手の立場にもある状態が実現したとしても、それだけで問題がなくなるわけではない。(使い方の規則のなかで、使い手のある部分に、試行錯誤の機会を実質的に否定してしまうような事例は、右の、使い手の範囲の問題として検討しなければならない。)しくみの造りや使い方の規則などのいかんによっては、もっとも恵まれた立場にある使い手でさえ、しゅうぶんな試行錯誤の機会をもてないことがありうるからである。
しくみを実際に作動させ、所期の仕事を行なわせるためには、使い手は、その仕事に見合うかたちで、しかも所定の「正しい」し方で、しくみを操作しなければならない。
しくみは、それが作られた目的を達成するためには、一定の性能(作用)を発揮する必要がある。その性能を発揮するためには、それに見合った造りを必要とする。また、そのように造られたしくみに所期の性能を発揮させるためには、使い手が一定の手順と条件にしたがって、そのしくみを保守し、操作することが必要となる。したがって、ふつうのしくみ(たとえば電気洗濯機など)の場合には、それに、保守と操作のし方の手引き書(使用説明書とかマニュアルとか呼ばれるもの)がついている。
使い手が手引きに所定の操作をしなければ、しくみは所期の性能を発揮できない。したがって、しくみが作られた目的の達成に必要という意味で、手引きに所定の保守と操作のし方は「正しい」のであり、それ以外のし方は間違っている。(たとえば、洗濯脱水槽の目づまりを起こす可能性があるので、電気洗濯機で里芋をあらうのは、洗濯機の「正しい」使い方ではない。)
しくみを使うことが介在する試行錯誤は、使い手にしくみの正しい使い方が分っていない場合には、進歩とは程遠い結果を生むのがふつうである。それは、しくみの作動の効果に不満足な点があっても、それが、「使い方が悪い」ことによるのか、使い方が正しいのに「性能が出ていない」ことによるのかが分らないからである。
国家(政府)というしくみの場合、その使い方の手引きはじつに不備である。不備というより存在しないというのが当っているのかもしれない。したがって、また、正しい使い方の周知徹底の努力も不完全である。個人の試行錯誤の機会の拡充のためには、国家(政府)の使い方の手引きの整備とその徹底のし方の改善は不可欠である。【8】
つぎに、国家(政府)の場合、所期の仕事に見合うかたちでしくみを操作するということがどういうことなのか、を検討してみよう。
国家(政府)は、なんらかの問題の解決のために使われるしくみである。したがって、使い手がそのしくみを使って解決をはかりたいと考える問題のひとつひとつに対応して、その解決のためになされるべき仕事とその手順が、まず確定される必要がある。つぎに、その手順でのその仕事の実行開始の命令が、しくみに伝達されなければならない。この一連の作業は、しくみの使い手である有権者が集団的意思決定(たとえば選挙)を行なうことによって果されることが多い。
現行の日本国憲法のもとの国政段階では、使い手(有権者)によるしくみの操作は、現在定数五一一人の衆議院議員、二五二人の参議院議貝を選出する選挙がその中核となっている。これにより、国家(政府)というしくみをどう作動させるかの計画――なすべき仕事のひと揃いとその手順=綱領、政策群――を心に抱く諸個人が具体的に確定され、しくみの特殊な部品(議員)としての地位につけられる。使い手の直接の操作は、基本的にはこれだけのことである。このあと、そのときどきの国家(政府)が具体的にどんなかたちで作動を起こし、どんな仕事を実行するかは、議員という特殊な部品と行政官という一般的な部品から構成されるしくみそのものの自動作動にまかされる。その基本線は、原則として、同種の政策群を心に抱くことを共通項として形成される議員集団の、もっとも頭数の多いものの作動計画におちつくしくみになっている。【9】
集団的意思決定の決着は、選挙においても議場においても、多数決によってつけられるのがふつうである。したがって、多くの場合、多数者の意思による不本意な拘束を受け、試行錯誤の機会に制限が加えられる少数者が存在することは不可避となる。これは、有権者の間に意見の対立がある以上、現実の問題としてはやむをえないことである。個人の試行錯誤の機会の拡充に価値をおく立場からすれば、多数者の意思を生かすこと(多数決)の方が、その逆よりも価値が高い。なぜならば、単純多数決こそが、試行錯誤の機会の確保された個人の頭数を最大にするからである。
右に指摘した、現在の日本における類の国家(政府)の操作のし方は、また別の意味で、使い手がそのしくみを使って行なう問題解決のさいの試行錯誤の機会を、抑圧するものとなっている。現在の日本において、政府の行なう政策を個々の領域別に検討してみると、有権者の多数に支持される措置が実行に移されていない領域がいくつもあるように思われる。【10】そこでは、合法的に政権の座についたということを根拠に、政府が、有権者の多数がよしとしない政策を実施している。この種の政策領域にかんしては、多数の有権者が、多数派であるにもかかわらず自分の意にそわない拘束を受け、試行錯誤の機会を制限されている、といわなければならない。
この事態が生ずる原因はつぎにある。すでに指摘したように、日本の現行のしくみにあっては、有権者は、原則として、多様な領域で国家(政府)というしくみに行なわせる仕事(複数)の内容を、ひとりの人(候補者)を選択することを通して決めることになっている。ここでは、国家(政府)に行なわせる仕事はひと揃いの詰め合せ(政策パック)【11】になっており、その中味の詰め替えや、ひとつひとつの領域ごとに仕事の内容を決めるというやり方は行なうことができない。こういう状況にあっては、仕事の個々の領域では、有権者の多数の意向に反した政策が政府によって実行に移される事態が起こる可能性は否定できない。【12】
一般に、しくみの操作がしやすく、しくみが操作に応じて使い手の思いどおりの仕事をしてくれるとき、私たちは、そのしくみは「使い勝手」がよい、という。人の選択で作動のし方が決まる国家(政府)は、使い手(有権者)にとって思いどおりの仕事をしてくれるかどうかの不確かな、きわめて使い勝手のわるいしくみになっている。この使い勝手のわるさは、同時に、有権者が国家を使って行なう問題解決の努力のさいに、彼らがしくみを構成する部品としての人びと(議員や行政官など)の意思による不本意な拘束を受ける機会をふやし、それだけ彼ら自身の試行錯誤の機会を制限するという効果をもつのである。
四 民主主義と試行錯誤の機会
以上論じてきた試行錯誤の機会の問題は、これまでの政治学では、どのようなコトバで論じられてきたであろうか。それは、「民主主義」であると考えられる。
こんにち、「民主主義」というコトバは、多義的になり、その唯一の意味を確定することができなくなっている。周知のように、それには、大別すると二つの異なる用語法がある。ひとつは政府が実行に移す政策の決め方に関連づけられており、他は政府が実行する政策の内容にかかわっている。試行錯誤の機会の問題が関連するのは、この前者である。
前者すなわち政治の方法の意味での民主主義は、たとえば、「共同社会意思、または比喩なしにいえば社会秩序が、これに服従するもの、すなわち国民によって創造せられる一つの国家・あるいは社会・形式」【13】と規定される。ここで重要なことは、「政治が自由に表明せられた国民多数の意思に基いて運用せられる」【14】という点である。つまり、ここでは、しくみのコトバでいい直せば、国家(政府)というしくみの作用対象(国民)のどの範囲が同時に使い手(有権者)ででもあるのか、そのしくみの実行しようとする仕事(政策)がどの程度使い手の自由な――試行錯誤の機会が確保された――意思決定によって決められるのか、つまり、国家(政府)というしくみの使い方が問題になっている、ということができる。
しくみの使い方にかんする民主主義は、つぎに示す相対主義の立場にその基礎をおいている、ということができる。すなわち、すくなくとも現実の問題としては、いかなる個人や集団も、国家(政府)というしくみに実行させる仕事として、特定のもの(政策)が絶対に正しいと断言できるものではない。したがって、その仕事(政府のとるべき政策)の決定には、ある時点で相対的によりよいと思われるものをひとまず方便として採用し、その実際の効果を体験したあとのつぎの機会に、その経験をふまえてあらたな相対的判断を行ない、また便宜的な決定をくだす、というやり方以外に適当な方法がない。【15】ここで重要なのは、国家(政府)というしくみの作用対象である人びとが、そのしくみの使い手の立場にも立ち、そのしくみに実行させる仕事の内容を自由に決めることができること、その決め直しの自由をもっていること、いいかえれば、その決め直しをするさいに試行錯誤の機会を保障されていることである。
しくみのコトバを使って論じ直せば、政治の方法の意味での民主主義は、つぎのように規定することができる。すなわち、民主主義とは、「国家(政府)というしくみを使う機会をもつ人びと(使い手)〈有権者〉の範囲を、そのしくみが作用をおよぼす対象としての人びと〈国民〉のできるかぎり大きな部分としたうえで、その使い手の人びとに、そのしくみを使ううえでの試行錯誤の機会を最大限に保障すること」である。これは、国家(政府)を、できるだけ多数の国民にとって、できるだけ使い勝手のよいしくみにすることでもある。
この、しくみを使ううえでの試行錯誤の機会は、国家(政府)というしくみの場合、とりわけ重要である。このしくみの使用のもっともふつうの事例は選挙である。その選挙での投票は、結局、政党の選択を通じてその政党がこれから実施しようとする政策群の効果を「買う」行為(先物買い)である、と考えることができる。これは、すでに買う商品の現物(または同一物)が出来上っていて、そのままのかたちで細部までの確認ができるふつうの買物とは異なり、ちょうど、図面だけで売買契約をむすぶ建売住宅の購入や、通信販売による商品の買入れのようなものである。そこでは、「買った」ときの約束と実際それを手にしたときの実物の間には、なにがしかの違いがあるのがふつうである。このような場合、通信販売の例のように、実物に不満があれば一定期間内に返品・交換ができるのが望ましいのはいうまでもない。国家のしくみの使用の場合、いわばこの返品・交換を可能にするのが民主主義のしくみである。
このような試行錯誤の機会が保障されている場合、国家のしくみの使い手は、自分の行為(使用)の結果に対する責任が自分にあることをはっきりと知るようになる。よい結果は自分の才覚がもたらしたものである。悪い結果を前にしても、自分以外に責めるべき人はいない。なしうることは、つぎの使用の機会に、またあとで悔まないよういっそうの心がけをするだけである。また、このような場におかれた使い手(有権者)は、このような心がけをするようになるものである。さらに、彼らには、試行錯誤の機会が保障されているかぎり、古典的な民主主義論が求める高度の合理的な判断の能力はかならずしも必要ではない。彼らには、やり直しがきかないほど重大な過ちは犯さないだけの判断力があればよい。やり直しがきく程度のやり損じはとうぜんあるものとして、それが生じた場合の軌道修正の機構をはじめから組みこんだしくみが民主主義のそれである。したがって、使い手は、ごくふつうの一般の人でよいことになる。
つぎに、相対主義にもとづく民主主義の矛盾とされるもの、すなわち民主主義がみずからの選択によって専制政治に転化する自己崩壊の可能性の問題【16】について触れておきたい。ところで、私たち社会科学の研究者は、「コトパ遊び」によって単純な問題を複雑にする性癖をもっていはしないか。この難問もじつはそのような例のひとつと考えられる。
私たちはしくみを使うとき、その操作をなるべく簡単にしたいという欲求をもっている。国家というしくみにも、その使い方がより簡単であることが望まれる。この種の要請へのもっとも進んだ回答のひとつは、航空機というしくみの場合にみられる。いわゆるオートパイロットがそれである。これは、あらかじめ設定された飛行方向と高度での航空機の運行を自動的に維持する装置である。これにより、このしくみの直接の使い手(パイロット)の操作(操縦)は大幅に楽になった。しかし、大切なのは、しくみの使い手は依然として生身のパイロットであり、彼の判断で自動装置にまかせておくのが危険だと考えられる場合――とつぜんほかの飛行物体が進路に侵入するなど――には、オートパイロットは使い手によって解除され、操縦はいつでも使い手にもどされる、という点である。
民主政治の主体、すなわち、使い手の試行錯誤の機会を保障するように造られた国家(政府)というしくみの使い手(有権者)が、みずからの判断でそのしくみの作動を、そのしくみ自体(すなわち、しくみを構成する人びと)にまかせること――ちょうどパイロットがオートパイロットのスイッチを入れるように――も考えられる。事実、こんにちの日本のしくみでは、選挙と選挙の間の期間はこの自動作動のそれと考えることができよう。この自動作動は、一定の期間(衆議院の場合は最長四ヵ年、憲法第四五条)ののち自動的に解除されて使い手の判断にもどるようになっている。また、地方政治の場合の使い手は、みずからの判断でしくみの自動作動を随時解除することができるようになっている(地方自治法第一三条、議会の解散・首長などの解職請求権)。しくみの使い手が正気である場合は、彼が、しくみの作動の大枠も示さず、自動作動の解除装置もつけずに、しくみを自動作動の状態におき続けることは考えられない。しかし、使い手が狂気の状態にあるときには、どんなしくみにでもどんなことでも起りうる。使い手が試行錯誤の機会をみずから放棄する――オートパイロットの解除スイッチをたたき壊したり、民主主義のしくみを破壊したりする――ことも、である。
相対主義の矛盾、弱点とされるものは、使い手の試行錯誤の機会を保障するように造られた国家(政府)というしくみ自体に内在する固有の欠陥ではない。それは、どんなしくみにも起こりうる、使い手の正気・狂気の問題である。相対主義の立場に立つならば民主主義の自己否定とそれにともなう専制政治の導入をも否定できないというのは、コトバに囚われた研究者が、コトバの世界のみかけの論理一貫性に執着した結果いうことである。「相対主義」が現実に意味するものが、しくみの使い手に使用(操作)上の試行錯誤の機会を保障することであるとすれば、その機会だけはどんなことがあっても確保することは相対主義の前提である。「相対主義」というコトバに囚われることは、国家というしくみの使い手をむしろ狂気にはしらせることに荷担する以外のなにものでもない。
右の相対主義の自己矛盾の「難問」の例でも分るように、政治を論ずるさいに私たちが使うコトバのなかには、ことの理解を助けるよりは、むしろ混乱の原因となっているものがいくつもある。もし私たちが「民主主義」というコトバを使って論じたいものが、結局、本節で論じた意味での試行錯誤の機会の確保であるならば、多義的な「民主主義」というコトバをあえて使う必要はない、むしろ使わない方がよい、といわなければならない。
五 国家(政府)の使い勝手の改善(すなわち民主主義の拡充)
人びとが国家(政府)というしくみを保持しながら、しかも他者の意思による不本意な拘束を被むることをできるかぎり少なくするためには、使い手(有権者)がそのしくみを操作するさいの試行錯誤の機会を、できるかぎり大きく確保する必要がある。そのために打つべき手立ては、基本的には、そのしくみに実行させる仕事(政府の政策)の具体的な内容の決め損じはかならず起こるとはじめから考え、それが起こった場合に、使い手が自分の思うとおりに手直しすることができるようにしくみを整えることである。
このための方策はいくつも考えられる。しかしここでは、政策パックの選択という方式から生ずる使い勝手のわるさの問題を検討してみる。
すでに指摘したように、政策パックの選択で作動のし方が決まる国家(政府)は、使い手(有権者)にとって思いどおりの仕事をしてくれるかどうかの不確かな、きわめて使い勝手のわるいしくみである。使用の規則(公職選挙法など)によれば、結局使い手の裁量にまかされているのは、各政党から提示される政策パックのどれかをとる(投票する)か、そのどれもとらない(棄権する)かのいずれかである。原則として、もっとも購入者の多かった(得票の多い)政策パックの中味が、一括して「使い手(有権者)に承認されたもの」のレッテルを貼られ、国家(政府)が実行する仕事の内容となる。パックの個々の中味(個別の争点)に不満がある場合でも、その仕事だけについてのしくみの使い直しは、原則としてできない。その仕事(争点)が、一括してのパック選びを左右するほど重大な問題であれば、その仕事についての使い手の不満はつぎの政策パック選択の機会に解消される可能性はある。しかし、それが二義的な重要性しかない問題の場合には、その可能性はゼロに等しい。
この使い勝手のわるさは、国家(政府)の作動のし方をパック単位のみで決め続けるかぎり解消することはない。根本的な解決策は、しくみの使い手に対して、政策パックのなかの個別の争点について選択する機会を与える以外にはない。
試行錯誤の価値を高く評価する立場からは、国家(政府)の仕事のすべてを、個別の争点ごとの選択の方式で決めるべきだ、という考えが出てくる。しかし、これも机上の空論である。しくみには、その操作をできるだけ簡便にしたいという要請もある。したがって、現実のしくみ(制度)づくりの問題としては、(イ)政策パックの選択の方式により国家(政府)の作動の大枠を決め、しくみを期限つきの自動作動の状態におく、と同時に、(ロ)随時に使い手(有権者)の判断で特定の仕事(争点)についてのみの自動作動の解除を行ない、その個別争点について使い手が直接に選択を行なう、という二重の機構が適当であろう。この二つは、どちらが主でどちらが従という関係にあるのではない。それらはいずれも、現実には、片方だけでは不完全な働きしかしえない点に留意する必要がある。
現在の日本の国家(政府)のしくみのもとでは、右の(ロ)に当るものおよびそれに近いものにはつぎがある。
憲法改正案の国民投票(憲法第九六条一項)。憲法の改正は、国家(政府)というしくみの自動作動としては行なわれない、すなわち使い手の直接の判断によってしか決められないことになっている。しかし、使い手の試行錯誤の機会のしゅうぶんな確保の観点からは、その判断の機会が必要だと思っても、使い手(有権者)みずからがそれをつくり出すことができない点には問題がある。改正案の発議権は国会にしかない。
一地方公共団体のみに適用される特別法の住民投票(憲法第九五条)。この種の法律は、その地方公共団体に住む有権者の投票による同意によって、はじめてその効力が確定することになっている。しかし、これは、憲法改正の場合とまったく同じ問題点をもつ。
また、右の二つはいずれも、その判断の対象となる事項が一般的でないという限界をもっている。【17】
条例の制定改廃の直接請求(地方自治法第一二条一項、第七四条〜第七四条の四)。普通地方公共団体に住む有権者は、一定の条件――一定数以上の者の有効な連署を付すなど――を満せば、自分が作成した条例案を、その地方公共団体の議会に審議させることができる。この規定により、国家(政府)というしくみの部分機構(地方公共団体)にかんしては、その使い手の随時の判断によって、その部分機構の分担する仕事のなかの特定のものについて、その機構の自動作動の状態の再検討を開始させることができる。しかし、これには、使い手の試行錯誤の機会をじゅうぶんに確保しようとする観点からは、根本的な欠陥があるといわなければならない。使い手になしうるのは、議会に審議を開始させるところまでである。その個別争点について決定を下すのは議会(しくみの一部)であり、使い手(有権者)ではない。
一九八○年一二月、全国各地で条例制定の直接請求を起した経験をもつ人たちが中心になって、「直接請求制度の改革」を論ずる討議集会が東京で開かれた。それは、ここ数年来活発化した直接請求の運動のほとんどが目的を達せずに終り、当事者たちの間に、「・・・直接請求権は、議会民主主義が機能しないから発動するものだ。ところが・・・・〔成立した請求は〕私たちが〃機能してない〃とした当の議会で処理されてしまう」とする苛立ちや、「直接請求権は、住民運動にとって〃伝家の宝刀〃といわれていたが『抜いてみたら竹光』・・・だった」という失望が生れたことを背景としていた。【18】これは、右に指摘した根本的な欠陥が事実として存在することの証しである。
国家(政府)というしくみの使い手(有権者)の随時の判断により、そのしくみが実行する仕事の特定の領域にかんして、そのしくみの自動作動を解除し、その領域での仕事の内容はどうあるべきかを、使い手自身が直接決めるための機構は、一般的には「レファレンダム(referendum)」と呼ばれる。【19】この要点は、懸案が、議会(しくみの一部)にではなく、一般の有権者(使い手)の判断に付託(refer)されることである。つまり、最終の決定が直接有権者によってなされることである。この、一般の有権者の判断に委ねられる議案がだれによって作成されたかにより、それは、(1)狭義のレファレンダム――議会の作った法案またはすでに制定された法律が一般の有権者の判断に付される――と、(2)「イニシアティブ(initiative)」――一部の有権者が作成(initiate)した法案が一般の有権者の判断に付される――とに分けられる。
狭義のレファレンダムには、さらに、(a)連署した有権者(使い手)の請求により、議会(しくみの一部)の意向のいかんにかかわらず、現行の法律の可否が一般の有権者の判断に委ねられるものと、(b)議会の意思または法律の規定により、効力をもつ前の段階での法案が、議会によって一般の有権者の判断に委ねられるものの二つがある。日本の現行憲法の第九五条、第九六条の規定は、この(b)の、法律の規定による事例である。((b)の前者すなわち議会の意思による付託は、厳密にいえば、有権者が任意の時点でしくみの自動作動を解除したものではないという点で、前述の(ロ)に当るとはいえない。法律の規定による付託の場合には、その規定のなかに、使い手の意思をあらかじめ入れておくことができる。)
イニシアティブには、(c)一部の有権者が作成した法案が、連署した有権者の請求により、一般の有権者の判断に委ねられるものと、(d)同様の法案が同様の請求によりまず議会の審議に付され、議会が修正なしの可決をしない場合には、議会の意向にかかわらず、それが一般の有権者の判断に委ねられるものとがある。日本の地方自治法に定める条例制定改廃の直接請求は、この(d)からその後半の手続きをとりさったものといえる。【20】
以上から明らかなように、レファレンダム一般は「有権者審判(または判断)」と呼ぶのがふさわしい。さらに、その小区分は、(1)議会判断に対する有権者審判=(a)議会判断に対する請求による有権者審判、(b)議会判断に対する議会付託による有権者審判、(2)有権者案に対する有権者審判=(c)有権者案に対する直接有権者審判、(d)有権者案に対する間接有権者審判とでも呼ぶのが適当だと思われる。【21】
有権者審判の機構の価値は、それが彼らに、使い手としての試行錯誤の機会を保障し、その結果として、他者の意思による不本意な拘束の可能性を小さくするところにある。ところが、人びとが直接投票を行ない、ある案件に審判がくだされた過去の事例のなかには、専制的な指導者が自己の体制や政策の権威づけのために一般投票を利用した、というものが含まれている。たとえば、ナチス・ドイツの政権下でのいくつかの事例がそれである。【22】この種の例は、国家(政府)の使い手の試行錯誤の機会の拡充にはけっしてつながらないという点で、また、個別の政策が争点になっていない場合にはその点で、【23】本稿で有権者審判と呼ぶものと区別する必要がある。
日本において、しくみとしての国家(政府)の使い手すなわち私たち有権者の試行錯誤の機会を拡充し、その結果として、私たちが他者の意思によって不本意に拘束を被むる機会をできるかぎり少なくするためには、現在きわめてかぎられた形でしか存在しない有権者審判の制度を拡充することがぜひとも必要である。
註
【1】自由民主党『わが党の基本方針』(自由民主党広報委員会・昭和五五年)、三ページ。
【2】試行錯誤の機会が確保されることは、「自由」の観念の核心である。
【3】See Harold J. Laski, An Introduction to Politics (London: George Allen & Unwin, Ltd., 1931), pp. 15-16.
【4】これは、日本語の用語法についての経験的な分析の結果であり、その意味で争いうるものである。「コッカ」とこの四つのモノの関係は、日常語の「スイソ(水素)」に、水素原子、水素分子などが区別されずに含まれているのと同じである。
【5】国家をひとつの装置としてとらえるのは、社会契約説やマルクス主義など、政治哲学の大きな思潮のひとつである。
【6】参照、行政法学にいう「規制行政」、および、M・フリードマンのいう「ゲームのルールを守らせること」(Milton Friedman, Capitalism and Freedom (Chicago: University of Chicago Press, 1962), ch. 2)。
【7】ちなみに、現在、アメリカ合衆国では一八年になっている(アメリカ含衆国憲法修正第二六条)。
【8】この使い方の手引きの整備は、政治学が果さなければならない課題のひとつである。
【9】この操作の過程の別の角度からの考察として、つぎを参照してほしい。根岸毅「投票行動の分析と政治の改革」(『法学研究』第五○巻第一二号)、二八五〜二八六ページ。
国家(政府)というしくみを使う過程は、コンピュータの操作に準えることができる。
コンピュータ(政府)にどのような仕事をさせるかは、使い手がそれにどんなプログラム(政党の綱領も英語ではこう呼ばれる)をのせるかで決まる。使い手は、自分の必要に応じたプログラムを自分で開発してもよいが、出来合いのものをプログラム会社(政党)から購入することもできる。選挙は、有権者が、政党から、いくつものプログラムが込みになっているパッケージののっている磁気ディスクやテープ(政党からの立候補者)を買い入れ、それをコンピュータにかけ、実行命令を与えるようなものである。(ただし、コンピュータの場合は、ふつう使い手が一時にのせるパッケージ・プログラムの数はひとつである。国家の場合は、複数の使い手が複数の異なるパッケージ・プログラムを同時にのせると、基本プログラムであるオペレーティング・システムが、入力数のもっとも多いパッケージを選び出し、その実行を開始するようなものである。)
【10】その一例を明らかにした分析として、根岸毅「政治的選択の制度と平和」(『平和研究』第三号)を参照してほしい。
【11】政策パックにかんしては、参照、根岸毅「公共性と市民参加」(加藤・古田編『公共経済学講義』青林書院新社・一九七四年)、二六六、二七一ページ。
【12】根岸「政治的選択の制度と平和」、九一ページ。
【13】H・ケルゼン(西島芳二訳)『デモクラシーの本質と価値』岩波書店・昭和四一年、四四ぺ−ジ。
【14】矢部貞治『政治学』勁草書房・昭和二四年、三四九ページ。
【15】参照、根岸毅「政治的な実践目標」(『法学研究』第四五巻第三号)、一五一〜一五五ページ。前に引用したケルゼンの民主主義の定義の基礎には、「絶対的真理と絶対的価値とが、人間の認識にとつて閉されているとみなす者は、自己の意見だけでなく、他人の反対意見をも少なくとも可能であるとみなさなければならない。この故に相対主義は民主主義思想が前提とする世界観である。」という考えがある(ケルゼン『デモクラシーの本質と価値』、一三一ページ)。
【16】参照、矢部貞治『民主主義の本質と価値』弘文堂・昭和二四年、「七 民主主義の価値――相対主義世界観の問題――」。
【17】そのせいもあって、これらの投票の事例はきわめて少ない。現行憲法の施行後、前者は一度も行なわれたことがないし、後者も、昭和二四年の広島平和記念都市建設法、長崎国際文化都市建設法などを含め、数は多くない。
【18】『毎日新間』一九八○年一二月一九日朝刊一八面。
【19】See David Butler and Austin Ranney, eds., Referendums: A Comparative Study of Practice and Theory (Washington, D.C.: American Enterprise Institute for Public Policy Research, 1978), p. 4.
【20】レファレンダムの種類分け、性格づけは、さまざまに試みられている。See, for example, Butler and Ranney, eds., Referendums, pp. 23-24, and Hugh A. Bone and Robert C. Bennedict, "Perspectives on Direct Legislation: Washington State's Experience, 1914-1973," Western Political Quarterly, Vol. 28, No. 2 (June 1975), pp. 336-337.
【21】本文中の区分は、通常行なわれる区分の大枠にそったものである。(a)の対象となる法律のなかには、かつて(2)で成立したものも含まれるが、この場合は、議会の判断に対して有権者が審判を下すことにはならない。
レファレンダムを「国民(または住民)投票」、イニシアティブを「国民(または住民)発案」と訳すことがあるが、これは、この両者の要点が、有権者が直接の投票によって審判をくだすところにあることを曖昧にするので不適切である。
【22】See Butler and Ranney, eds., Referendums, p. 229.
【23】同様に、ふつう直接民主主義の制度として、レファレンダム、イニシアティブと一括して論じられるリコールは、政策パックの選び直しにすぎないという点で、本稿で有権者審判と呼ぶものと区別される。
(一九八一年九月一八日)
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《「政治における試行錯誤の機会」終わり》