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著者:
根岸毅(ねぎし・たけし)
慶應義塾大学名誉教授・政治学専攻
出典:
田中宏・大石裕編『政治・社会理論のフロンティア』(慶應義塾大学出版会・1998年)、3-19ページ。
Copyright (C) 1998 by NEGISHI, Takeshi
学問分野間での政治学の分担――政治学の責任
目 次
はじめに
一 なぜ「政治学の分担」を確定する必要があるのか
二 「政治学の分担」を確定する方法
三 政治学の分担
おわりに
はじめに
本稿で私が試みるのは、諸学問分野間での「政治学の分担」の範囲を確定する作業である。
さて、実際にこの作業に着手する前に、答を出しておく必要がある問が二つある。一つは、「なぜこの分担の範囲を確定する必要があるのか」である。この問に納得のいく答が得られなければ、この作業自体が無意味なものになる可能性がある。他の一つは、「それはどのような方法で確定できるのか」である。この問に対する答なくしては、分担範囲の確定の作業の結果が適切か否かを判断することができない。
一 なぜ「政治学の分担」を確定する必要があるのか
学問の分野を分け、それぞれの分担の範囲を確定しようとする試みに対しては、二つの方面から「なぜそんなことが必要なのか」という問が投げ掛けられる。
その一は、研究者からであり、それには「自分の関心の赴くままに好きな研究をしていてどこが悪い」という意味が込められている。
その二は、一般の人からの「分けなくたっていいんじゃないの」という問い掛けである。これには、「やるべきことがやられていれば」、すなわち「重要な課題★がすべてうまく対処されているのであれば」の前提が言外に隠されている。したがって、この問の趣意をいいかえれば、「人びとが重要だと考える多種多様なすべての課題に手抜かりなく対処するために、なぜ学問の分野分けとそれぞれの分野の分担の範囲を確定することが必要なのか」ということになる。
★ 人びとが学問に対処を求める課題には、二つの種類がある。その一は、一般的にいえば、「生活の円滑な遂行の障害となる特定の事物を取り除き、代わって生活に都合の良い状況を作り出す」という課題である。その二は、一般的にいえば、「特定の事物について、その種類・状態・発生の仕組みを明らかにする」という課題である。(参照、根岸毅『政治学と国家』慶應通信・1990年、104-105ページ。)
前者の課題は、人が生活者の立場に立ったときに認識するものであり、研究者の立場では認識できるものではない。その意味で、この種の課題については、学問(研究者)は、それを社会(生活者)から受け取る立場にしかない。(私は、この種の課題の処理のための学問を総称して「工学」と呼ぶ。その論理構造の詳細については、根岸毅「政治学とは何か」(根岸毅他『国家の解剖学』日本評論社・1994年)、48-58、80-83ページを参照のこと。)
後者の課題を認識するとき、人は「研究者」の立場に立っていると言うことができる。この課題への答を求める活動を業として遂行する者が、ふつう言うところの研究者である。(私は、この種の課題の処理のための学問を総称して「理学」と呼ぶ。参照、根岸「政治学とは何か」、78-80ページ。)
社会一般の人びとが「重要な課題がすべてうまく対処されているのであれば」と言うとき、主に意識されているのは前者の課題である。
私は、これらの問に、「学問の最終的な存立基盤は、それが社会の要請に応じて果たす役割にある」とする立場から答える。この立場からすれば、第二の問にはより根源的な意義がある。この問に対する満足な答をもたないまま第一の問を発することは、学問の社会的責任に無関心であるとの謗りを免れることはできない。
少なくとも現在においては、人びとが重要だと考える多種多様な課題すべてを一手に引き受けて研究を行なう唯一の学問は存在しえない。したがって、それらの課題に手抜かりなく対処するためには、周到な手配が必要である。その一つが、「学問の分野分けとそれぞれの分野の分担の範囲を確定すること」である。なぜならば、その確定により、それぞれの学問分野が制度として取り組む必要がある課題の範囲が明らかになり、それに対する組織的な取り組みの準備が意識的に行なえるようになるからである。
「分野分けを確定しなくても、やるべきことがやられていれば良い」のは確かである。しかし、分野ごとの課題の範囲が確定していないと、研究課題の選定は結局研究者個人の好みに任されることになる。研究が研究者の関心の赴くままに行なわれると、社会的に重要であっても取り上げられない課題すなわち研究の空白地帯が出てくる。つまり、社会一般の人びとの側から見ると、研究に偏りが生まれる。その結果、「重要な課題に手抜かりなく対処すべし」という社会の要請には応えられない事態が生まれる。★
★ どの事物について、その種類・状態・発生の仕組みを解明すべきか(註(1)の後者の課題)の判断に関しては、一般の人びとも専門の研究者もともに「研究者」としては同じ立場にあり、課題の認識を専門の研究者に任せておいても、一般の人びとから見て手抜かりが生じることは原則としてない。
分野ごとの課題の範囲の確定を欠いた場合に手抜かりが生じるのは、生活上の障害への対処(註(1)の前者の課題)に関してである。なぜならば、この種の課題の処理のための学問(根岸の言う「工学」)にあっても、「自分の関心の赴くままに好きな研究をしていてどこが悪い」と言う研究者個人の好みは、往々にして、事物の種類・状態・発生の仕組みを解明する課題に向いてしまうからである(参照、「座談会 学問における基礎と応用――特に医学を中心として――」(慶應義塾大学『塾』第59号、昭和48年6月1日)、10-11ページ)。
1960年代後半の、行動論的政治学に対する厳しい批判は、そのような事態が現実に起こった事例である。行動論にはこの意味での「手抜かり」があり、それが激しく批判された。★☆
★ 参照、根岸「政治学とは何か」、69-72ページ。同時期の、経済学、社会学に対する批判も、同じ性質のものであった。
☆ この手抜かりが生まれた原因の一つに、行動論の研究者が取っていたつぎのような方法論上の立場を指摘することができる。彼らは、みずからの研究を「基礎研究」と位置づけ、さらに「基礎研究はいますぐには社会問題の解決に役立たないとしても、その成果はいつの日にか応用されて問題の解決に役立つ」と考えていた(参照、根岸「政治学とは何か」、49-50ページ)。研究者が、往々にして、「自分の関心の赴くままに好きな研究をしていてどこが悪い」と開き直れるのは、この理解がもたらす安心感があるからである。
しかし、この理解は方法論的に間違っている。
研究の成果としての特定の法則的知識は、その被説明(従属)変数が記述する事物の状態の操作――したがって、その事物の状態には問題があり、それを別の好ましい状態に変えようと考える人――には、いまでも、いつの日でも役立つが、それ以外の事物の状態の操作には、どんなに時が経っても役立つことはありえない(参照、根岸「政治学とは何か」、49-50ページ)。いま対処が求められている社会問題の解決に役立たない法則的知識が、時が経っていつの日にか、その同じ問題の解決に役立つようになることは論理的には決してありえない。
学問の分野分けとそれぞれの分野の分担の範囲を確定することは、人びとが重要だと考える多種多様な課題すべてに手抜かりなく対処するために不可欠の前提である。政治学の分担の範囲の確定は、この前提の一環を成している。★
★ 以上の議論は政治学の存立基盤にかかわるという意味で根源的な意義をもつが、政治学の分担の範囲の確定は、政治学者にとっては、諸学問間での政治学の独自性と存在意義を確認するという意味ももっている。たとえば、つぎのような場合にその確認が必要になる。
現在、特定の地域を対象とする研究には、さまざまな学問分野の研究者が関心を示している。彼らの本拠地を列挙すれば、政治学の外に、経済学、法律学、社会学、社会心理学、文化人類学、考古学、宗教学、文学等々があげられる。これらの出自をもつ研究者が集まり、特定地域に関する共同研究を行なおうという際に、政治学者はみずからの独自性と存在意義を、他の出自をもつ研究者に対して、どのように説明し、主張しようとするのであろうか。
この意味での政治学の独自性と存在意義の確認は、共同研究が行なわれる地域研究以外の領域――たとえば、平和研究やマス・コミュニケイション研究――でも必要である。
二 「政治学の分担」を確定する方法
学問分野の別は、論理的には、人が、数ある知的関心事をいくつかの下位区分に分け、手分けして追究するところに生じる。諸学問分野間での特定の学問分野の分担の範囲は、この下位区分の一つとして確定する。したがって、その確定は、すべての下位区分を見渡す――隣接する異なる下位区分間の境界を整理する意図を持った――観点に基づいてはじめて可能であり、個別の学問分野に視野を限定して構成される論理によっては行なうことができない。★
★ これは、特定の個別学問分野での研究に従事する研究者の立場から構成される論理によっては、その分野の分担の範囲を確定することができない、ということを意味する。なぜならば、その研究者の視野はその分野に限定されているからである。
ところで、残念ながら、学問分野が多岐に分かれた現在において、「すべての下位区分を見渡す観点」に基づいて諸学問分野間の境界を体系的に整理した学問的成果はない。私たちが入手できるのは、その整理のための材料に過ぎない。その材料とは、「各学問分野に対する社会の期待(要請)」の形をとった社会通念(社会一般に流布している考え)のことである。社会通念は各種の学問分野に対する期待をもつ。このことは、そこで、諸学問分野間の境界の整理が、無自覚的ながら、一応は行なわれていることを意味する。
政治学の場合、伝統的な学派は社会の期待に一応うまく応えていたものと考えられる。それは、期待外れの批判の声が上がったのが、行動論が支配的になってからであったことで明らかである。★したがって、政治学の分担の確定は、社会通念として存在する「政治学に対する社会の期待」とそれに一応うまく応えていたと考えられる伝統的な政治学を材料☆として、それらを論理的に整理することを通じて可能となる、と言うことができる。
★ 参照、根岸「政治学とは何か」、64ページ。
☆ 社会通念として存在する「政治学に対する社会の期待」の内容は何か、それが伝統的な政治学にどのように反映されてきたかは、いずれも「事実」の問題として学問的に争いうる事項である。その確認の際には、あらかじめ存在する研究者個人としての関心事の方に「事実」を引き寄せようとするのではなく、先入主なしに社会の要請が何かを確認しようとすることが必要である。
三 政治学の分担
人がこれまで関心を払ってきた事項の一つに、「一定範囲の人びとの間に、いかにしてうまく、規則立った関係(秩序)を作り、維持するか」という問題がある。その秩序には、その実現のために特別の装置を作らなくても形成し、維持することができるもの★もあれば、特別の装置を必要とするものもある。後者の状況において作られた装置が「国家」である。伝統的に政治学が関心を示してきたもの☆は、この意味での装置としての国家であり、それが実行する秩序形成の仕事である。■□
★ 一定範囲の人びと全員が、ある秩序が自分にとって必要不可欠だと感じると同時に、その秩序形成に自分が協力しなければその秩序の形成が危うくなると感じている場合には、人びとの自発的協力によりその秩序が形成される。この場合、そのための特別の装置は必要とならない。たとえば、非常に狭い範囲の人びとの間での秩序形成にはこの条件が整うことがある。
☆ 伝統的な政治学の構成に関する私の理解については、根岸「政治学とは何か」、64-67ページ、および、根岸『政治学と国家』、第四章第二節を参照のこと。これは、政治学に対する社会の期待に対応している。後者についての私の理解については、根岸「政治学とは何か」、62-64ページ、および、根岸『政治学と国家』、第四章第一節を参照のこと。これらの私の理解については、「事実」の問題として学問的に争いうることはすでに指摘したとおりである。
■ この意味での装置として国家以外のものを考えることは、論理的には可能である。それが現実に考案された場合には、伝統的な政治学とは異なるが関連する学問分野が、その装置に関してあらたに成立する可能性は排除できない。
これはちょうど、自動車工学と航空工学の関係に似ている。人や物の空間的移動のための装置としては、1885年にまず自動車が発明された。自動車工学の発端はここにある。その後、空間的移動のためという意味では同類の装置として、1903年に航空機が発明された。航空工学はここから出発する。空間的移動のための装置とそれが実行する仕事は、造船学も含めいくつかの異なる学問分野が分担して研究を行なっている。
□ 国家がいかなる装置であるかについては、根岸「政治学とは何か」、92-111ページを参照のこと。
このことは、「政治学は国家そのものにしか関心を示さない」ということでもないし、また、「国家といささかでも関連があると考えられる事項にはなんでも関心を示す」ということでもない。この点を確認することは、私たちの事物に対する関心が関連する別の事物にまで容易に拡大する自由さを持つことと考え合わせると重要である。
人が行なう活動や人が作り出す事物は、相互に「目的」と「手段」(または「結果」と「原因」)の関係にある。これは、ある観点から「目的」と位置づけられる活動や事物が、別の観点からは「手段」と位置づけられる、またその逆も成り立つことを意味する。この「目的=手段」の連関をたぐれば、私たちの関心は双方向にいかようにも延長することができる。どの学問分野で研究を始めたにせよ、個々の研究者の関心がその学問分野の領域を離れて自由に発展することを妨げることはできない。
たとえば、装置としての国家から見れば、それが作り出す秩序は「目的」である。しかし、その秩序については、その先の別の目的の観点から「手段」としての有効性を吟味することもできる。たとえば、国家が作り出す特定の秩序について、それがその秩序の下にある人びとの間の富の平等な分配に役立っているのか、格差を生み出しているのかを吟味することができる。さらには、そうして実現される富の分配状況について、それが人びとの教育機会の平等な享受に役立つか否かも検討の対象にすることができる。★
★ 国家が作り出す秩序は、その先のさまざまな状態(目的)の実現にかかわりを持っている。本文中に指摘した富の分配のほかに、資源の有効な配分、環境の保全、介護の充実、個人の生命・自由の保全などを指摘することができる。
一方、すべて学問分野には一定の守備範囲(領域)がある。これは一定の論理に基づいて確定され、時として研究者個人の自由な関心に対する「枠」となる。それは、個々の研究者の関心の自由な発展を抑制するものでもなければ、抑制できるものでもない。ただ、研究者の関心がその枠から飛び出した場合に、その関心に基づく研究活動がその学問分野での研究であると名乗ることを認めないだけである。
私がいまこの論考で解明しようとしているのは、個々の研究者の関心の自由な発展の様子ではなく、特定の学問分野の守備範囲をいかにして確定するかの問題である。後者の問題として言えば、政治学は、「秩序形成の仕事と、それを実行するための装置としての国家」に限って関心を払い、それ以外の事項には他の学問領域での問題として関心を示さない。
政治学がなにに関心を持ち、なにに関心を示さないかをより詳細に記述すればつぎのようになる。
【0】
政治学が関心をもつのは、任意の秩序を作り出そうとする際に私たちが直面するさまざまな問題のうち、そのために特別の装置(すなわち国家)を必要とする場合のそれである。具体的には、^秩序の形成のためにはどのような仕事★が必要か、_その仕事の実行のために、どのような場合、どのような理由で特別の装置が必要になるのか☆、`その仕事の実行のためにはどのような装置(造り、使い方)が必要か■、aそのような装置はどのようにして作ったらよいのか、どのようにして使ったらよいのか、などがそれである。
★ 国家が実行している仕事は、「ルールの設定と維持を通して、一定範囲の人びとの行動を規制すること」である。(しかし、これ以外の内容の仕事を実行することで秩序の形成、維持が図られる可能性は排除できない。)
☆ その形成と維持が必要な秩序に人びとの自発的協力が得られない場合には、その人びとを対象として強制力を行使する必要がある。この意味での強制力の行使は、そのための特別の装置を必要とする。その装置が「国家」である。
この種の秩序は二つに大別される。その一は、その秩序から自発的協力をしてもいいだけの利益は得ていても、フリー・ライダーを決め込む誘因が働いて自発的には協力をしない人が出る秩序である。その二は、その秩序から利益を得る一部の人びとが、利益を得ない人びとに強制力を行使してでもそれを形成し、維持しようとする秩序である。
■ ここには、単一国家・連邦国家、権力分立、地方分権、公務員制度、民主政治・専制政治、選挙制度などをめぐる議論がかかわる。
ここに働いているのは、「考察の対象をデザインしようとする思考」である。この作業は、いずれも不可欠の、つぎの二つの要素から構成されている。
第一の要素は、実現すべき「目標(目的)」の提示である。これは、考察の対象の事物が特定の姿をとったもの、すなわち一つの「事実」として記述される。しかし、それはたんなる事実ではなく、「望ましい」と評価された事実である。したがって、それに関して人びとの間で評価が定まらない場合には、そのような評価の根拠を明らかにする議論が必要となる。これは、デザインの作業の「哲学」の局面である。
デザインの思考には、考察の対象を作り出そうとする意思が込められている。したがって、それは、目標の事物の姿を記述するだけでは完結せず、第二に、その事物を目標の姿に形作るための「手立て」の解明を求める。これは、事物生成のメカニズムの解明を通じてはじめて明らかになる。これは、デザインの作業の「科学」の局面である。
このデザインの思考は、この種の学問分野★の守備範囲を確定する根拠であり、その意味でこの分野で研究活動に従事する研究者個人の自由な関心の発展に対する「枠」となる。政治学の場合、その枠はつぎの二つの局面で働く。
★ 私の規定する意味での「工学」。参照、根岸「政治学とは何か」、48-58ページ。
【1】
政治学では、国家が作り出す秩序★は「目的」としてのみ扱われ、その先の目的に対する「手段」としての有効性の問題は守備範囲の外にある。これは、事物の「目的=手段」の連関を目的方向にたぐっての関心の発展も、政治学では装置(国家)が実行する仕事☆の結果(秩序)を目的として位置づけるところまでで止める、ということを意味する。つまり、政治学は、国家といささかでも関連があると考えられる事項にはなんでも関心を示すわけではない。
★ 国家に限らずすべて装置は多種多様な仕事を実行している。それらは、その装置に「特有の仕事」と「準備作業」の二つに区分できる。その区分の基準は、その仕事が、同じ装置が実行する他の仕事を実行するための条件整備として行なわれるか否かにある。条件整備としてが後者、そうでなければ前者である。(参照、根岸「政治学とは何か」、93-96ページ。ここでは、議論の単純化のために、装置が「複合化」することにより「後から付け加わった仕事」の問題には言及しない。参照、根岸毅「国家の概念とウェーバーの間違い」(『法学研究』第69巻第4号、1996年)、6-8ページ。)準備作業とそれがもたらす結果は装置にとって「手段」(特有の仕事を実行するための条件)であり、その手段としての有効性の吟味が当然必要となる。
国家の場合、特有の仕事が実行された結果作り出されるのは秩序である。また、準備作業の中にも、それが実行された結果として秩序が形成されるものがある。しかし、準備作業とそれがもたらす結果については、すでに指摘したように、その手段としての有効性の吟味を行なう必要がある。後者の秩序の主要なものとしては、民主主義・専制主義に区別される装置の使い方の方式(政治秩序)をあげることができる。その手段としての有効性は、どのような使い方の方式が装置の「使い勝手」を高めるかの観点から行なうことができる。(参照、根岸毅「政治における試行錯誤の機会」(石川忠雄教授還暦記念論文集編集委員会編『現代中国と世界』慶應通信・1982年)、804、 806ページ、および、根岸毅「民主主義の価値の論証」(『法学研究』第65巻第1号、1992年)、120ページ。)
本文で言う「秩序」は、国家に特有の仕事が実行された結果作り出される秩序のことであり、それには準備作業がもたらす秩序は含まれない。
☆ これは当然に「特有の仕事」の意味である。
たとえば、国家が作り出す秩序のあり様は、富の平等な分配や資源の有効な配分を左右する。しかし、政治学はこの種の問題の解明には関心がない。それは経済学の関心事である。★また、国家が作り出す秩序のあり様は、青少年犯罪の発生率を左右する。しかし、この種の問題の解明にも政治学は関心を示さない。それは法律学や犯罪学の関心事である。☆さらに、国家が作り出す秩序のあり様は、高齢者に対する介護サービスの充実の程度を左右する。しかし、この種の問題の解明にもまた政治学は関心がない。それは看護学や福祉学の関心事である。■
★ 1997年11月に発生した大手証券会社の廃業は、第二次大戦後に大蔵省が採用してきたいわゆる「護送船団方式」に社会の関心を集めさせることになった。この関連で頻繁に聞かれたのは、倒産や廃業は競争力に欠如する企業の淘汰という市場の正常な機能のなせる業であり、護送船団方式にはその機能が欠けていた、という指摘であった。どのような金融秩序が効率的な資金の配分を促し、金融機関の競争力の強化につながるかについての専門的な検討は、人びとは政治学者には求めていない。
☆ 1997年3月から5月にかけて神戸で起こった連続小学生殺害事件は、現行の少年法の「甘さ」が青少年犯罪の発生を抑止できていない点に耳目を集めさせた。どのような内容を少年法に盛り込めば青少年犯罪の抑止ができるかの問題についての専門的な検討は、人びとは政治学者には求めていない。
■ 1997年12月、国会は介護保険法を成立させた。その過程で広く論じられた事項の一つは、提出された法案の内容で、果たして満足な介護サービスが受けられるのかの問題であった。この点についての専門的な検討は、人びとは政治学者には求めていない。
これらの問題が、人として無視することのできない重要性をもつことは明らかである。しかし、政治学が人の直面するすべての課題には対処できないとすれば、また諸学問間で分業が行なわれざるを得ないとすれば、これらは政治学にとっては守備範囲外の問題である。問題の社会的重要性と政治学の分担の範囲は別個の問題である。この論考で私が解明しようとしているのは後者の問題である。
政治学の分担の範囲に関して私がここに示した論理――「政治学では装置としての国家が実行する仕事の結果を目的として位置づけるところまでで止める」――は、デザインの思考が働いている他の学問分野にもひとしく当てはまる。それは、ちょうど、自動車工学が人や物の空間的移動の仕事とそれを実行する特定の装置には関心を示すが、人や物が空間的に移動した結果(物流)が国内総生産の増減にどのようにかかわりを持つかには関心がないのと同じである。自動車工学のこの整理の仕方に納得がいくならば、政治学についての私の説明にも納得がいくはずである。学問の方法論において、政治学だけ特別扱いをする「二重の基準」論法は適切ではない。★
★ 二重の基準の不適切さについては、根岸「国家の概念とウェーバーの間違い」、11、 16ページを参照のこと。
【2】
デザインの作業の「科学」の局面では、装置としての国家の造り、使い方、仕事の遂行に対してさまざまな要因(人の活動および事物)がどのような影響を与えるかに注目する必要がある。これは、事物の「目的=手段」の連関を手段方向にたぐって関心を延長することを意味する。つまり、政治学は国家そのものにしか関心を示さないわけではない。★
★ このような関心の示し方は、伝統的な政治学にもみられる。たとえば、ルソーが『社会契約論』(第三編第八章)で、人口の多少や、「余分の生産物」の高を規定する「風土のゆたかさ、土地の要求する労働の種類、その生産物の性質、住民の体力、住民が必要とする消費の多少」などを取り上げたのはその例である(ルソー(桑原、前川訳)『社会契約論』岩波書店・1954年、110-113ページ)。
同じ関心の示し方は、行動論にもみられる。たとえば、ユーローが、投票行動の説明に際して「一見政治的とは思えない社会的、文化的、個人的要因」を考慮に入れる必要性を説くのがそれである(Heiz Eulau, The Behavioral Persuasion in Politics (New York: Random House, 1963), p. 20)。
この意味での関心の示し方に関して、伝統的な政治学と行動論的政治学を区別するものはない。
具体的には、すでに存在しているこの種の装置(国家)に関して、bそれがどのような造りになっており、どんな使われ方をしているか、cその結果どのような形で仕事が実行されており、どのような事態が生じているかなどが問われることになる。
ただし、政治学が関心をもつのは、`、aの意味での装置作りに役立つ限りでの人の活動や事物の影響であり、それに役立つ度合いがきわめて小さいか、まったくないと考えられる事項は政治学の関心外となる。いいかえれば、国家になんらかの形で関係づけることができることでも、国家による秩序形成の仕事の遂行にかかわりがないと判断される事項は、政治学の守備範囲内とは考えられない。ここで政治学が注目するのは、「装置(国家)が実行する仕事(秩序形成)とのかかわりの濃さ」★である。政治学は国家といささかでも関連があると考えられる事項にはなんでも関心を示すわけではない。
★ この論考が慶應義塾大学法学部政治学科開設百年記念の論文集に含まれることを考えると、つぎの点の指摘は時宜に適ったものであろう。
昭和10年代の政治概念論争に際し、本塾政治学科の教授であった潮田江次が「政治的意義」「政治性」と呼んだもの(潮田江次『政治の概念』慶應出版社・1944年、227、 355ページ)は、この「かかわり」のことであったと言える。潮田曰く――任意の団体の設立の「目的が特に全体社会[「国家社会」と同義で、「各種の社会関係の中で部分部分に終る関係に対して全体に亘り及ぶ関係」(同、372ページ)の意…根岸]の維持改善と必然の関連を認められた時には、そこに始めて其団体は特別な政治的意義を認められることになる」(同、227ページ)。「まことに諸々の団体に政治現象が現れるのも、国家団体[有権者たちから成る団体(同、112、 311ページ)…根岸]に政治現象の凝集傾向が見られるのも、すべて合議体に於てではなく、国家社会[「全体社会」と同義…根岸]に関連をもつた活動に於てであり、また其関連の厚薄が政治現象の濃淡をつくるのである。従つて政治現象の凝集傾向は団体ひとつひとつをめぐつて群雄割拠の形をとるのではなく、団体すべてに通じて唯一の『国家社会』をめぐる単一中心の漸層体系を成すと言へよう」(同、123-124ページ)。
したがって、装置としての国家(政府)を構成する部品である公務員の再就職も、再就職先が在職中の職務と密接な関連があれば、政府の判断を特殊利益の思惑でねじ曲げる可能性があることを理由に政治学の関心事となるし、そのような関連がない再就職であれば政治学としては関心を払わないことになる。また、国会議事堂内の壁に一見学者が書いた落書きは、ただそれだけのことであれば政治学が関心を示すことはないが、その内容が物議を醸し、結果として一大政変につながったような場合には、政治学の関心事となる。
おわりに
この論考で私は、諸学問分野間での「政治学の分担」の範囲の確定を試みた。それは、学問の分野分けと各分野の分担範囲の確定が、人びとが重要だと考える多種多様な課題すべてに手抜かりなく対処するために不可欠の前提だからである。政治学でのこの試みは、この前提の一環を成す。
ところで、その確定は、個別の学問分野に視野を限定して構成される論理によっては行なえず、異なる分野を見渡す観点を内在させる社会通念を材料としてはじめて可能になる。政治学の場合は、社会通念として存在する「政治学に対する社会の期待」とそれに一応うまく応えていたと考えられる伝統的な政治学を材料として、それらを論理的に整理することを通じて可能となる。
政治学に対する社会の期待についての私の理解に基づけば、伝統的に政治学が関心を示してきたのは、装置としての国家であり、それが実行する秩序形成の仕事である。これは、「政治学は国家そのものにしか関心を示さない」ということでもないし、また、「国家といささかでも関連があると考えられる事項にはなんでも関心を示す」ということでもない。
私たちの関心は、事物の間にある「目的=手段」の連関をたぐって、双方向にいかようにも延長することができる。一方、すべて学問分野には一定の守備範囲がある。これは一定の論理に基づいて確定され、時として研究者個人の自由な関心に対する「枠」となる。私がこの論考で解明しようとしているのは、個々の研究者の関心の自由な発展の様子ではなく、制度としての一学問分野の守備範囲をいかにして確定するかの問題である。
政治学が関心をもつのは、任意の秩序を作り出そうとする際に私たちが直面するさまざまな問題のうち、そのために特別の装置(すなわち国家)を必要とする場合のそれである。ここに働いているのは「デザインの思考」である。この思考方法から、研究者個人の自由な関心の発展に対する「枠」が出てくる。
それは、第一に、目的方向への関心の延長に対して、政治学では装置(国家)が実行する仕事の結果(秩序)を目的として位置づけるところまでで止める、という制限となって現われる。つまり、政治学は、国家といささかでも関連があると考えられる事項にはなんでも関心を示すわけではない。
第二にそれは、手段方向への延長に対して、関心の発展を促す方向と抑制する方向で働く。デザインの思考は、政治学が、さまざまな要因が装置としての国家の造り、使い方、仕事の遂行に対してもたらす影響に注目することを促す。つまり、政治学は国家そのものにしか関心を示さないわけではない。他方、その同じ思考は、政治学の関心を、装置(国家)作りに役立つ限りでの影響に限定する。つまり、政治学は国家といささかでも関連があると考えられる事項にはなんでも関心を示すわけではない。
この整理の仕方に基づいて確定される「政治学の分担」の範囲は、社会が政治学に対して抱く期待にうまく合致するものと考えられる。
Copyright (C) 1998 by NEGISHI, Takeshi
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《「学問分野間での政治学の分担」終わり》