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著者:
根岸毅(ねぎし・たけし)
慶應義塾大学名誉教授・政治学専攻
 
 
出典:
慶應義塾『三田評論』第863号、1985年10月、20-28ページ。
Copyright (C) 1985 by NEGISHI, Takeshi
 
 
               常識的議員定数配分論
 
                  根岸 毅
               (本塾大学法学部教授)
 
 日本語の「常識」はふつう一般人が持っているべき標準的な知識のことを指すが、英語の「コモン・センス」はそれ以上に、だれもが持っているべき良識、分別、判断の力を意味する。アメリカ合衆国独立期の思想家トマス・ペインが、アメリカの植民地が本国イギリスから独立することの正当性を説いた小冊子に『コモン・センス』の題名をつけたのは、それが良識のしからしむるところと考えたからであった。物事の当否の判断が問題になる場面では、常識(コモン・センス)は基本的に健全なものである。専門的議論が、常識に欠けるもの、常識の偏執性などを指摘することなしに、常識を無視し、軽視し、それから故なく離れる場合、おうおうにしてその議論は健全さを失う。
 去る七月十七日に最高裁判所大法廷の判決が下ったいわゆる衆議院定数訴訟に関して、裁判の過程や新聞紙上などで見うけられる議論には、常識(コモン・センス)にもとづく判断の健全さが欠けているように思われる。それは、その立論のし方が主として法律学の専門領域の了解事項に依拠し、一般人のその問題に関する思いに目を開いていないからである。最近この判決文を読む機会があったので、判決理由および選挙管理委員会側と有権者側の上告理由のなかに示された論点のなかで、ごく普通の人たちの一般的、常識的な発想や感じ方と異なり、不健全と思われるものをいくつか取り上げ、論評を加えることにする。
 
 
  常識的な発想――装置とその使い手
 
 国会や政府に代表される国家機関は、その呼び名が示すように一つの社会的な「装置」である。一般に装置とは、人が一定の目的の達成のために、一定の仕事を実行させようとして作り出した道具である。
 その装置である国家との関係で、私たちは三つの異なる立場を占めることになる。第一は、装置の「使い手」の立場である。この立場を占めるとき人は有権者もしくは主権者と呼ばれる。第二は、装置の「部品」の立場である。広義の公務員(議員、裁判官、いわゆる公務員など)がこれに当たる。装置としての国家の特徴は、それが実行する仕事が一定範囲の人々を対象にして行われるところにある。この「仕事の対象」の立場にある人々が国民と呼ばれる。「選挙」とはこの装置(国家)の使い手で有権者と呼ばれる人々がその装置に操作を加え、それになんらかの仕事を実行させようとする過程の代表的な例である。選挙制度は、装置の使い手に装置が実行すべき仕事の内容を指示させるための仕組み、すなわち装置の操縦装置である。
 私たちは生活の助けである道具に対してさまざまな注文をつける。装置の使い手としての立場からは、装置の「使い勝手」をよくしたいという要求が生まれる。使い勝手がよいというのは、装置が操作しやすく、その操作に応じて使い手の思い通りの仕事をしてくれ、使い手の意に反する仕事はしないことである。装置をこのような状態に保つためには、はじめに装置をそういうふうに作った後、一連の保守点検、整備、そして場合によっては改造の作業が必要になる。議員定数を異なる選挙区間で配分し直す作業は、国家という装置に関してのこの一連の作業の一部に当たる。
 現行憲法がよって立つ民主主義の理念、および、定数訴訟で問題になる投票価値の平等の要請は、国家という装置の使い勝手の改善に関わっている。国家という装置とその使い手の関係で民主主義を規定すれば、それは、「国民(仕事の対象)の可能な限り広い範囲を有権者(使い手)とした上で、使い手が国家(装置)を使おうとする際の制約を可能な限り小さくしよう」というものだということになる。*通常、国家の使い手は複数存在するので使い手間の関係は共用者のそれとなる。もし共用者間で装置利用の機会に優劣があれば、その機会の劣る者には装置利用上それだけ制約があることになる。したがって、民主主義は装置の使い手(有権者)の間で国家という装置利用の機会が均等になることを要請する。ここに定数配分の問題が出てくる。定数配分の是正は、基本的には、一つの装置を共用する使い手たちが、互いの装置利用の機会を均等にしようとする試みである。ここで問題になっているのは、個々の使い手から見た装置の使い勝手の善し悪しすなわち使い手の便宜であり、部品(議員)の都合でも、装置の仕事の対象である人々(国民)の利益でもない。
 すべて装置は使い勝手がよい方が好ましいに決まっている。しかし、それは人生の唯一で無条件に最高の目的ではあり得ないから、装置の使い勝手のよさは、他の目的との折り合いの下で限定的に実現されることにならざるをえない。問題は、折り合いをつけるべき他の目的の範囲はどこまでか、その理由はなにかである。この事情は国家の場合にも当てはまる。
 議員定数の配分についてごく常識的に論じようとすれば、議論の大枠は以上のようであるべきだと私は考える。これが、装置について議論する際の一般的で自然な発想である。そして、この一般的な発想のし方が、国家の問題、選挙のあり方についてだけは当てはまらないと考えるのは不自然である。定数配分の作業は、実際には憲法や公職選挙法等にしたがって行われることになるから、その議論に法律用語を多用する法律論の側面があるのはし方がない。しかし、そうであるからといって、以上の当たり前の議論の筋道が変えられるのは不都合である。
 
 
  いくつかの疑問
 
 以上の、装置一般に関するごく常識的な発想を、社会的な装置の一つである国家とその選挙制度にも当てはめる立場から眺めると、今回の最高裁判所大法廷の判決理由および選挙管理委員会、有権者双方の上告理由には、不自然で不健全と思われる点がいくつか見うけられる。
 
 イ 現状は「異常で不合理な状態」ではないのか
 先日の最高裁判所大法廷判決は、昭和五十八年十二月に施行された第三七回総選挙当時の議員定数配分規定が、憲法上の投票価値の平等の要求に反するか否かが争われた訴訟に対する司法の判断であった。このとき、議員一人当たりの有権者数は千葉四区と兵庫五区の間で四・四一倍の開きがあった。また、議員一人当たりの人口が総人口を総議席数で割った数に等しい状態を平均的な状態とすれば、最大過密の千葉四区はその二・一九倍であった。選挙管理委員会側はこの状態を、「平均的で中庸を得た」状態であり、「一般的に合理性を有するものとは到底考えられない程度に異常で不合理な状態」とは言えないとしている(広島県選挙管理委員会の上告理由)。これは、上のような数値で表現される事実をどう評価するか、その場合の基準はどこに求めているかの問題である。この、いうならばものの感じ方において、選挙管理委員会側は一般人の常識的なそれからひどく隔たっているように思える。
 理屈をこねる前につぎの二つの図を見てほしい。中央の数字は一票の重さの区分を表す。その一・○○は、一票の重さがすべての選挙区でまったく均等になった場合のそれに対応する。いいかえれば、すべての選挙区での票の重さが等しくなる理想状態がこれである。図の左側は第三七回総選挙時の状態、右側は、第二次大戦後のいわゆる中選挙区制による最初の総選挙時の状態(図1、選挙管理委員会側の考えによれば、新制度が制定されて間もない、平均的な定数配分からの乖離がほとんどない状態)と、第三七回当時の有権者数をもとに私が試みた再配分の結果(図2)である。* 印による棒グラフは、各区分に属す有権者の合計数を示す。グラフの先端や根元に示した数値はその実数である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 数値は嘘をつかない。しかし、どの数値を示しどれを示さないかには論者の主観が入り、そこに嘘が生まれる。常識的な感じ方の持ち主であれば、この二つの図を見た後では、第三七回総選挙当時大多数の選挙区が平均的で中庸を得た状態にあったとはいい張れないであろう。
 
 ロ 見せかけの改善
 まず図3を見てほしい。これは、右側に、自民党のいわゆる「六・六増減案」にもとづけば第三七回総選挙当時の状態がどう変わるかを示したものである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 六・六増減案は、最高裁判所による違憲判断が予想されるなかで、自民党が現行の議員定数配分規定のもとでの投票価値の不均等な状態を改善しようとして作成した「是正」案である。したがって、自民党の立場からは、図3には是正前、是正後が対比してあることになる。しかし、常識的な感じ方の持ち主であれば、この図の左右に是正の効果が現れているとは思わないだろう。全体としてこの前後に顕著な変化、「投票価値の平等がもたらされたといえる変化」は見られないとするのが、一般人の健全で常識的な感覚であろう。
 この程度の変化によって事態が「是正」されたといわせるのは、ここでもまた数字の嘘、すなわち最大格差何倍論である。最大格差とは、この図に示した有権者の分布の上端の区分の数値で下端の区分の数値を割って得られる数値である。そこで注目されているのは上端と下端の隔たりであって、その間に有権者がどう分布しているかは問われない。分布の一端もしくは両端近くにある限られた数の選挙区をこの分布の中央方向に少し動かせば、全体の分布の形には大差なくともこの隔たりは縮まる。その結果、最大格差は大幅に改善される。しかしその実態が「見せかけの改善」であることはこの図に明らかである。
 そもそも、最大格差何倍は事態の是正を的確に示すことはできない。そのような不適切な数値を用いて議論を行うこと自体が、投票価値の平等の実現を阻む主な要因の一つである。
 
 ハ 人口比例の原則
 衆議院議員の定数配分を定める公職選挙法別表第一末尾の文言は、そのし直しの指針として「五年ごと」と「国勢調査の結果」を示している。これが、定数配分を人口に比例させるべしという理解の根拠である。裁判において特定総選挙時の状態を把握するためには有権者数が用いられるが、それは「この両者はおおむね比例するものとみて妨げない」(大法廷判決の判決理由)からで、配分規定の改正の基礎は公式には人口だと考えられている。「定数是正は、法的には、ことしの調査結果がわかるまでは五十五年の国勢調査をもとにすればよい」(『毎日新聞』昭和六十年八月二十一日朝刊社説)ことになるから、新しい調査では格差三倍以内に納まらないことが予想されながらも、六・六増減案が大手を振ってまかり通ることになる。前回の調査に基づいてひとたび改正が行われれば、その後「一票」の格差がいかにはなはだしくなろうとも、つぎの国勢調査までは定数是正はできないことになっている。
 このような実際上の不都合があるばかりでなく、定教是正の基礎を人口に求めるのは理論的に間違っている。したがって、公職選挙法のこの部分は改正される必要がある。
 すでに指摘したように、定数是正は、基本的には、一つの装置を共用する使い手たちが、互いの装置利用の機会を均等にしようとする試みである。その機会が均等になったかどうかは、人口すなわち装置の仕事の対象である人々の数によっては判定できない。その判定には、装置の使い手(有権者)の数を基礎にすべきである。こうすることによって、定数是正は、極端なことをいえば毎日でも実行可能になる。公職選挙法二二条一項が市町村の選挙管理委員会に、毎年九月一日現在の被登録資格保有者を九月二日に選挙人名簿に登録するよう求めていることを考え合わせれば、これを機に毎年九月に定数是正を行うという案は現実的である。
 
 
  装置の点検、整備、改造の常識的なやり方
 
 以上指摘したいくつかの問題点は、何倍論の立論のし方の、常識から外れた不自然さから生じてくる。「最大格差が三倍を超えるとダメ」とか「二倍まではよい」という類の主張が是正作業の目標を示している場合には、それを正当化する理論的根拠を見つけることはできない。
 この何倍論は、つぎのような当たり前の議論の組み立てを誤解している。
 私たちは、たとえば野球場の夜間照明塔の整備に関してはつぎのような考え方をする。いま問題になっているのが、一○○個の電球をつけた一基の照明塔だとしよう。電球には寿命があるから、一定時間になん個かは切れてつかなくなる。明りがつかなくては照明の役をなさないから、切れた電球は取りかえなければならない。しかし、電球は照明塔の地上なん一○メートルという高いところに取りつけられているから、一つ切れたといってすぐ取りかえる訳にはゆかない。そこで、たとえばひと月に一回定期点検をして、そのとき、切れている電球を取りかえることにする。ところで、つぎの定期整備の期日前に相当数の電球が切れてしまい、そのままではグラウンドが暗くて試合ができないという事態も起こりうる。そこで、定期整備のほかに、たとえば一○個を超える数の電球が切れた場合には臨時の整備を行うという規定が作られるのがふつうである。
 定期整備の場合も臨時の整備の場合も、ひとたび整備が実行に移されれば、切れた電球はすべて取りかえられる。整備を実行する際たとえば「一○個までは切れていてもよい」といって、わざといくつか切れた電球を残しておくことはしない。切れた電球が残されるとすれば、それは電球の予備が足りなかったなど納得できる理由がある場合だけである。(その場合でも、新しい電球を早急に取りよせてすべて取りかえようという了解はある。)「一○個までは切れていてもよい」というのは臨時整備を開始するかしないかの境目の数として言われるのであって、整備した結果切れた電球が残っていても一○個までならば構わない、というのではない。
 常識的にいえば、装置の実際の状態が理想状態からズレているのを見て、「この程度まではし方がない」として私たちが我慢するのには、二つの違った場合がある。それは、そのズレが臨時整備開始のきっかけとして考えられている場合と、開始された整備作業の目標と考えられている場合である。
 現行の公職選挙法の別表第一末尾の文言は、議員定数配分のいわば定期整備の規定である。私が前項ハの終わりに示したのも定期整備のし方の改善案である。この規定を前提として、はじめて、臨時整備開始のきっかけの問題を論ずることができる。ふつう、つぎの定期整備の期日まで、議員定数の選挙区間での不均等状態はしだいに悪化してゆく。私たちはそれを眺めながら、「この程度の不均等までは我慢して放置しておくが、それ以上に状態が悪化したら定期整備の前でも臨時に整備を開始しよう」と考える。この場合の我慢の幅は、それがもたらす実際の不都合を人がどの程度「困ったもの」と感じるかによつて決まる。これはまさに人の感じ方の問題である。その意味で、この点に関する共通の基準を決めようとすれば、それは便宜的なものにならざるを得ない。現行法には欠けている臨時整備開始の規定が、たとえば「最大格差が三倍を超えた場合には、定数配分の実施機関はただちに臨時整備を開始しなければならない」の形で加えられてもよい。この場合、その倍率は二倍でも、二・五倍でも構わない。それは、試行錯誤的に適当な倍率に落ち着かせればよい問題である。
 定期整備にせよ臨時の整備にせよ、ひとたび定数配分の是正作業が開始されれば、その作業が目指すのは一票の重さが完全に均等になる状態である。しかし、装置の使い勝手のよさは人生の唯一で無条件に最高の目的ではないから、それは他の目的との折り合いの下で限定的に実現されざるをえない。第二の我慢の幅はこの配慮の結果生まれてくる。すなわち、定数配分是正の作業の過程で投票価値の平等以外の目的の実現への配慮が必要になり、その結果投票価値の平等がある程度損なわれざるをえなくなり、「この程度不均等が残ってしまうのは止むを得ない」と考える場合の幅がそれである。この幅は便宜的に決めるわけにはゆかない。理論的な根拠にもとづいて、なぜ止むを得ないのかが納得できる形で示されなければならない。この問題についてはつぎの項で詳しく検討してみよう。
 装置を整備しようという場合の通常の当たり前の発想が、政治の問題、議員定数配分規定についてだけは当てはまらないとする根拠は考えにくい。それにもかかわらず、最大格差何倍論は臨時整備開始のきっかけとしてではなく、ひとたび整備が実行に移された場合の作業の目標として主張されている。その結果、ただ最大格差がその倍率内に納まれば、その不均等状態を生みだす原因、すなわち投票価値の平等の実現をある程度損なわせても配慮される他の目的がなにかはいっさい問われないことになる。「是正」と称せられる措置が「見せかけの改善」に終わる大きな原因はここにある。
 
 
  公平な定数配分を阻むもの
 
 イ 公益と私益
 ひとたび定数配分是正の作業が実行に移された際に、民主主義が求める投票価値の平等を損なってまでも配慮すべき他の目的とはなんであろうか。どのような目的に、どのような理由で配慮することが妥当であろうか。
 これは、一つの公益と他の利益(公益、私益)との間の調整の問題である。一票の重さが選挙区が異なっても均等である状態は、国家という装置の使い手(有権者)の立場に立つすべての人に共通の利益である。民主主義を目指す国家にあっては、すべての国民を有権者として遇することが原則である。(これが実現しないのは、主として、人間に生物として充分な判断能力に欠ける時期があるという、止むを得ない理由があるからである。)したがって、その状態は、その一国を単位としたすべての人に共通の利益、その意味で「公益」と呼ぶことができる。
 民主主義では、国家が有権者の意向に反する仕事を実行することは原理的に好ましくない。これは、国家がもつ仕事の実行能力を利用して実現すべき目的の範囲が、基本的には公益でなければならないということを意味する。かりに、公益である投票価値の平等と調整が図られる他の目的がこれもまた一つの公益である場合、その実現のために一票の重さの均等な状態がある程度損なわれても止むを得ない、それは納得できることだと人々――とくにその犠牲を払わされる有権者の立場にある人――が考えるならば、この利害の調整は正当化され、合理的なものということができる。
 では、調整の相手が私益の場合はどうであろうか。ここで私益というのは、一国を単位として考えた場合に、その国民のすべてに等しく利益をもたらすのではない利益のことである。したがって、その実現が政府(国家)の費用と強制力をもって図られれば、それから利を得る人はそれを歓迎するが、それから利を得られない人には、それは自分の利益の増進のために使うことができたはずの資源の喪失を意味し、くわえてその喪失が強制される訳だからそれは自分の意に反するものとなる。もし誰かが、ある種の私益は、有権者の立場にあるすべての人に投票価値の平等(公益)が損なわれるという儀牲を払わせ、さらにその私益の実現から利を得られない人々に費用負担と意に反する強制をうけるという犠牲を払わせてまで、その実現に配慮する必要があると主張するならば、その必要の根拠を明示し、それをもって他の人々――とくにその犠牲を二重に払わされる有権者の立場にある人――を説き伏せ、承諾を取りつけるのはその主張者の側の責任である。そして、この説得に成功した私益のみが、議員定数配分の過程で私益としては例外的に考慮されるべきものに認められることになる。
 
 ロ 私益のごり押し
 以上の観点から政党間で行われている定数配分をめぐる駆け引きを見ると、投票価値の平等がなかなか実現されない原因が、二種類の私益を伸長しようとする、しかも、その必要の根拠の明示とそれをもっての説得に欠く不条理な私益の主張にあることが分かる。
 その一は、自己の政治生命を維持しようとする議員個人の思惑である。今日いわゆる地盤は一種の私有財産化しており、議員にはこれを手放すまいとする既得権意識が強い。しかし、これは装置の「部品」の都合でしかない。使い手の利益(公益)を差しおいてこれが声高に主張されることが、合理的な定数再配分の最大の障害になっている。
 議員の再選に地盤が重要な意味をもつのは、地元民が議員による地元への国庫金の誘導を望み、議員は日常的にその利益誘導を図ることで地元の支持をとりつけるという、持ちつ持たれつの関係が存在するからである。これこそが、政治を私益が支配する根源的な仕組みである。地盤すなわち選挙区をたびたび変更すれば議員の地位が不安定になり、有能な議員が育たないと言われる。しかし、育たなくなるのは地盤と利益誘導で結ばれた私益追求型の議員であり、新しく育つ議員はそれ以外の配慮によって選ばれる、より公益追求型に近い議員となるであろう。これは、むしろ好ましいことである。
 その二は、一部選挙区の住民の利益を擁護しようとする思惑である。(表面はこの種の思惑に見えて、その実第一の思惑が動いている場合がかなりあるように思われるが……。)定数再配分が行われれば、「国政に過疎地、農村地帯の声が反映されなくなり、大都市中心の国会運営になる」という是正消極論がその例である。この種の主張が伸長しようとするのは、国家が実行する仕事の対象(国民)の立場にある人々のなかで特定の部分の人々の便宜、すなわち私益の一つである。
 この種の主張は、一般化すれば、「自分が支持する政策は、たとえそれを支持する人の数が有権者の間では少なくても、決定の場(国会)ではそれが通るように細工をしよう」ということになる。これは、民主主義を国家の仕組み作りの主要な目的の一つとする場合には、決して受け入れることのできない主張である。
 そもそも民主主義は、政治的決定の場で特定の者の発言権を他の人々のそれよりも優遇し、結果としてその者の利益を優先させる細工(制度)を、組織的に排除する努力として発展してきた。専制君主制の君主、制限選挙制の財産所有者などはその優遇された者の例である。まず、この発言権の優遇措置を廃止し、すべての者に同等の発言権を与える。その上で、国民のどの部分の利益を、国民のどの部分の犠牲において、いかなる根拠に基づき、いかなる形で増進するかは、同等の発言権をもつ者が論を交え、互いに説得し合った結果の表決においてのみ決まる。これが民主主義のやり方である。
 私は、議員定数配分の名を借りて、専制君主制や制限選挙制の昔に帰ることはしたくない。たとえば過疎地振興のための国庫金の支出は、過疎地からの議員の数を相対的に大きくすることで獲得するのではなく、その支出の必要性と妥当性を広く説き、その政策に対する支持者を増やして獲得すべきものである。民主主義では、無条件に絶対に正しい政策があるとは考えない。それが判るならば議論も表決も必要ない。説得によって多数の支持者を獲得し得たもののみを善しとする、これが民主主義の知恵である。
 
 *参照、根岸毅「政治における試行錯誤の機会――もうひとつの民主主義論」(石川忠雄教授還暦記念論文集編集委員会編『現中国と世界――その政治的展開』慶應通信・一九八二年)、八〇四〜八〇七頁。
 
 
 〈付記〉議員定数配分に関する詳しい議論はつぎのところに発表してあるので、参照していただきたい。根岸毅「議員定数配分の是正と民主主義」(『法学研究』昭和六十年四月、五月号)、同「議員定数配分と民主主義」(『判例タイムズ』一九八五年十月一日号)。
 
Copyright (C) 1985 by NEGISHI, Takeshi
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《「常識的議員定数配分論」終わり》