著作物一覧に戻る
著作権にかかわる合意事項:
このファイルをコピーしたり、印刷したりすると、あなたは著作権にかかわるつぎの事項に合意したことになります。
この著作物のファイルは、つぎの条件を満たすかぎり、コピーし、印刷し、保存し、また、第三者に提供するために電送、複製、印刷して構いません。
(1) 使用目的が研究および教育に限られ、それにより利潤の追求が行なわれないこと。
(2) 本サイトで提供するファイルの内容には、追加、削除、修正などによる変更を一切加えないこと。
(3) 引用は、コピーしたファイルからではなく、下記の出典から行なってください。
著者:
根岸毅(ねぎし・たけし)
慶應義塾大学名誉教授・政治学専攻
出典:
慶應義塾大学法学研究会『法学研究』第72巻第7号、1999年7月、1-22ページ。
Copyright (C) 1999 by NEGISHI, Takeshi
政治学の研究対象を「国家に限る」根拠
目次
はじめに
一 政治の概念規定の方法論的根拠
@「かならずしも国家と関連づけないで」政治を捉える立場
A「かならず国家と関連づけて」政治を捉える立場
^日常の政治論
_伝統的な政治学
二 対立する概念規定の整序
@定義の観点からは整序できない
A学問と社会の関わりの観点から整序できる
^学問と社会通念(常識)
・研究の成果――研究は常識に優る
・研究の課題――工学の課題は社会が決める
_政治学に対する社会の期待
・日常の政治論
・政治学に対する期待と批判
・政治学に対する社会の期待
おわりに
はじめに
政治の概念規定の仕方には、国家をめぐって対立する二つの立場がある。一つは、伝統的な政治学と社会通念がとる立場であり、「かならず国家と関連づけて」政治を捉えようとする。他は、方法論に強い関心を示す政治学者の多くがとる立場であり、「かならずしも国家と関連づけないで」政治を捉えようとする。
この対立は、政治学にとってとりわけ重大な意味をもつ。なぜならば、政治の概念規定は、政治学が研究対象とする事象の範囲を画定する意味をもち、どちらの立場をとるかにより、政治学の研究内容に違いが生まれる可能性があるからである。【1】
私は、「かならず国家と関連づけて」政治を捉える立場に立つ。本稿は、その方法論的根拠と、そのように概念規定を行なうことの妥当性を明らかにするのが目的である。以下では、まず、それぞれの立場の概念規定の方法論的根拠を明らかにし、その上で、その対立を整序する仕方を示すことにする。
註
【1】方法論の議論としては「かならずしも国家と関連づけないで」政治を捉えようとする立場の研究者も、実際の研究にあたっては、国家と関連づけられる事象のみを研究対象に取り上げている。たとえば、政治学における投票行動の研究は、頻繁には行なわれない大規模で複雑な選挙――国会議員の選挙、地方自治体の首長や議会議員の選挙など――を研究対象に取り上げるが、日本全国いたるところで年に5,000回は行なわれているより単純な選挙――高等学校の生徒会会長の選挙――を研究対象に取り上げたということは、寡聞にして知らない。
この、一見矛盾にみえる事態については、方法論的に納得が行く説明がなされているとはいえない。
一 政治の概念規定の方法論的根拠
政治の概念規定に関する上記の異なる立場は、それぞれどのような根拠に基づいて概念構成を行なっているのであろうか。
@「かならずしも国家と関連づけないで」政治を捉える立場
これは、方法論に強い関心を示す政治学者――日本における政治概念論争の新説や、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国で生まれた行動論的政治学などの研究者――がとる立場である。この立場は、政治学を含め学問の目的を法則の探求にあるとし、「人間の行動に関する法則の入手がしやすいこと」を主眼として政治概念を構成しようとする。したがって、異なる概念規定の間の優劣は、いずれが法則の入手に適しているかを基準として判断されることになる。
以下は、この立場の典型的な例である。
1964年にM. デュヴェルジェは、伝統的な政治学を「国民社会における組織された権力の科学」、すなわち、権力現象に関心をもっていながら「最も完成された形態と最も完全な組織に達している」と考えられる「国家における権力」のみに関心を示していると理解する。その上で、「政治学を『権力一般の科学』として考えることは、他方のヨリ狭い観念に対して、根本的な優越性をもっている。この考え方はヨリ操作しやすい。これのみが基本的な仮説の検証を可能とするからである」と主張する。【1】
同様の指摘は、つぎにも見られる。
1949年に蝋山政道はつぎのように論じている。政治概念論争の新説は、政治概念を構成するにあたり、「政治の行為的性質または形式態様に着眼し、国家という特定社会の特有な現象でなく他の社会集団にも見られる一般性をもったものに広く社会的な客観性を求めようとした」。【2】また、1969年に手島孝は、各種の行政概念の整理を行なうにあたり、法学的な行政概念に対して行政学的と括りうる行政概念を、「行政を・・・事実的社会現象としての法則性において本質把握する」として高く評価している。【3】
法則の入手のしやすさへの配慮は、結果として、国家にこだわらない、多様な概念規定の提案を生むことになった。
理論的に有用な[政治]概念を探し求めた結果、[1950、60年代の]20年間に、権力、意思決定、コミュニケイション、役割、体系と過程、取り引きまたは交換、結託の形成、対立の概念によって、また、これらの概念や他の概念をいろいろに組み合わせることによって、さまざまな観点から、現実世界の政治現象を分析しようとする研究が大量に現われてきた。【4】
その典型は、前述のデュヴェルジェにみられるように、政治を権力現象と規定するものである。他の典型として、ユーローとマーチのつぎの定義をあげることができる。これら二つの典型は、定義としては共通項をもたない。
政治とは、家族から国際組織までの個人および集団が集合的意思決定に携わったときに行なう活動を指している。私たちはふつう政治を、政府が行なう政策の形成に関与するために、公的な領域における支配的な地位を手に入れようとする、相争うまたは対立する指導者、党派または政党と関連するものと考えるが、政治は私的団体、企業、労働組合、教会、大学の運営にもまた存在している。【5】
註
【1】モーリス・デュヴェルジェ(横田地弘訳)『政治学入門』みすず書房・1967年、3ページ。後にAで明らかにするように、デュヴェルジェの伝統的政治学についてのこの理解は間違っている。
【2】蝋山政道『日本における近代政治学の発達』ぺりかん社・昭和43年、200ページ。
【3】手島孝『現代行政国家論』勁草書房・1969年、14ページ。
【4】Heinz Eulau and James G. March, eds., Political Science (Englewood Cliffs: Prentice-Hall, 1969), p. 6.
【5】Eulau and March, eds., Political Science, p. 14.
A「かならず国家と関連づけて」政治を捉える立場
伝統的な政治学と一般の人びとが日頃行なう政治論はともに、「かならず国家と関連づけて」政治を捉える立場に立っている。政治を語る際に対象をこのように画定するのには、どのような理由があるのであろうか。【1】以下では、日常の政治論と伝統的な政治学のそれぞれについて、それらがどのような構成になっているかを明らかにすることを通して、その理由を探ることにする。
註
【1】この理由を明らかにすることには特別の意義がある。それは、これまでその理由が明確かつ説得力ある形で提示されたことがなく、したがって、多くの研究熱心で真摯な学生が、少なくとも方法論としては、@の立場に抗しがたい魅力を感ずる傾向が強いように思われるからである。
^日常の政治論
つぎに示すのは、一般に「政治」論として認められる議論の典型的な例である。(より広範な例の検討については、参照、根岸毅『政治学と国家』慶應通信・1990年、第四章第一節 (2)。)
【例1】社説「予算を私物視する自民党のおごり」(『日本経済新聞』1996年11月29日朝刊2面)
[96年秋の総選挙で、自民党は全般的にみれば良い結果をおさめたが、大阪を中心に新進党に敗北した。]「自民党は予算(税金)を私物化しようとするのか。・・・・来年度予算案の編成に絡んで、自民党を支援した地域(選挙区)には厚く、新進党に敗れた地域は冷遇するといった議論」が自民党内部で起きている。
「選挙区ごとの勝敗を基準に、報復的に予算配分をしようとするのは前代未聞だ。本気で実施するなら、党利党略で予算を山分けするに等しい山賊的行為である。」「報復的措置を正当化できる理由はない。」
【例2】社説「民主党は政党の基本忘れるな」(『読売新聞』1998年5月28日朝刊3面)
「橋本内閣の経済運営に対する国民の不満が高まっている。・・・・となると本来なら、野党第一党である民主党に国民の期待が集まっていいはずだ。 ところが、結党から一か月が過ぎた今も“追い風”は吹いていない。」 「どこに原因があり、どうすれば有権者の支持を得られるのか。菅代表ら執行部は党のあり方を改めて考えてほしい。」
「最大の問題は、この党が菅代表の人気と連合の集票能力をあてにした選挙互助会的な『寄り合い所帯』のままであることだ。現に党内にはすでに旧党派ごとに政策集団が結成され、さながら政党の連合体の様相を呈している。」
「野党第一党としての求心力を高めるためにまず求められるのは、政党の根幹である政策や組織を強化することだ。」 「結党の際にまとめた基本政策が、旧党派の対立を避けるために安全保障など肝心の部分であいまいになっている・・・。」 「旧社会党系と旧民社党系の組織に加え、保守系議員の個人後援会が併存しているところが多い地方組織の一本化も急務だ。」 「政党の力量を高め、有権者の支持を得るためには、こうした基本的な努力を怠ってはならない。」
これらの例の検討からは、日常の政治論が「問題解決」型の構成をとっていることが明らかになる。
ここで言う「問題」(problems)とは、考察対象の事物がもつ「人が生きていくうえでの障害になる性質」のことである。これを、「不都合」(inconveniences)、「障害」(obstacles)、「困難」(difficulties)といいかえてもよい。問題を「解決」するとは、この障害を取り除き、人が生きるうえで都合の良い状況を作り出すことである。
問題解決型の議論では、論者は、特定の事物に問題があると考えており、それを解決しようという意図(動機)のもとに、その事物を考察の対象に取り上げる。この型の一連の議論は、一般化すれば "Why don't they act as they should?" の形に表現することができる問に導かれて展開される。
日常の政治論が、問題解決型の議論のこの特徴を備えていることは明らかである。すなわち、そこでは、考察の対象に「問題」が指摘され、その原因が探求され、その「解決」策の提言が行なわれる。もちろん、すべての政治論が、欠けるところなくこのような構成をとることはない。しかし、すべての議論が、この構成のなかのどこかに位置づけられるということが要点である。
第1の例では、予算配分は本来山賊的であってはならない(should)との前提に立ち、自民党にはなぜそれができない(don't)のかが問われている。つまり、自民党による予算編成の仕方に「問題」があることが指摘されている。
第2の例では、政権党への支持が低下しているときには、野党第一党に有権者の支持が集まって然るべきだ(should)、民主党にはなぜそれができない(don't)のかが問われている。つまり、国民の不満が野党第一党への期待につながらないことに「問題」があるとの指摘があり、さらには、その原因――政党の連合体に由来する政策の曖昧さと党組織の分裂――の解明に基づいて、その「解決」の方途を提言している。
問題解決型の議論――その延長線上に位置する問題解決型の学――が関心をもつのは、特定の「問題の集合(セット)」である。論者が考察の対象に取り上げる個々の具体的な問題は、その問題の集合に属す要素(エレメント)である。一まとまりの問題解決型の議論と問題の集合の間には、一対一の対応関係がある。
その「問題の集合」は、事物のもつ「人が生きていくうえでの障害になる性質」の種類を特定することによって構成される。【1】この性質は、事物がもつ物理的性質そのものではない。したがって、一まとまりの問題解決型の議論が関心を示す問題の集合と、その問題を引き起こす事物の物理的性質が一対一で対応することはない。【2】
日常の政治論が、問題解決型の議論のこの特徴――対象の事物が「物理的性質」ではなく「人が生きていくうえでの障害になる性質」としての性質に基づいて集合を構成する――を備えていることは、つぎの点から明らかである。
第一に、日常の政治論は、物理的性質が同じだからといって、そのすべてを考察の対象に取り上げるわけではない。上の第1の例では、国家予算の配分の仕方が考察の対象となっている。同じ予算配分の仕方でも、テニスクラブの予算配分についてでは、新聞が「政治」のページに社説として取り上げることはない。第2の例では、野党第一党が対抗勢力足りうるかどうかが考察の対象となっている。大学の学長に対立候補がいるいない――たとえば、現学長に失策が多いのに、人望を集める対抗馬がいっこうに現われない――は、新聞が「政治」のページに社説として取り上げることはない。
第二に、日常の政治論は、物理的性質が異なっていても、等しく考察の対象に取り上げる場合がある。物理的性質に注目すれば、第1の例で考察の対象になっているのは「力の行使」であるが、第2の例には「力の行使」の要素は含まれていない。したがって、物理的性質にもとづいては、これら二つの事象は、同一の集合を構成する二つの要素ではありえない。それにもかかわらず、それらが同一集合の異なる要素でありうるのは、それらがいずれも、「人が『国家という道具』を使ってなにか事を為そうとする際の障害になっている(なっていない)」【3】という共通点をもつからである。
日常の政治論は、道具の一つであるいわゆる「国家」に注目して、それが考察を加える問題の集合を特定している。その結果、日常の政治論の考察の対象は、「国家」および「国家と直接間接に関連する出来事」に限られる。その関連が間接的である場合、考察の対象と国家のかかわりが一見明白でないこともある。しかし、重要なのは、その関連がなければ政治論とは考えられないという点である。
日常の政治論の構成にみられる特徴は、「問題解決の意図がある」型の思考や学問のそれである。(この型の学問を私は「工学」と呼んでいる。【4】【5】)日常の政治論が、考察の対象を国家とそれに関連があるものに限ったのは、みずからを問題解決型に構成するという前提に立った結果、それが関心を示す対象が一つの問題の集合となり、その集合が国家という道具を基礎にその範囲が画定されるものであったからである。
註
【1】問題や不都合の種類の特定は、様々なものに注目することで行なわれ、それを一律に整理することは難しい。たとえば、その特定は、実現すべき特定の状態、その状態を生起させるための操作、道具などに注目して行なわれる。
【2】特定の問題の集合を構成する個々の要素に対応する物理的性質は多種多様である。
集合としては同一の「健康と病気」の問題も、それを引き起こす事物の物理的性質は様々である。たとえば、私たちは、歯のエナメル質の侵食(虫歯)も角膜が正しい球面状でないこと(乱視)も同じく病気と認識するが、この不都合を引き起こす事物の物理的性質は同じではない。
また、物理的性質としては同種と考えられる「感冒」(体細胞のウイルス感染)も、人の体細胞で起こる場合と肉牛の体細胞で起こる場合とでは、そこに認識される不都合の種類が異なると一般に理解されている。そして、この認識に基づき、医学と獣医学が区別されることになる。
【3】これは、つぎのようにも表現できる。国家という道具を優れた道具にしようとする際に人が直面する問題。具体的には、そもそもそのような道具が必要なのか、それが道具として、仕事を効果的に実行しているか、使い勝手はいいか、保守管理がしやすいかにかかわる問題。
【4】私の言う工学の代表例として、医学、建築学、自動車工学、教育学などがあげられる。これに対して、デュヴェルジェや手島の考えは、方法論としては、「問題解決の意図がない」型の学問の特徴を示している。それを私は「理学」と呼ぶ。理学型の思考・学問は、"Why do they act as they do?" の問から始まる。ここでは、事物の特定の物理的性質が関心の対象となり、その性質を共有する個々の事物の集合が一個の学の研究対象となる。(参照、根岸毅「政治学とは何か」(根岸毅他『国家の解剖学』日本評論社・1994年)、78-80ページ。)
【5】理学と関連して、その妥当性に時間的制約のない(超歴史的な)知識への希求が表明されることがある。しかし、物理学の法則でさえ「この宇宙にしか妥当しない」という意味での歴史性をもっている。(つぎの指摘を参照のこと。「宇宙が生まれたときには、現在の四つの力(重力、弱い力、電磁気力、強い力)は一つの力であった。しかし宇宙が膨張して温度が下がるにつれて、つぎつぎと相転移が起こり、現在みるように四つの力に分岐していった。しかも各々の相転移の段階では、なにか偶然的な選択がはたらいた。したがって、素粒子のあいだの力の基本法則は、一つの歴史的な法則であるということができる。・・・・物理法則の少なくとも一部は歴史的な所産である」(佐藤文隆『量子宇宙をのぞく――時間と空間のはじまり』講談社・1991年、56ページ)。)
ガソリン・エンジンに関する研究の成果は、石油資源が枯渇する数百年先には、社会的役割を終え「博物館入り」となる。WHOが絶滅を確認した天然痘に関する研究の成果は、すでにそのような身分にある。工学の知識にはこの意味での「歴史性」がつねにつきまとっている。しかし、だからといって今日のガソリン・エンジンの研究や、絶滅以前の天然痘の研究が無意味だとは誰も考えない。
重要なのは、自然科学と社会科学について論評する際に「二重の基準」を用いないことである。
_伝統的な政治学
政治哲学と呼ばれる学問も、日常の政治論と同じく、問題解決型の構成をとっている。【1】
政治哲学が問題解決型すなわち私の言う工学の構成をとっているかどうかを明らかにするためには、政治哲学の著作の動機がどのようなものであったかを調べるのがよい。なぜならば、工学の出発点は問題解決の動機にあるからである。
政治哲学の著作の動機の典型は、ロックの『国政二論』に見られる。1690年に著わされたこの著書は、著者自身の言葉によれば、名誉革命すなわち王の首のすげ替えを国民自身が行なうという行為を正当化し、いまだ王権神授説に支配されていたヨーロッパの国際環境のなかでイギリス国民を擁護しようとするものであった。【2】
ここでロックが考察をめぐらした対象は「国家のあり様」であった。それに関して、彼は、革命前の状況を「困った(不都合な)」状態、革命後のそれを「望ましい(不都合が除去された)」状態と捉えた。彼が行なった知的作業は、国家にかかわる問題解決の目標の正当化を行なうことであった。これは、まさに問題解決すなわち工学の作業である。
このような例はロックだけに限られるものではない。プラトンとディオニュシオス二世、マキアヴェリとメディチ家、ホッブズと「ある主権者」【3】の関係は、ロックの場合と同様に問題解決すなわち工学の文脈でのみ捉えることができる。ウォリンが言うように、政治哲学者は仲間の研究者がどう考えるかを問題にせず、「社会そのものを変えること」に腐心したのである。【4】
政治哲学と呼ばれる学問領域は、伝統的に、「あるべき政治形態はなにか」の問をめぐって展開してきた。そこでは、「政治を是非する理念及び理論」が論じられ、制度の特性に言及することを通して理想「国家」の姿を記述する努力が続けられてきた。【5】それが目的としたのは、望ましいと思われる方向への国家の変革であった。したがって、政治哲学者が提示した「理論」は、科学理論のように現状に対応させて事実の記述を行なったものではなく、それとは正反対に、「もし秩序の変更ができるとしたら、社会はどんな姿になるか」すなわち現存しない状態を理想の立場からデザイン(構想、想像、創造)したものであった。【6】
伝統的な政治学にみられる特徴は、「問題解決の意図がある」型の学問のそれである。伝統的な政治学が、考察の対象を国家とそれに関連があるものに限ったのは、みずからを問題解決型(工学)に構成するという前提に立った結果、それが関心を示す対象が一つの問題の集合となり、その集合が国家という道具を基礎にその範囲が画定されるものであったからである。
註
【1】伝統的な政治学として、他に政治制度論がある。これについても以下の記述は当てはまる。参照、根岸「政治学とは何か」、66-67ページ。
【2】ジョン・ロック(鵜飼信成訳)『市民政府論』岩波書店・昭和43年、245-246ページ。
【3】トマス・ホッブズ(水田洋訳)『リヴァイアサン(二)』岩波書店・昭和39年、327-328ページ。
【4】Sheldon S. Wolin, メParadigms and Political Theories,モ in Preston King and B. C. Parekh, eds., Politics and Experience: Essays Presented to Professor Michael Oakshott on the Occasion of His Retirement (Cambridge: The University Press, 1968), pp. 144-145.
【5】参照、蝋山政道『政治学原理』岩波書店・1952年、8ページ、Fred M. Frohock, Normative Political Theory (Englewood Cliffs: Prentice-Hall, 1974), pp. 96, 105-110, トマス・D・ウェルドン(永井陽之助訳)『政治の論理』紀伊国屋書店・1968年、4ページ、および、南原繁『政治理論史』東京大学出版会・1962年、1-4ページ、など。
【6】See Wolin, "Paradigms and Political Theories," p. 148.
以上に明らかになったのは、伝統的な政治学の「かならず国家と関連づけて」政治を捉える理由が、日常の政治論のそれとまったく同じだということである。これは、伝統的な政治学が日常の政治論の延長線上に位置づけられる――議論の構成は同じにして、考察の専門性を高める――ことを意味する。
日常の政治論と伝統的な政治学の特徴は、それらがみずからを「問題解決型」に構成しようとするところにある。その結果、それらは、一つの「問題の集合」に関心を示すことになる。この問題の集合の特定は、道具の一つである「国家」に注目して行なわれる。したがって、そこでは、考察の対象はかならず「国家との関連」をもつものとなる。
二 対立する概念規定の整序
「政治」に関する二つの概念規定は、以上に明らかにした根拠をもって構成されている。その対立はなんらかの基準にもとづいて整序が可能であろうか。以下で、二つの可能性を検討してみる。
@定義の観点からは整序できない
政治の概念規定における「かならず国家と関連づける」立場と「かならずしも国家と関連づけない」立場の対立は、定義の仕方の対立である。したがって、望ましい定義に求められる条件はなにかの観点からの整序の可能性が、まず考えられる。しかし、結論を先に言えば、この問題は、定義の理論に依拠して整序ができる類の問題ではない。
定義は、特定の記号(ことば)とそれが指し示すもの(事物)の関係を確定する作業である。この「記号と、記号が指示するものとの間には、直接には何の物理的因果関係も存在しない。」この対応関係は、「人間が社会的に、一つの約束、とりきめとして、いわば人為的につくり上げたものである。」【1】
この約束(とりきめ)を作る際には、つぎの点に配慮する必要がある。
定義は、「記号 d は対象 D を指示する」という約束を作ることである。したがって、原理的には、それを作る者の自由裁量に任される。しかし同時に、それは、「思考の道具」であることから、道具としての好ましさを確保するために、つぎの三つの制約(条件)を受けることになる。
私たちは、記号 d に言及することで対象 D について考え、語り、他人とそれについての思考を分かち合うことができるようになる。この役割を果たすことが期待される道具に求められる第一の条件は、その記号が知覚されたときに、その対象の事物を的確に心に思い浮かばせることができるということである。したがって、定義には、その使い手が論題、話題にしたい事物を的確に記述させる必要がある。
その際、対象 D の記述は、記号 d になにを指し示させようとしているのかが、明確かつ一義的に分かるように行なう必要がある。「明確さ」とは、特定の事物が記号 d の外延に入るかどうかが容易に決められることであり、「一義性」とは、記号 d が一つの外延しかもたないことを意味する。
さらに、約束は人びとに共有されてはじめてその役を果たすという点も忘れてはならない。つまり、その記号に関してすでに多くの人が共有している約束が存在すれば、それは尊重した方が得策である。【2】
定義の機能をこのように理解すれば、この観点からは、政治の定義をめぐる対立を整序することができないのは明らかである。定義の理論が教えてくれるのは、基本的には、定義は思考の道具であって、その道具には定義者がそれについて語りたいものを的確に記述させるのが肝要だということのみであり、それについて語りたいものが異なる立場の間の調停の仕方についてはなんら示唆するところがないからである。
註
【1】沢田允茂『現代論理学入門』岩波書店・1962年、46ページ。
【2】参照、碧海純一『新版法哲学概論』弘文堂・昭和43年の第二章の「二 法の概念についての論議の方法論的性質」、および、同142ページ。
A学問と社会の関わりの観点から整序できる
以上に検討をくわえてきた問題は、これまで一般的には、「『政治』はいかに定義すべきか」の問に答える形で論じられてきた。しかし、これまでの議論は、その問題提起の仕方自体が不適切であった。
この問は、政治学が研究対象とする事象の範囲の確定を、「かならず国家と関連づける」、「かならずしも国家と関連づけない」のいずれの立場で行なうかの選択を私たちが迫られている場面に貼られた目印である。より具体的にいえば、それは、「政治学」の名称のもとで、「人が『国家という道具』を使ってなにか事を為そうとする際に発生する問題(不都合)の解決を図るための研究」を行なうか、どこでもよいから「人間の行動に関する法則の入手がしやすい領域についての研究」を行なうかの選択である。したがって、この選択の実体をより直截かつ的確に表わそうとすれば、この問は、「政治学は『問題解決の意図をもつ工学型に構成すべき』か、『その意図をもたない理学型に構成すべき』か」といいかえる必要がある。
人間の生活には、問題解決の意図がある型の学問もそれがない型の学問も不可欠である。その意味で、ここではどちらが「優れているか」が問われているのではない。私たちに求められているは、「政治学」の名称のもとで、このいずれの型の学問を行なうのが適切かについての判断である。そして、いやしくもこの判断をするからには、その根拠を明らかにし、それが妥当なものであることを論証し、反対者を説得しなくてはならない。
この判断の根拠に、学問と社会のかかわり方が関与してくる。以下では、両者の間にどのようなかかわりがあるのか、社会が学問に対して発するメッセージとはなにかを明らかにする。
^学問と社会通念(常識)
学問と社会通念(一般人がもつ常識)の間には、事項によって、一方が他方に従うのが望ましいという関係がある。
・研究の成果――研究は常識に優る
研究の成果、すなわち、問題解決における目標とされるものの価値の根拠と事物のメカニズムに関しては、研究は常識に優る。その意味で、社会通念は研究の成果を受け入れることが望ましい。たとえば、健康維持のためには禁煙が望ましいとする医学の成果や、地震の原因は地底の大ナマズではなく地殻の急激な変動だとする地震学の成果には、常識は道を譲る必要がある。
・研究の課題――工学の課題は社会が決める
上に指摘した優劣関係が逆転するのは、「問題解決の意図がある型の学問」すなわち工学の研究課題に関してである。
問題解決の必要性の認識は、一般の人びとの意識のなかに生まれる。(解決すべきある問題の研究者であっても、その解決の必要性を認識した段階ではまだ一人の「一般人」である。)問題が複雑であれば、人はその解決のために専門知識の手引きを必要とし、その供給源として、その問題についての専門の研究(工学)が必要となる。
工学のそれぞれの分野は、一般の人びとが認識する問題の集合に一対一で対応する形で成立する。人びとは、工学のそれぞれの分野に対して、特定の問題の集合について、解決の手引きの供給を期待している。たとえば、健康に対する障害という問題の集合の解決の手引きの供給は医学に期待され、自動車という道具を優れた道具に仕立てようとする際に直面する問題の集合については自動車工学に期待が寄せられる。
特定の学問領域に対して、社会一般の側に「特定の問題の集合の解決の手引きの供給への期待」――これを「工学の期待」と呼ぶ――がある場合は、その領域で研究に従事する研究者は、その期待を尊重して、その期待に応えることをみずからの研究の課題とする必要がある。そのためには、その学問領域は、その種の工学として構成される必要がある。【1】
その理由はつぎにある。
研究者は、直接的には生活の糧を生み出さない。それにもかかわらず、その存在が社会的に容認されるのは、社会がその間接的有用性を認めるからである。したがって、特定の問題の解決に対する貢献が求められる場面で、研究者がそれを拒否することは、究極的には、研究者みずからが自己の社会的存在理由を危うくすることになる。より具体的には、社会の生産性が低下する状況では、社会が工学の期待に応えるべきと考えるがそれに応えようとしない研究者には、研究資金の供給が細るとか、教授職・研究職の数が減少するとかのしっぺ返しが予想される。
社会の側の問題としては、ある研究者集団が工学の期待を無視する場合には、とにかくその期待に応えてくれる別の研究者集団を探す必要が生まれ、それが実を結ぶまではその探求の努力が続けられることになる。
註
【1】工学の期待が寄せられていない学問すなわち理学の研究者には、この種の考慮を払う必要はない。
_政治学に対する社会の期待
以上の考察から明らかになるのは、もし社会が政治学に対して「工学の期待」を抱いているとすれば、政治学はその期待に応えてその種の工学として構成される必要がある、政治の概念の規定の仕方はその結果として決まるということである。では、社会は政治学に対して、なんらかの問題解決の手引きを期待していると言えるであろうか。
・日常の政治論
社会通念上、政治学は日常の政治論の延長線上に位置づけられている。これは、社会が政治学に求めるものが、構成は日常の政治論のまま、分析の仕方に専門性を高めることだと理解できる。
すでに明らかにしたように、その日常の政治論は、問題解決を意図する型の議論であり、その関心は「人が『国家という道具』を使ってなにか事を為そうとする際の問題(障害)」に特化している。
したがって、社会は、政治学に対してこの意味での「工学の期待」をもっていると言うことができる。
・政治学に対する期待と批判
社会が政治学に対してどのような期待を抱いているかは、1960年代から70年代にかけて、科学志向の政治学(行動論的政治学)に対して浴びせられた激しい批判に、具体的に読み取ることができる。政治学のあり様に対しては、それまでもさまざまな批判がなされてきたが、この時の批判の特徴は、それが政治学の「社会的適切さ(social relevance)」に対するはじめての大々的な批判であった点にある。
第二次大戦後のアメリカ合衆国で誕生し、発展した行動論的政治学は、政治行動に関する「基礎的な理解の追求とそれに必然的に伴う実践的関心との絶縁」を目標としていた。【1】この立場からは、政治学は「今日の社会問題の解決をめざす応用研究」を放棄する必要がある、なぜならば、それは科学的に妥当な知識を生み出さないどころか「エネルギーの浪費」だからであるとされた。【2】
この「実践的関心との絶縁」の姿勢が、社会的適切さを欠くものとして批判された。つぎがその批判の典型である。
行動論者たちを「非政治的」といってよい。政治研究を価値自由な「科学」にしようとする彼らの試みは、研究から政治を完全に排除してしまうという顕著な傾向をもっている。彼らは研究の論題を選ぶ際に、政治的重要さを基準にすることがないように見える。むしろ彼らは、みずからが用いる方法の要求する基準によってそれを選んでいると考えられる。・・・・それゆえ彼らは、彼らの学生や一般の人たちが大きな関心を示す問題に取り組むことができない。・・・彼らの研究はしばしば無意味であり、細かすぎ、かつ非政治的なものに思われるのである。【3】
われわれ[政治学の教授たち]が行なう研究の多くは、教室の外で起こっていること、学生達の関心事、より大きな社会の政治的必要とのかかわりを失っている。【4】
[政治学批判論争において]争われている問題は、ある理論が科学の基準となる枠組に照らしてどの程度「良い」[科学的な妥当性をもつ]か、ではない。むしろ、その理論とそれに付随するものが社会に対していかに「良い」[役立つ]かということである。【5】
つまり、行動論的政治学の研究者が研究の課題を設定する際に、政治的重要さ(社会的適切さ)を基準にしないでそれを選定する結果、科学的な妥当性という点では優れていても、社会に役立たない研究成果が生み出されてしまっている。いいかえれば、社会は政治学に対して「工学の期待」を抱いているにもかかわらず、行動論的政治学はそれに応えていない、「期待外れだ」というのである。
この科学志向の政治学に対する批判と対照的なのは、伝統的な政治学に対しては、社会的適切さに欠けるとしての批判が行なわれていないことである。その理由は、すでに明らかにしたように、伝統的な政治学が国家に関する問題解決型(工学)としての構成をとっているからであると考えると納得がゆく。
・政治学に対する社会の期待
以上に明らかなように、社会は政治学に対して「工学の期待」をもっている。具体的には、社会は、政治学が、「人が『国家という道具』を使ってなにか事を為そうとする際に発生する問題(不都合)の解決を図るための研究」を行ない、その成果として、この種の問題を解決するための専門的裏付けのある手引きを供給することを望んでいる。
政治学に対して、社会の側にこの種の工学の期待がある以上、政治学はこの種の問題の解決を意図する工学型の学問に構成する必要がある。政治概念は、政治学をこのように構成する結果として、「かならず国家と関連づけて」規定されることになる。
註
【1】David Easton, "The New Revolution in Political Science," American Political Science Review, 63 (December, 1969), p. 1054.
【2】Albert Somit and Joseph Tanenhaus, The Development of American Political Science: From Burgess to Behavioralism (Boston: Allyn and Bacon, 1967), p. 178.
【3】Charles A. McCoy and John Playford, eds., Apolitical Politics: A Critique of Behavioralism (New York: Thomas Y. Crowell Co., 1967), p. 7 (emphasis added).
【4】William Parente and Mickey McCleery, "The Introduction and Structure of Political Science," Western Political Quarterly, 22 (June, 1969), p. 350.
【5】Philip S. Kronenberg, "The Scientific and Moral Authority of Empirical Theory of Public Administration," in Frank Marini, ed., Toward a New Public Administration: The Minnowbrook Perspective (Scranton, Pa.: Chandler Publishing Co., 1971), p. 214 (emphasis added).
おわりに
政治を権力現象と規定し、政治学を権力一般の科学と捉えるデュヴェルジェ流の理解は、方法論の議論としては、今日でも政治学者の間で大きな影響力をもっている。この立場は、伝統的な政治学が、彼らと同じく権力現象に関心をもっていながら、実際の研究では国家にしか目を向けないと理解し、その視野の限定は方法論的に妥当性を欠くものとして、伝統的な立場を否定する。
しかし、この理解は間違っている。日常の政治論および伝統的な政治学が視野を国家に限定するのには、デュヴェルジェ流に理解されているのとはまったく異なる、方法論的に確固とした根拠がある。本稿で私が明らかにしたかったのはこの点であり、その立場に立って政治学の研究対象の範囲を画定することの妥当性の論証である。
日常の政治論および伝統的な政治学は、人間行動の特定の性質に関心をもっているのではない。したがって、それらは、特定の性質をもつ行動のすべての事例に関心を示すのでも、特定の性質をもつ行動以外には関心を示さないのでもない。このような関心の示し方は、それらが、問題解決型(または工学型)の構成をとる結果生まれてくる。
問題解決型の議論が関心を示すのは、特定の「問題の集合」である。その集合は、事物がもつ「人が生きていくうえでの障害になる性質」の種類を特定することで構成される。日常の政治論および伝統的な政治学の場合、それらが関心を示すのは、「人が『国家という道具』を使ってなにか事を為そうとする際の障害になっている」という性質である。その結果、この種の性質を示す事象が、したがってかならず「国家との関連」があるものそしてそれのみが、それらの考察の対象となる。
日常の政治論および伝統的な政治学の方法論的根拠が明らかになると、政治の定義をめぐる新旧の対立と考えられていた論争の実体が、「政治学」の名称のもとで、「人が『国家という道具』を使ってなにか事を為そうとする際に発生する問題(不都合)の解決を図るための研究」(工学)を行なうか、どこでもよいから「人間の行動に関する法則の入手がしやすい領域についての研究」(理学)を行なうかの選択であることが明らかになる。
ある学問領域を工学型に構成すべきか、理学型に構成すべきかの選択は、社会の側の期待に応じる形で行なうのが妥当である。すなわち、特定の学問領域に対して、社会の側に「工学の期待」すなわち「特定の問題の集合の解決の手引きの供給への期待」がある場合は、その領域で研究に従事する研究者は、その期待を尊重して、その期待に応えることをみずからの研究の課題とし、その学問領域をその種の工学として構成する必要がある。
この前提に立つと、政治学に対して工学の期待があるか否かが、つぎに問題になる。答は「ある」である。したがって、政治学は一つの工学として構成される必要がある。すなわち、政治学は「人が『国家という道具』を使ってなにか事を為そうとする際に発生する問題(不都合)の解決を図るための研究」を行ない、その成果として、社会に対して、この種の問題を解決するための専門的裏付けのある手引きを供給する必要がある。政治学がこのように構成される結果、政治学の研究対象はかならず国家と関連がある事象となる。
伝統的な政治学と日常の政治論がとる、「かならず国家と関連づけて」政治を捉える立場とは、このようにして構成されるのである。
【追記】
私は、昨年秋、「学問分野間での政治学の分担――政治学の責任」と題する論文を、田中宏・大石裕編『政治・社会理論のフロンティア』(慶應義塾大学出版会、1998年)に発表した。この論考は、「政治学は、『秩序形成の仕事と、それを実行するための装置としての国家』に限って関心を払い、それ以外の事項には他の学問分野での問題として関心を示さない」(同、7ページ)ことを前提として立論してある。しかし、この論文では、そのように関心を限定することの妥当性は論証しなかった。本稿は、その論証の役割を果たすものである。
Copyright (C) 1999 by NEGISHI, Takeshi
著作物一覧に戻る
《「政治学の研究対象を『国家に限る』根拠」終わり》