著作物一覧に戻る
 
 
著作権にかかわる合意事項:
 
 このファイルをコピーしたり、印刷したりすると、あなたは著作権にかかわるつぎの事項に合意したことになります。
 
 この著作物のファイルは、つぎの条件を満たすかぎり、コピーし、印刷し、保存し、また、第三者に提供するために電送、複製、印刷して構いません。
(1) 使用目的が研究および教育に限られ、それにより利潤の追求が行なわれないこと。
(2) 本サイトで提供するファイルの内容には、追加、削除、修正などによる変更を一切加えないこと。
(3) 引用は、コピーしたファイルからではなく、下記の出典から行なってください。
 
 
著者:
根岸毅(ねぎし・たけし)
慶應義塾大学名誉教授・政治学専攻
 
 
出典:
慶應義塾大学法学研究会『法学研究』第59巻第8号、1986年8月、1-28ページ。
Copyright (C) 1986 by NEGISHI, Takeshi
 
 
                法解釈と政治
 
                  根岸 毅
 
 
  一 政治の手段としての法
  二 法解釈活動の政治性
  三 法解釈の政治的基礎――後見主義と自律主義
  四 政治学の一分野としての法曹論
 
 
 『法学研究』第五十八巻第十一号に掲載された津田利治名誉教授の「法は何処に?――伊東乾君の法学『方法論の方法』を聴く――」は、私がこれまで政治学の立場から漠然と抱いていた政治と法学の関連についての観念を明確なものにするのに、大きな示唆を与えてくれた。法学はたしかに一つの学問である。しかし、法学者を含めた法曹の活動は、学問的活動であると同時に一定の社会的な、とりわけ政治的な役割を果たしている。法曹の活動なかでも法解釈がもつその役割はどんなものであろうか。それは政治学にどのような問題を提起しているのであろうか。以下は、この点を政治学がどう捉えたらよいかを粗描したものである。
 
 
    一 政治の手段としての法
 
 政治学者の間には多様な政治の定義がある。同様に、法学者の間でも法の定義は一つではない。したがって、ここで私が取り上げる政治と法は、政治学者、法学者のすべてに受け入れられているものではない。しかし、それは、一般人のもつ常識的な政治と法の観念、および、政治学における伝統的な政治の定義、法学における伝統的な法の定義にもっともよく馴染むものである。
 
 《政治》とは、人間の諸活動のうち、社会的装置である「国家(=政府)」とかかわりをもつ部分のことである。すなわち、政府の設立や転覆、政府を活用しての特定の目的の実現などに、それを促進したり、抑制したりする形で、意図的にまたは無意識的にかかわっている活動が本稿でいう政治である。
 政府とは人間が作り出す多種多様な装置の一つである。装置とは、特定の目的の実現のために、特定の仕事を実行するように設計され、そのように作られた仕掛け、仕組みである。この装置のなかで、それを構成する部品に人を用いて作られたのが社会的装置である。
 特定の種類の装置を別の種類の装置から区別するのは、基本的には、それがどのような目的の実現のために、どのような仕事を実行させるべく作り出されたかによる。したがって、社会的装置としての政府を特定するためには、政府にとってのこの意味の目的、仕事*がなんであるかを確定する必要がある。
 
 *「目的」とは、それが実現された場合利益が得られ、人がその実現を求める状態のことを言う。「仕事」とは、その種の状態を生起させるためには実行する必要のある一連の操作のことを言う。したがって、特定の目的と特定の仕事とは一対のものとして捉える必要がある。
 実際に一つの装置が実行する仕事は多様である。(たとえば、自動車は地表での人や物の運搬に加えて、ウィンド・シールドに付着した水滴の除去などの仕事も実行している。)しかし、それらの間には、一方が他方の仕事を実行する条件を整えるという関係があり、それをもとにしてその多様な仕事の間に木の形の構造の関係が存在している。
 装置の種別の根拠となる目的と仕事は、この木構造の頂点に存在するものでなければならない。(同一の装置にこの頂点が複数存在する場合がある。たとえば、時計機能付電卓がそれである。このような場合、その装置をいずれか一方の頂点にもとづいて一つの種類の装置としてのみ規定することはできない。この種の装置はハイブリッドと呼ばれ、同時に二つ以上の装置として機能する。この例の場合には、それは時計であるとともに電卓でもあるといわなければならない。)
 また、その根拠となる目的は、この木構造の外に存在するものであってはならない。つまり、ある状態の実現がある装置の目的であるというとき、それは、その装置が実行する仕事によって直接生起させられるものでなければならない。(たとえば、自動車を使って人をひき殺し、その人に掛けておいた保険の保険金を手に入れるという、いわゆる保険金殺人に自動車が使えるからといって、自動車は保険金を入手するための装置であるとはいえない。自動車が実行する仕事の木構造の頂点にあるのは地表での人や物の運搬、目的として言いなおせば地表での人や物の位置の移動であり、それがたまたま車外の人の命を絶ち、間接的に保険金の入手に役立つ場合があるとしても、保険金が手に入ることは自動車が実行する仕事が直接生起させる状態そのものではない。このように、ある装置がある仕事を実行してある状態を生起させると、それが別の目的の実現の条件を整備し、それに間接に役立つという関連がある場合に、その別の目的をその装置の種類を特定する根拠となる目的だとすると、いかなる装置もその装置としての種類を特定することは不可能となる。たとえば、自動車は、運搬のための道具として人力車と同類、殺人のための道具として機関銃と同類、見栄を張るための道具としてミンクのコートと同類ということになり、自動車がどんな装置であるかは決して特定できない。)
 
 社会通念上および伝統的な政治学においては、政府は、つぎのような目的を実現するために、つぎのような仕事を実行するよう作られた社会的装置、機関と考えられている。その目的とは、一定範囲の人々の行動が一定の枠のなかで行なわれる状態である。その状態を実現するために実行されるべき仕事とは、(a)その枠を定め、その枠外で行動を起こすコストがその枠内で行動を起こすコストと比べてかならず大きくなるような手立てを準備すること、(b)その範囲の人々に対して、その枠と予想されるそのコストを知らせること、そして、(c)実際に人々が行動を起こした場合に、それがその枠内か枠外かに応じて予告したコストを実際に負担させることである。*
 
 *歴史上、以上の仕事を実行したすべての社会的装置が国家(=政府)と呼ばれたわけではない。(たとえば、原始社会におけるその種の装置や、中世ヨーロッパにおけるキリスト教会など。)しかし、もし私たちの研究の目的が、政府の仕事の実行とそれを通しての政府の目的の実現について、その必要の根拠、効果的な実行の条件、社会の他の局面に対する影響などを充分に解明することにあるとすれば、そして実際これが政治学の任務と考えられるが、考察の対象はその仕事を実行する社会的装置のすべてとし、歴史上それらの間に見られた相違点は同種の対象がもつ二次的特徴の違いと捉える方法が理論上不可欠だと言わなければならない。したがって本稿では、以上の仕事を実行するすべての社会的装置をもって国家(=政府)と呼ぶことにする。
 
 この、政府の「仕事の対象」となる一定範囲の人々は、通常国民と呼ばれている。この意味での人の集まりは、この目的を実現するためにこの装置を使い、この仕事を実行させる立場にある人(もしくは人々)とは、概念上区別される必要がある。この後者すなわち装置の「使い手」は、通常有権者とか主権者と呼ばれる。さらに、これらと概念上区別される第三の人の集まりが政府と関連して存在している。それは、この社会的装置を構成する「部品」の立場にある人々、すなわちふつう公務員(最広義)と呼ばれている人々である。これらは、政府との関連で人が占める可能性がある立場である。具体的な一個人がそのいずれをいくつ同時に占めるかは、その個人の置かれた状況に依存している。
 上に述べた行動の枠とは、ここまでの行動は許すがそれから外れることは許さないという限界、すなわち行動の許容と禁止の境界を示すものである。この枠は、通常、各種の法令を定めることを通じて設定される。また、その枠外の行動をとった場合に負担させられるコストは、通常、その法令のなかにたとえば刑罰や過料の形で定められる。人々はふつうその枠外の行動のコストを嫌い、許容される範囲内の行動をとるようになる。このような行動様式を現実のものとするためには、枠外行動のコストが充分に大きく定められること、枠外で行動を起こした者にはそれに応じたコストを実際に負担させることが必要である。そのコストを実際に負担させる仕事は、警察、検察、司法、監獄などが実行する。この仕事の実行、すなわち予告したコストを実際に負担させるためには、多くの場合物理的な力の行使が必要である。したがって、人々が許容される枠内の行動を選択するのは、この物理的な力の行使の威嚇と、それによって有無を言わせず負担させられるコストの重圧による、といってよい。
 
 本稿でいう《法》とはこの枠のことである。すなわち、それは、「政府の使い手(有権者、主権者)が、政府に仕事を実行させることを通して実現しようとする社会的状態のイメージ」であり、政府がその仕事の対象(国民)の行動を実際に規制する際の基準、政府がその仕事を実行する際に対象に対して示す行動の指針のことである。この意味で、法は政府がその目的を実現する際の手段の一つである、と言うことができる。*
 
 *このように法を定義すると、国家権力の干渉をできる限り局限しようといういわゆる「私法自治の原則」が働く民事の分野には以上の議論は妥当しない、という反論が出て来よう。この主張は、夜警国家においては国家には積極的な役割がなかったとする理解と同じ基礎をもつ。しかし、私法自治の原則と国家の関係はつぎのように捉える必要があり、その場合にはこの反論は成立しないことになる。
 私法自治の原則は、それ自体一つの行動の枠づけ、すなわちルールである。その核心は「契約自由の原則」にある。それは、民法第九一条および第九二条に端的に示されている。しかし、このルールを、国家が社会生活の「公ノ秩序ニ関セサル」領域においては一切の干渉を止め、すべてを当事者の相互交渉に任せることを表明したものだ、と理解するのは正しくない。国家が、社会生活の一定の領域においては、「契約自由のルールに基づいて、当事者間の関係が円満に(争いなく)形成され、維持されてゆく状態」を良しとしているのは確かである。しかし、社会生活には争いが付き物であり、民法も、予想されれるその争いを「いかに正しく裁き、いかにして破綻を生じた社会秩序を修復すべきかを目ざして制定されている」と考えなければならない(尾高朝雄『法学概論』(昭和二四年・有斐閣)一六頁)。
 契約自由とは、そもそも契約を結ぶ必要があるか、その必要がある場合だれを契約の相手方にするか、その契約はどのような方式とどのような内容で結ぶかを、各当事者が自分の思う通りに、すなわち他人に拘束されずに決定できるということである。契約自由のルールが守られているかぎり、当事者間に争いが生じる可能性はない。(このルールが守られているのはつぎの二つの場合である。一は、当事者間に円満に合意が成りー定の契約関係が生まれる場合、他は、当事者間に合意が成立せず何の関係も生じない場合である。前者の場合には争いがないから円満な合意が成ったのであり、後者の場合にはそもそも争い合う関係すら存在しない。)したがって、争いを収拾するだけが目的であっても国家が介入する必要はない。つまり、そこでは、国家の干渉を排除して私法自治を主張することが可能である。
 ところで、当事者間の関係は上の二つの場合だけではない。当事者間の力関係に際立った大小があり、一方が力を行使してでも自己に有利な契約を締結しょうと望む場合、一方が他方を脅したり騙したりして、つまり契約自由のルールを破って「契約」関係を作り出そうとすることがありうる。国家が一定の領域で契約自由を原則にするというのは、そこではこのようなルール破りを決して容認しないということを意味する。民法第九六条@――詐欺または強迫による意思表示の取消――はこの決意の表明であり、契約自由の原則と表裏一体の関係にある。このルール破りのコストは、民事的には、求めがあれば損害の賠償を命ぜられること(民法第七○九条)、刑事的には、詐欺罪(刑法第二四六条)または恐喝罪(刑法第二四九条)で罰せられることである。
 また、自己の意思によって結んだ約束(契約)は誠実に守るという社会的合意がなければ、契約自由は意味をもたない。したがって、契約自由の原則はこの合意が人々の行動を律するもう一つのルールであることを求める。民法第一条Aの信義誠実の原則がこれに当たる。そして、このルールを破る者には、求めがあれば民事的な措置として、第一に、履行の強制(民法第四一四条、強制履行、代替執行または作為の結果の除去、予防のための費用負担、裁判による代替の意思表示)が図られる。第二に、その者には、約束の誠実な履行を行なわなかったことから生じた損害を賠償することが命じられる(民法第四一五条)。これが、そのルール破りが負担することになるコストである。【1】
 さらに、契約自由の原則、すなわち、個人の私的生活関係は自己の意思によって形作るべしという考えは、そこでいったん争いが生じた場合にも、当事者間での円満な事態の収拾をよしとする。この考えが民法第六九五条の和解の規定に現われている。一方、民法は、当事者の間でいったん成った合意に関して、その合意の仕方が不備であったがために後に争いが生じるのを防ぐため、合意の内容が不明確な場合にそれを確定するための規定(解釈規定、たとえば民法第四○一条@)や合意の欠けている部分を填める規定(補充規定、たとえば、たんにその意思表示が欠けている場合の民法第四一七条や、合意を必要とする関係にありながらそれが成らない場合の第七六六条@)を用意している。つまり、当事者は、不明確な合意しか形作らなかったり、理由はともかく合意を生み出さなかったりした場合には、必要に応じて出来合いの規定に縛られるという形で、行動に枠をはめられている。
 以上のように、私法自治の基礎を定める民法は、契約自由のルールを維持するために、一組のルール(行動の枠づけすなわち社会規範)とそれに対応するコスト割り付けの規定(裁判規範)をもち、国家の力を背景として「契約自由のルールに基づいて、当事者間の関係が円満に(争いなく)形成され、維持されてゆく状態」を強力に維持しようとしている、ということができる。この意味で、本稿の法の定義は、任意法・強行法、または私法・公法の区別なく妥当するものということができる。【2】
 
 政府の使い手と法の関係はこのようなものである。政府の使い手が法を定め、法を定めている者が主権者すなわちその装置の使い手であると言ってよい。ところで、概念的には、憲法に規定された「形式的」主権者と、現実に法を定める「実質的」主権者とは区別される。また、実際政治上もこの両者が同一である保証はない。政府の仕事の対象である国民にとっては、この相違は重大な意味を持つ。なぜならば、彼らに対してどんな法が施行されるか、その法を現実に定めるのはだれかは、彼らの日常生活の広範な局面のあり様に大きな影響を与えるからである。そして、憲法の規定のいかんにかかわらず、法学者がその職務として行なう法解釈と呼ばれる活動は、その範囲で彼を実質的主権者とする可能性を持っている。
 
 【1】行動の枠(ルール)の実効性は、枠外行動を取る者に負担させるコスト、いいかえればルールを破ることに対する負の誘因の大きさに依存している。
 ルール破りの行動があった時に、そのルールを維持しようとする側が取りうる手は、大きく分けて三つある。第一は、その行動(作為・不作為)を「停止」させ、それ以上ルールが破られないようにすることである。たとえば、民法第四一四条が規定する履行・除却・予防、第一九八条の停止および第一九九条の予防がそれである。これにより、ルール破りの行動がもたらす他者の損害の拡大が阻止される。これをルール破りの誘因の観点から見れば、それ以上の利得を不可能にすることである。もしルールを維持しようとする側がこれ以上の手を打たなければ、ルール破りの側には、行動を停止させられた時点までに手に入れた利得が残り、つぎの機会のルール破りは抑制されない。
 第二は、ルール破りの結果に対して「原状回復」をさせたり、それがかなわない場合にはそれを「補填」させたりすることである。前者には、たとえば、民法第七二三条が規定する名誉回復、第二○○条@の返還(回収)、第一九○条@の償還がある。後者には、たとえば、民法第四一五条や第七○九条が規定する損害賠償がある。これにより、ルール破りの行動によってもたらされた他者の損害は修復されることになる。これをルール破りの側から見れば、多くの場合、ルール破りによって入手した利得は他者の損害の修復の費用に費やされるだけでなく、修復の費用の一部の調達にはルール破り以前からあった自己資源の吐き出しを必要とし、ルール破りの収支はマイナスとなる。刑法第一九条の没収の効果は、この収支をマイナスにすることである。問題は、これらの措置が、つぎの機会のルール破りを抑制するに足る大きな収支のマイナスを、つねにルールを破った者にもたらすかである。それは、そうである場合もあれば、そうでない場合もある。つまり、この第二の手段をもってしては、ルールの実効性は充分には保証し得ない。
 そこで、第三の手立てが必要になる。それは、「制裁」、すなわち、ルール破りの収支が大きくマイナスとなるように、ルールを破った者に対して意図的に不利益を割り付けることである。この効果をもつものには、民法ではたとえば第八四条、第八四条ノ二、第一○○五条が規定する過料があるが、典型的には刑法第九条が規定する死刑・懲役・禁錮・罰金・拘留・科料がそれである。この第三の手により、多くの場合、つぎの機会にルール破りをする誘因は大きくマイナスになる。その結果、多くの場合、ルール破りは効果的に抑制され、行動の枠としてのルールが現実に維持されることになる。
 以上は大数的に見て成立する一般論である。個々のルール破りにとって、第三の手までを用意することがつぎの機会のルール破りを充分効果的に抑制するものかどうかは、一義的には確定できない。ルール破りの抑制の観点からは、コストとして規定される不利益の大きさは、そのルール維持の実効性確保の要請との関連でつねに再吟味される必要がある。本稿では、私法の領域にもコストの割り付けとそれによる行動の枠づけが存在することを指摘すればこと足り、そのコストがルール破りを防止するに充分な大きさのものであるかどうかは問うところではない。
 【2】以上から明らかなように、民法が用意しているコストの割り付けの措置は主として第二の手立てまでであり、民法自体がルール破りを抑制する力は弱いことが分かる。したがって、私法と国家強制の間の関係は薄いと指摘することもできる。しかし、実際の日常生活では、人々はなに法によってルール維持が図られるかには関心がなく、ただ日常生活のルールの維持そのものを願っていること、さらに、そもそも私法・公法の区別は法曹がその職業活動上の都合に合わせて作った区分であることを考えると、私法(契約)自由の原則が働く社会生活の領域においても、本文の議論は妥当するものと考えられる。
 
 
    二 法解釈活動の政治性
 
 法が政治において果たす役割を以上のように捉え、津田教授の法学方法論を基礎にして考えれば、法解釈を中心とする法曹の活動はつぎの三つの局面に分けることができる。
 第一は法源論である。その仕事は、「特定の時、特定の地乃至特定の社会に、法源として存在する・・・成文不文の実定法規」(前掲津田論文一○五頁上、以下別段の註がない限り同論文による)の確認である。
 第二は法解釈論である。これは、さらに二つの段階に別れる。
 その一は、津田教授が狭義の法解釈と呼ぶものである。その仕事は、法源論で特定された実定法規の意味内容を明確にすることである。これを本稿の言葉でいいかえれば、主としてその可能な複数の国語的意味のなかから、場合によってはその枠外から一つ選び出し、それを政府が国民の行動に規制を加える際の基準と定め、それに拘束力を付与するよう提言することである。
 この作業が裁判官により判決のなかで行なわれれば、その提言は、まずその事件の当事者の行動を律する基準(具体法)となり、現実にその限りでの拘束力をもち、また、同種の判断が集積することによって判例法の成立が認められる場合には、一般国民や他の裁判官に対する一般的拘束力をも持つことになる。もしこの作業が他の法曹によって行なわれれば、その提言は、いま述べた裁判官の作業のなかに取り込まれることを通じて、それに応じた拘束力をもつことになる。
 以上の作業が実定法の全般について終わると、結果として、「実定法の直接規制する領域の限界」が確認され、成文不文の実定法規の「何処に如何なる隙間や矛盾が、最初から在り又は後に現れたか」が明らかになる(一○六頁下)。これは、いいかえれば、国家(=政府)がその仕事の対象である国民に対して、現に社会生活のどの範囲でどのような行動の指針を示しているか、また、それが示されておらずしたがって国家が介入しようとしない社会生活の範囲はどこかを確認することである。
 この結果、津田教授が広義の法解釈と呼ぶ、法解釈の二番目の段階が生まれる。ここでは、「実定法の隙間や矛盾、所謂法の欠缺領域に現実に生起する個々の生活関係を、法律的に、特に裁判上どう処理したら宣しいかと云う問題」(一○六頁下)に関して、そのような裁判をする際の「当該事件にのみ妥当する具体的な裁断規範」(一○七頁下)を提示することがその仕事となる。(もっとも、罪刑法定主義を原則とする法の領域では、この第二の段階は生じ得ないが。)
 
 周知のように、以上の作業に取り組む法解釈学は今世紀の初めを境として大きく変貌をとげた。一九世紀に支配的であった概念法学は、その解釈の方法を批判して登場した自由法論にとって代わられた。自由法論の主張は、「少なくとも法に欠缺があるかぎり、また、法文の表現が不明晰であるかぎり、裁判官はその欠缺または不明晰さの範囲内で『自由な法創造』をおこなうべきだ」というものである。いいかえれば、「三権分立の原理上、裁判官は当然法律に拘束される。しかし、その拘束は法律が本来予想した生活関係についてのみ存在するのであり、その範囲外の事案については、裁判官は社会事実の科学的認識、法秩序に内在する統制目的などを総合的に考慮したうえで、自己の確信にしたがって裁判すべきである」というのである。ただ自由法論は、それが公然と認めた裁判官の法創造の自由が恣意的、主観的なものにならないよう、法解釈の指針を、人々の社会生活を現実に統制している「生きた法」(前引用文にいう社会事実)に求め、その科学的探求を提唱した。ここに誕生したのが現代法学のもう一つの要素である法社会学であった。(碧海純一『新版法哲学概論』(昭和四三年・弘文堂)二三五〜二三七、二四○、二九一、二九五頁。)
 その現代法学を、津田教授はつぎのように批判する。現代法学は法と法文を同一視し、「法文の文字文章の客観的国語の意味」をつねに問題にする(一一三頁上下)。したがって、一つの法文に複数の可能的意味が存在する場合には、法規範として拘束力を持つべきはそのいずれであるかが問題にされる。この場合、「現代法学の立場では、・・・法文の活字の羅列を利用して、〔解釈者〕各人が臨機応変に目的論的法内容と称するものを適当に創作して、其の法文の中へ詰込むことのみが、解釈の名の下に行われ」る(一一二頁上)。【1】津田教授は、ここに解釈者による「法創造的作業」の存在を指摘し、それに疑問を投げかける。
 つまり、本稿の言葉でいいかえれば、なにをもって政府が国民の行動に規制を加える際の基準と定め、それに拘束力を付与するかの選択に際して、現代法学は、学問の「権威」や「客観性」を後ろ楯に、じつは解釈者自身の個人的な価値観、信条を忍び込ませている、それは困ることだ、というのである。この操作の過程で、彼らの法源論までもがその支持のために持ち出される。すなわち、「成文法は正規の改正の手続を経ないでも、社会と共に時々刻々其の内容を変化しつつある」(一○二頁下)という主張がそれである。「特定の時、特定の地乃至特定の社会」になにが「法源として存在する」かという事実(存否)の問題(九八頁下)さえも、解釈者が創造したい法の内容に合うように処理される。
 以上の議論ですでに明らかなように、現代法学における法解釈という活動は、基本的には「政治的な活動」である。なぜならば、それによって政府が国民の行動に規制を加える際の基準がその限りで選択されるからである。【2】したがって、法解釈の方法論は学問方法論であると同時に、いやそれ以上に「政治的な議論」となる。つまり、現代法学の立場に立つ法曹は、それを意図するとしないとに拘らず、結果として、政府が国民の行動に規制を加える際の基準は法曹が決めるべきだ、自分が法解釈を行なう法規に関する限り自分の選択がその基準となるべきだ、ということを主張していることになる。いいかえれば、法解釈活動が行なわれる範囲においては、法曹が実質的主権者でなければならない、というのである。その際、憲法に規定された形式的主権者がだれであるかにはいっさい無頓着である。
 
 ところで、この立場を批判する津田教授の立場も、また別の意味で政治的である。現代法学の立場を否定し、法解釈の名の下に解釈者自身が実質的主権者となることを拒否したとしても、法の意味内容に関して意見の不一致があるところで政府が仕事を実行し続けようとする限り、それは一つに絞られざるを得ない。いいかえれば、法解釈すなわち国民の行動規制の基準の確定の仕事はなしでは済まされない。この場面において、津田教授そして利益法学(立法者意思説)は、たんなる法規の文字文章の国語的意味の特定ではなく、法文の意味が法規範として拘束力をもつのはどのような場合かを明確にし、その場合の意味がなにかを確定すべきだ(参照、一一三頁上)、また、たんなる客観的国語の意味の確定に見える外見の下で、解釈者自身の個人的な価値観、信条をそこに忍び込ませてはならない(参照、一一二頁上)と主張する。この問題提起に対する答が、立法者の意思をもって法文の意味内容とすべしというものである。(日本では従前からいわゆる成文法主義をとり、法制度の根幹を法律に求めてきたことから、法解釈の力点も法律の解釈におかれてきた(一○五頁上)。以下では、この法律解釈が法律学の主たる任務であることを根拠に、法解釈の問題をそこだけに限って論ずることにする。)
 この答の論拠として、第一の問題提起との関連で津田教授が指摘するのは、法文のいかなる意味も「立法者の意思の裏付けの無い限り、夫れが法規範として拘束力を有つことはあり得ない」(一一三頁上)という点である。この法文という文書は、立法者――憲法上国家意思表示の権限を認められた機関――が立法の趣旨、すなわち、国家(=政府)はなにをもって国民の行動に規制を加えようとするのかを国民一般に伝達する用具である。文書が意思伝達の用具として取り扱われる限り、「大切なことは其の文書に託した其の作成者の意図は何か、伝達したい気持の内容は何か」である。(一一九頁上下。)したがって、法規範として拘束力をもつ法文の意味内容は立法者の意図したものだけということになる。
 第二の問題提起との関連で、私は、上の答の論拠としてつぎの点も指摘できると考える。通常の用語法にあっては解釈とは、言葉や文章の意味内容をその受け取り手の側(それを表わした人以外の人)が説明することをいう。この解釈から、解釈者自身の個人的な価値観、信条がまぎれ込む可能性をまったく排除するためには、論理的には、解釈者と呼べない立場の者を特定し、その者が指し示すものをもって特定の文書の意味内容であるとすれば良いことになる。ところで、ある文書についてその文字文章の意味はかくかくであると説明する人がいた場合に、その発言がその文字文章の意味を解釈しているのではないと言えるのは、その人がその文書の作成者の場合だけである。つまり、特定の法規について、その意味内容の解釈者と呼べない立場の者とは、その法規の作成者すなわち国家機関としての立法者だけであることが分かる。その場合その者は、正直かつ記憶に誤りがないかぎり、その文書を作った際の自己の意図を物語っている。
 はじめの問題提起を受ければ、それに答える際のこの二つの論拠からして、津田教授および利益法学が、立法者の意思をもって法文の意味内容とするよう主張することには納得がゆく、ということができる。
 この方法に従えば、法解釈すなわち法文の意味内容の確定という活動は法創造的作業をまったく含まないものとなり、「単に立法者が当該法律規定を以て設定した法規範の内容を・・・其のまま受取り再現する純粋に・・・価値叙述的作業」(一○五頁下)となる。具体的には、「立法者は何の為に当該法律規定を設けたのか、如何なる生活状況、利益紛争の状況を把えて、夫れをどの様に規制しようと欲したか」を解明する作業が行なわれることになる(一○五頁下、参照一二三頁下〜一二四頁上)。それは、法律を解釈しようとする者が、特定の法律が制定された時にその立法者はなにを意図していたかという歴史的事実を、法規の文言、法律案審議の過程での各種の議事録や法案準備のための各種調査資料、立法時の法曹による論説や新聞雑誌の記事、その当時の国語の用例などを資料として(一二三頁下)解明する作業となる。
 ここから、つぎの二点を指摘することができる。まず、この作業が事実を確認する作業であるということから、その結論は他の科学におけるのと同じ意味で科学的客観性をもち得るものとなる、ということである。その意味で、法の内容は、立法者の意思がそうであった程度にまで、明確かつ一義的に確定できるものとなる。(立法過程の歴史的資料が不備であったり、散逸していたり、また、そもそも立法者の意思内容が明確でなかったり、一義的でなかったりした場合には、この作業の成果として示される法の内容にその限りでの不明確さや多義性が残ることは避けられない。)また、その結論は、かならずしもその法文の可能的国語の意味の範囲内に限られるものではないことになる。なぜならば、法文の文字文章は立法者が自己の意図を国語的に表現するために用いた用具であり、その表現の技術がまずければ、その意図がその法文の可能的国語の意味から外れることがあり得るからである(参照、一一三頁下〜一一四頁上、一二○頁上下)。
 ところで、津田教授は、この法解釈の方法の採用の根拠を、おもに法学方法論の観点から説明しようとしているように思える。つまり、文書の「意味が通じた」というのは、日常的にはこういう場合である(一一九頁上下)、また、その方法によれば、法の内容が解釈者ごとに千差万別の形を取ることがなくなり、「法の統一、法的安定性」が確保できる(一一八頁上)、というわけである。
 しかし、この方法の選択もまた明らかに強い政治的色彩を帯びている。それが政治的であるというのは、それが、政府が国民の行動に規制を加える際の基準の特定を、現代法学のように解釈者自身の個人的な意思に委ねないで、形式的主権者である立法者の意思に委ねるという選択を行なっているからである。いいかえれば、それが意識されているか否かは別にして、形式的主権者がだれであろうと、それと実質的主権者を同一の者とすべしというのが津田教授および利益法学の採る政治的立場である。
 このような政治的立場をとることの妥当性については、本稿の冒頭に掲げた津田教授の論文は概して寡黙である。また、なぜ現代法学の政治的立場が拒否されなければならないかについても同様である。前者に関しては、すでに指摘した意思伝達の用具の取り扱い方の説明と、「法律の公布制定に依り、立法者が特定内容の法規を定立すると言って居るのであるから」(一一三頁下)としか指摘されていない。【3】後者に関してはいっそう寡黙である。【4】【5】
 
 しかし、法曹の活動の第三の局面は、まさにここから始まらなければならないだろう。すなわち、それは法の哲学である。そこでの仕事の一つは、法曹が法解釈の特定の方法を選択することが一つの政治的選択であることの確認の上に、その選択の妥当性を論証することである。
 
 【1】津田教授は別の論文で、現代法学(自由法論)に特徴的な目的論的解釈を、つぎのように性格づけている。すなわち、そこでは、立法者の意思は故意に無視され、解釈者個人が、法適用時の現実社会の要求に合致し、したがって問題の良好な解決をもたらす、と考えるものが法の内容とされる。それは、「結局は、解釈者の主観的な価値判断」にすぎない、と。(津田利治『会社法以前』二一三、二二三〜二二四、二三七頁、二四二頁註五。これは、本稿冒頭に掲げた津田教授の論文のいわば前編にあたるもので、「我国私法学に於ける所謂目的論的解釈への疑問」と題されている。この論文は以下「疑問」と略す。)
 また、碧海純一は、この種の解釈においては、多くの場合立論の前提となっている目的が明確でも一義的でもなく、その目的自体の選択が行なわれざるを得ない点を明らかにしている(碧海『新版法哲学概論』一七八〜一八○頁)。
 この種の解釈が解釈者の主観の産物にすぎないことは、つぎの議論からもよく読み取れる。法解釈においては、「法規を除外して、具体的事実の中から、その事件をどう処理すべきかという結論を探し求める努力をすべきである。・・・・法規による理論構成は、結論を生み出すためではなく、それを理由づけるためである」(加藤一郎『民法における論理と利益衡量』(昭和四九年・有斐閣)二七、三一頁)。
 【2】法学者による同様の指摘に、つぎのものがある。「法の解釈の複数の可能性があり、そのうちの一の選択は解釈するものの主観的価値判断によって左右される。しかもその一つが裁判所の判決の基礎となる。そこで法の解釈の争いは、何が法であるかの争ではなく、何を法たらしめんとするかの争い、・・・裁判官をして如何なる法を創造せしめんとするかの争であると考えなければならない」(来栖三郎「法の解釈と法律家」(『私法』一一号)二○頁、強調根岸)。
 【3】ただし、「我国私法学に於ける所謂目的論的解釈への疑問」の二四六頁註八二には、つぎのような、法学のあり方についての明快な考えが述べられている。「従来我国の法律学は、動もすれば裁判所や官庁が、民衆を監視、規制すると云った角度から、(学者に依り)論ぜられる嫌いが強かったが、今日では反対に、民衆の立場に立って、国民が裁判所や官庁を監視し、鞭撻する為めの法律学にならなければならない様に思われる。・・・・何時までも傲慢なエリート学問のまま民衆に君臨していてはならないと思われる。」
 【4】法解釈の二番目の段階、すなわち、実定法の欠缺領域において生じた特定の訴訟事件のみに妥当する具体的な裁断規範(具体法)の提言も、もちろん、本節で論じた政治的色彩を帯びている。それは、法令に根拠をもたない行政指導がもつ政治性と類似するところがある。この点に関する現代法学と津田学説(利益法学)の対立は、狭義の法解釈の場合と同様に理解することができる。ちなみに、後者は、法の欠缺領域における例えば類推の可否を判断する条件について、一般にいわれる「概念上の共通性乃至類似性」などは問題にせずに、「当該事件に於ける具体的利益状況と、立法者が法律の中で捉えた典型的利益状況との比較衡量が決定的役割を演ずべきもの」(一○七頁上下)としている。
 【5】方法論の観点から、法と法体系の関係をどう捉えているかに注目すれば、概念法学、現代法学(自由法論)、利益法学(立法者意思説)それぞれの法解釈の異同はつきのように整理することができよう。
   イ 概念法学と自由法論
 個々の論者が口でなんと言おうと、その解釈活動の実際が方法論上なにを意味するかに注目すれば、概念法学と自由法論の立場に立つ法曹は、つぎの基本的な点で同類だということができる。すなわち、彼らは、「法」を解釈者が「探し出すべきもの」と捉え、その個々の法が一つの体系(法体系)のなかに相互に論理的に矛盾することなく位置づけられており、しかもその体系が個々の法に先行して存在するとの理解をもっている。
 概念法学は、法の規定を立法者の意思から絶縁された客観的存在と考え、それぞれの規定の意味すなわち法を、それぞれの文字文章がもつ客観的意味の枠内で、かつ互いに論理的整合性が保てるように確定しようとする。つぎに、確定されたそれぞれの意味から抽象的な一般概念を構成し、それをもとにして完全無欠の法の体系(論理構成物)を作り出そうとする。さらには、この法体系を個々の法規よりも観念的に先行して存在するもの、普遍的妥当性のあるものと考え、はじめの個々の規定および規定外の事項までも、この体系のなかに位置づけようとする。(「疑問」二一九、二三四〜二三五頁。)自由法論も、法や法体系が「素材〔法の規定〕を離れて、素材以前に存在し、夫れが素材を創作したり変形したりする力を持つ」ものと考える点では、概念法学と同しである(「疑問」二三四〜二三五頁)。
 ところで、この考え方は、方法論的には、古典的な政治学においてたとえば「自由の本質はなにか」の型の問がその中心を占め、政治学の任務は「自由」という言葉の中核的な意味、不易の実在(イデア)を「発見」することである、と考えられていたことに類似している。このような問題の設定の仕方が方法論的に無意味であること、言葉は唯一の中核的な意味をもたないこと、争われていたのは言葉の用法に関するそれぞれの論者の私見であったことは、T・D・ウェルドンが『政治の論理』(永井陽之助訳、紀伊国屋書店・一九六八年、とくに第二章)のなかですでに明らかにしたことである。
 このように捉えられた法、すなわち法規の文字文章がもつとされる客観的(中核的)意味は、それが「客観的」と呼ばれるにもかかわらず、解釈者一人一人のその時々のイマジネイションが作り出したもの、すなわち「主観」の産物でしかあり得ない。ましてや、その法を素材として構築される法体系はまったくの主観の産物である。このようにイマジネイションを働かすことを解釈と呼べば、法の解釈にだれが行なっても到達する「唯一の客観的固定的な正しい解釈」(「疑問」二二四頁)がないのは当然である。
 この作業は、いわば、一定の前提とルールから作品(論理構成物)を作り上げ、その内的な論理の整合性と体系としての美しさを競う「論理ゲーム」のようなものである。それが、その競い合いの楽しみのためだけに終わっていれば問題はない。しかし、ゲームの参加者が自分の作り出す体系にゲーム参加者以外の人々に影響のある役割を与えるとき、それは社会的に不都合な事態を招く可能性をもつようになる。概念法学と自由法論の立場に立つ法曹はともに、彼らの作り出す体系に「一般国民の行動を律すべき基準」の役割を期待しており、たんなるゲーム参加者の立場を超えて、社会的に不都合な事態を招く可能性をもつ存在にまでなっている。
 自由法論は概念法学を批判するところから生まれて来た。それにもかかわらず、「解釈者」と自称する者が解釈の名の下にそれぞれその都度イマジネイションを働かせること、したがって「客観的」と称されるその結果がじつは「主観」の産物であること、くわえて解釈者と自称する者が自分の主観の産物によって一般国民の行動が律せられなければならないと考えること、これらの方法論上の基本的な特徴に関しては、概念法学と自由法論は同種のものということができる。
    ロ 利益法学(立法者意思説)
 一方、利益法学では、「法」は立法者が立法時に作ったもの、すなわち過去(歴史上)に生じた客観的事実であって、その意味で解釈者に対して「与えられているもの」と捉えられている。したがって、それは「立法者の立法当時考えた筈の唯一固定的な〔利益の状態〕」(「疑問」二三○頁)という事実として一義的に確定される可能性をもち、解釈者が解釈を通して示す法文の意味内容がその過去の事実に合致するか否かは、法適用時の個々の事情に囚われることなく「絶対的な正否の問題」(「疑問」二四五頁註六○)として検証することができる、とされる。
 これは、立法者意思説が、「主観」説と呼ばれることがあるにもかかわらず、その実個々の論者の主張を検討し、評価し、取捨選択するための一つの基準をもつという意味で「客観」的な方法に則って行なわれていることを示している。したがって、立法者意思説は、通常の意味での科学と呼んで差し支えないものということができる。
 さらにここでは、いわゆる法体系は、「個々の法規が或程度集積したときに夫れを科学的に体系付けるため、後から学問上構成されるもの」、「個々の法規に調和する様に、学者が工夫して段々其の構成を変えて行かなければならない」ものと捉えられ、「新たな法規が〔学者が一定の法体系を構成した〕後から現われれば、夫れが既成の法秩序の中に収まれば良し、万一収まらない様な新たな型の法規であったなら、それを収容する為には、新たな法秩序が概念構成されなければならない」とされる(一二二頁上)。これは、つまり、法体系はたしかに学者個人のイマジネイションの産物ではあるが、学者は勝手にイマジネイションを働かせてよいのではなく、立法者が立法時に作った法という客観的事実に合致するように働かさなければならないということを意味する。これは、通常の意味での科学における、観察されたデータと、法則――英語では法も法則も同じ言葉(law)で表現される――や理論の関係づけとまったく同じである。そこでは、法則や理論は人の経験から離れて「絶対的に」存在するものとは考えられていない。(See Eugene Meehan, Contemporary Political Thought: A Critical Study (Homewood, Ill.: The Dorsey Press, 1967), pp. 51-61.)
    ハ 方法論の選択の基準
 以上二つの異なる方法論のいずれを採用すべきかは、それを採用する議論がなんのために行なわれるかという、議論の目的との関連でのみ決め得ることである。
 もし、法の解釈という活動が、それに携わるもの(法曹)以外の人に対する一切の社会的な効果をもたず、くわえてそれが法曹のゲーム心を満足させるためだけにあるのならば、概念法学や自由法論の方法が採用されることに反対する理由はまったくない。また、法解釈活動が法曹以外の人々に対する社会的な効果をもつ場合でも、議論の目的が、立法者が法として設定しようとしたものをことさら無視して、解釈者(法曹)の価値判断の結果をもって一般国民の行動を律することにあるならば、概念法学や自由法論の方法をとるという選択は適切である。しかし、議論の目的がこれ以外である場合には、その採用は合理的ではないことになる。
 これに対し、もし、法解釈の目的が、立法者が立法時に法として設定しようとしたものをもって一般国民の行動を律することの実現にあるならば、利益法学の方法を採用することが合理的である。
 
 
  三 法解釈の政治的基礎――後見主義と自律主義
 
 法曹の活動の第三の局面すなわち法の哲学の課題の一つは、それが法の解釈の基礎にある政治的選択の妥当化の根拠を提示しようとする点で、政治学の課題でもある。それは具体的には、概念法学、現代法学(自由法論)および利益法学のそれぞれについて、第一に、その法解釈が拠って立つ政治的選択を可能かつ必然とする思考とはいかなるものかを明らかにすること、第二に、その思考の論理的な意味合い(含意)をまず明らかにし、それを是認するための前提はなにかを確認すること、第三に、その前提が妥当なものであるとする価値の根拠がなにかを解明すること、そして最後に、このようにして解明される各種の価値の根拠につきその利害得失を相互に比較し、その優劣を明らかにすることである。*最後の課題の解明には、各研究者が、仮にもせよ一定の価値的立場を選択してかからざるを得ない。その場合、その価値の選択は自分の本音に反するものとならないのが人情であろう。
 
 *特定の法解釈の仕方をとることが、以上の諸点との関連でどのような立場をとることになるのかを検討するにあたり、はじめに、つぎの基本的な論点を意識に登らせておくのは有用である。それは、国家(=政府)がその仕事の対象である国民に対して指示する行動の枠すなわち法が、社会生活のある領域においては、不明確であったり、そもそもはじめから欠落していたりする場合に、私たちに選択可能な措置は論理的にどのようなものか、ということである。この問に答えるためには、二つの場合を分けて考える必要がある。第一は、社会生活のその領域での国家の指示がそもそも欠落している場合であり、第二は、それは欠落してはいないがその内容が不明確である場合である。
 第一の、国家の指示が欠落している場合には、私たちの選択肢はつぎのいずれかである。その一は、その欠落を国家がその領域では人々の行動に関与しないと宣言したものと理解し、その領域におけるいかなる行動に対しても国家の力を後楯とした規制措置はとらない、というものである。この場合、もし現実に起こされたある行動が不都合だと思われても、それは不問に付さざるを得ない。できることは、新たな法律を作ることによって、それ以後は社会生活のその領域でも国家が関与するとの意思表示を行ない、将来の同種の行動を規制する準備をすることである。刑法を支配する罪刑法定主義はこの立場の表現である。
 その二は、たとえ国家の指示が欠落していても、現実に起こされた行動が不都合なものと判断されれば、それに対して国家の規制を加えようとするものである。そのための手段は、新たな立法を行ないそれを遡及させること、または、新たな立法は行なわず当事者のみに有効な規制措置を講ずること、のいずれかである。前者の手段は、法律不遡及の原則が支配する近代国家にあっては原則として採られない。しかし、後者の手段は、民事事件に関しては裁判所は実定法の規定がなくても裁判を拒むことができないとする明治八年太政官布告第一○三号裁判事務心得第三条に示されている。
 第二の、国家の指示は欠落してはいないがそれが不明確だという場合には、その指示内容の明確化の作業(法解釈)が行なわれなければならない。この場合、その指示の内容の確定は、有権者、議会、内閣、各方面の法曹の法解釈活動に支えられた裁判所など、さまざまな立場の個人や機関によって行なわれることが論理的には可能である。(同じことは、国家の指示が欠落している第一の場合に、いかなる行動を不都合と判断し、それに対してその二の措置をとるという決定を誰が行なうかについても言える。)また、その作業の実行の方式も、法解釈学に概念法学、自由法論、利益法学などの学派があることから明らかなように、論理的には多様でありうる。したがって、罪刑法定主義、法律不遡及の原則、裁判事務心得第三条の採用が一定の価値的立場をもっているように、国家が国民に対して指示する行動の指針の内容確定の作業を、誰にどのような方式で行なわせるかに関する選択は、かならずなんらかの価値的立場の選択を伴っている。この点と関連して、「第二の場合に私(一人の有権者)がその仕事をやることだって論理的には可能なのに、なぜ(裁判所を中核とする)法曹だけがそれをやるのか」という庶民の素朴な疑問にはどう答えればよいのだろうか。
 
 現代法学(自由法論)の立場は、「後見主義」と呼ぶことができる型の思考から生まれている。私がここで後見主義と呼ぶのは、他の人がみずからの行動の指針をみずから決定することを許さず、その人に代わってその人の行動の指針を作り、提供し、それを強制しようとする考えである。
 このような考えが生まれる理由はさまざまであるが、主要なものはつぎの二つであろう。その一は、対象となる他の人が信頼に足る判断能力に欠けると考えることである。未成年者の保護監督のための後見や、君主の存在理由をただ公共の福祉のためだけに認めた啓蒙専制君主の政治などがこれにあたる。それは、結果がそうなるかどうかは保証の限りではないが、対象の福利の向上を目指した善意の後見であるということはできる。(現代法学が後見主義をとる理由はおもにこれであると考えられる。たとえば、「法は国民の中に国民の為に、一人一人の幸福の為に在るべきもの」(一一七頁上)といわれるからである。)その二は、悪意の後見というべきもので、対象の判断能力のいかんにかかわらず、対象を支配し、対象が自分の利益になる行動をとる状態を作り出そうと考えることである。通常の専制政治はこの種の思惑から生まれている。
 その考えが生まれる理由が善意、悪意のいずれであろうと、後見主義をとれば、法はそれに基づく行動規制の対象である一般国民の意向によって決定できるものではなくなる。しかし、その場合、だれを後見人とするかすなわちだれが法の内容を具体的に定めたらよいかに関しては、論理的にはさまざまな方式が考えられる。ここで現代法学は、法解釈活動が関わる限りでそれを法曹が確定しようと主張する。いいかえれば、その限りで法曹が実質的主権者になろうとする。それは、立法者の意図したものを否定しても法曹が良しとするものを法の内容とすることが、国民の幸福に寄与すると考えるからである。つまり、国民の幸福の守護者は自分たちであるとの自負心が、後見主義に立って考え得るさまざまな方式のなかから法曹を実質的主権者とするやり方をとらせる、と言うことができる。
 ところで、法曹の善意の意図と、法曹の行為の結果実際に国民の福利が増進されるかどうかは、論理的には一義的な関係にはない。論理の問題としては、みずからの善意がそのまま他人の福利の向上につながると考えるのは、自己満足でしかない。ある個人の幸福と利益が増進されたかどうかは、それについて本人がどう判断しているかを聞いてみないと分からないはずである。しかも、日本は、民主主義を建前とする憲法をもち、法令上、選挙権を禁治産者などを除く年齢満二十年以上の大多数の国民に与え、政府の仕事の内容を決する選挙を有権者の自由に表明する意思に基づいて行なうよう定めている国家である。それにもかかわらず、このような主張がなされるということは、その主張を行なう者が、 (a)法曹が実質的主権者となることそれ自体に高い価値を認め、(b)実際に国民の福利が増進されるかどうか、国民に広範な自己決定の機会が保証されるかどうかには一段低い価値しか認めないという価値の序列をもっていることを示している。
 現代法学の立場をとる法曹は、無意識的にも、自分がこのような価値の前提をもっていることを知る必要がある。そして、それが一つの重大な政治的選択でもあることを認めなければならない。彼らは、この政治的選択をどのような根拠から正当化しようというのであろうか。
 
 現代法学のもつこの問題性は、利益法学(津田学説)の論理構造と価値の前提を、政治の文脈のなかで位置づけてみると、いっそうはっきりしてくる。
 法規の意味内容をそれを作成した者(国家機関としての立法者)が意図したものに限定しようという利益法学の立場は、二段階を踏んで理解できる。
 第一は、その立場が、法規を人間の意思伝達手段の一つとして捉え、そこだけに議論の範囲を限る型の思考から生まれている、とする理解である。法文を立法者が立法の趣旨を国民に伝達するための用具と捉えれば、その内容は立法者の意図以外ではあり得ない。この考えをとった場合、法の意味内容は立法者の意思通りでありさえすれば良く、憲法上だれが立法者と規定されているか、その法によって行動が規制される一般国民と立法者がどのような関係にあるかには、関心がまったく向かなくなる。その意味で、この型の思考から生まれる法解釈の立場は、それ自体としては政治性をもたない。しかし、現実の政治においては、それが主張される政治的環境に応じて、その時々の憲法体制を結果として支える現状維持の役割を果たすことになる。
 しかし、津田教授の立場にはこれ以上のものがあるといってよいだろう。教授は、法の意味内容を立法者が意図したものとすることは、それから離れて法学者が勝手に探索した結果と比べれば、「一般国民にとってどれ程身近な日常性を持つか、而も万人共通の安定的法内容を獲得し得て、夫れが国民の法への信頼となり安心となって、国民生活の福祉に役立ち、法的安定性の保持にも寄与する」(一一九頁上)と述べている。
 ここから、第二の段階の理解が出てくる。それは、利益法学の立場が「自律主義」と呼ぶことができる型の思考から生まれている、と理解することである。私がここで自律主義と呼ぶのは、だれもがみずからの行動の指針をみずから決定でき、他の人からそれを与えられ、強制されることがないようにしようとする考えである。
 自律主義をとれば、法はそれに基づく行動規制の対象である一般国民みずからの意向によって決定すべきものになる。それは、実質的主権者に一般国民がなるということである。これは、民主主義を建前としない国家においては、事実上ほぼ生起する可能性のない状態である。その意味で、自律主義と理解される学説は、暗黙にもせよ民主主義を建前とする国家を前提にしていると言うことができる。また、それは、民主主義の国家においては、憲法に規定される形式的主権者(大多数の一般国民)と実際の政治の運用において決まる実質的主権者を同一の者とすることを求める。したがって、それは、法解釈の場面でも形式的主権者以外の者が実質的主権者となることを許さない。この要請を満たすためには、法解釈の結果確定される法規の意味内容は、その法規の作成者(立法者、すなわち形式的主権者によって選出された者により構成される国家機関)の意図するものでなければならない。詐欺や脅迫、本人の錯誤がなければ、人は自分の利益となるもの以外は選択しない。したがって、詐欺、脅迫、錯誤の要素がなければ、人々の選出になる立法者の意図は、大多数の一般国民の福利の向上に寄与するものであるに違いない。
 以上を含意する主張は、(a)政府がその仕事を実行する過程において、その対象となる国民に広範な自己決定の機会が保証されること、それを通して、(b)その仕事の結果が実際に国民の福利の増進に寄与することの二点に高い価値を認める価値の序列に基礎づけられている、ということができる。自律主義の考えから利益法学の立場をとる法曹は、無意識的にもこのような価値の序列を前提として議論を展開している。それは、また、一つの重大な政治的選択である。
 すでに明らかなように、この選択は、政治においては民主主義の立場をとることを意味する。ところで、周知のように、一般には「民主主義」もまた、政治の研究と実践の双方においてその意味が明確かつ一義的には確定できない暖昧な概念である。ここで私が民主主義と呼ぶものは、私が拙稿「政治における試行錯誤の機会――もうひとつの民主主義論――」(石川忠雄教授還暦記念論文集編集委員会編『現代中国と世界――その政治的展開』(慶應通信・一九八二年))のなかで、その意味と、それを良しとする価値の根拠を示した意味でのそれである。すなわち、「国家(政府)というしくみを使う機会をもつ人びと(使い手)〈有権者〉の範囲を、そのしくみが作用をおよぼす対象としての人びと〈国民〉のできるかぎり大きな部分としたうえで、その使い手の人びとに、そのしくみを使ううえでの試行錯誤の機会を最大限に保障」しようとする考え(同、八○六頁)を民主主義という。(自律主義の理想としては、仕組みとしての政府の使い手とその仕事の対象は完全に同一であることが望ましい。しかし、おもに人の判断能力の生物学的限界のために、この両者を完全に一致させることはできない。この事情を考えれば、民主主義においては有権者と国民を理論上同一視して差し支えない場合がある。)
 この考えの特徴は、どんな人でも絶対に間違いを起こさないとはいい切れないとするところから思考を開始する点にある。人は自分の利益になると思ってしたことも、後になってそうではなかったと後悔することがしばしばある。ましてや、他の人が自分の利益になると言って決めたことが常にそうであるとは考え難い。したがって、民主主義においては、(a)政府が実行する仕事の内容はその仕事の対象となる国民(実際には、この文脈では、それと理論上同一視される有権者)が決めるように仕組みづくりをする、(b)それでも政府が間違った、すなわち国民の利益にならない仕事を実行してしまったという場合に備えて、国民みずからがそれを正し、やり直しをさせることができるように、あらかじめ制度上の準備をしておくことになる。
 
 現代法学(自由法論)の立場が、この自律主義、民主主義の考えといかに異なるかは、つぎの点一つを示すだけでも明らかである。法解釈の限りにもせよ、法曹が法の内容を決めることになれば、一般国民はそれが自分の利益に反すると思っても、みずからそれを正し、その内容を決め直すわけにはゆかなくなる。これは、政治において民主主義を否定する立場であり、「法曹専制主義」と呼ぶのが適当な考えである。津田教授が、現代法学の考え方は「学者の恣意であり思い上りである」(一二二頁下)としたのは、この意味においてであると言えよう。
 
 法の哲学のもう一つの課題は、既存の法から離れて、もっとも望ましい法の内容を探求することであろう。すでに指摘したように、法は、政府に仕事を実行させることを通して実現したい社会的状態のイメージであり、政府がその仕事の対象である国民の行動を実際に規制する際の基準である。このイメージや基準は、これまでに、立法者、裁判官、法学者などが、法令や判例や学説のなかでそれを示したり、一般の人々の慣行が慣習法となって残ったりするなかで、私たちにさまざまな形で与えられてきた。しかし、私たちの考えのまだ及ばないところに、すでに知られているもの以上に好ましいものがある可能性はつねに残る。この意味で、あるべき法の探求は法解釈の作業と混同されることなく、別種の課題として真剣に取り組まれなければならないものである。(すでに指摘した広義の法解釈は、この種の分野の一例といってよい。)また、これなくしては、法の哲学の第一の課題に満足な答を与えることは難しいものと考えられる。
 
 
    四 政治学の一分野としての法曹論
 
 以上に明らかなように、法を解釈するという活動は、法学方法論を超える意味合いをもっている。それが現実政治上一定の重要な役割を果たす以上、それは政治学の研究対象でもなければならない。ところが、この種の問題に関して、これまで政治学は寡黙であった。寡黙というよりは、法解釈の問題は法学の問題と考え、そこに本稿が明らかにしたような「政治」の問題が潜んでいるとは考えなかった。
 政治学が、本稿でいう政治、すなわち国家(=政府)の存立やその仕事の実行とかかわりをもつ人間活動を対象とした学問であるとすれば、それはその視野のなかに、法曹のもつ政治的役割も入れておかなければならない。それは、ちょうど、政治学が立法過程に注目したり、行政官が果たす役割に注目したりするのと同じである。この意味で、法曹の政治的役割に注目する研究が、政治学の一分野として確立される必要がある。(私の政治学の理解の仕方については、拙稿「工学に欠けるもの、政治学に欠けるもの――『問題解決のための学問』の条件――」(『法学研究』第五八巻第八号)を参照して欲しい。)
 
 この分野の研究が答えるべき問の一つに、「私たちはなぜ、最高裁判所という、たった一五人の人たちが構成する合議体の意向に従わなければならないのか」という素朴な疑問がある。この疑問を敷衍すればつぎのようになる。
 現行の日本国憲法によれば、司法権を最終的に掌握する最高裁判所は最高裁判所長官のほか一四人の判事で構成される(裁判所法第五条)。その彼らは、長たる裁判官が内閣に指名され(憲法第六条)、他の裁判官は内閣の任命によってその地位に就く(憲法第七九条)とはいえ、また、一○年に一度国民審査に服する(同)とはいえ、さらに、憲法と法律に拘束される(憲法第七六条)とはいえ、みずからの「良心に従ひ独立してその職権を行」なうことができ(憲法第七六条)、くわえてその身分は手厚く保障されている(憲法第七八条)。この地位は、有権者が選出した議員で構成される両院からなる国会(立法府)や、国会議員のなかから国会の議決で指名される首相を長とする内閣(行政府)の地位と比べると、一般国民から隔絶した距離にある点で際立っている。民主主義を基本原理とする現行憲法の下において、このような隔絶した地位にある、しかもごくごく限られた数の者の判断に国民一般を拘束する力を付与するのは、どのような論理によれば正当化され得るのであろうか。
 この問に対する答は、司法権の独立の原則の説明として示される。たとえば、「裁判官に対してかような独立をみとめることが、公正な裁判を得るために絶対に必要であることが、諸国の永年の経験によって証明されているので、どこの国の憲法も、この原則を定めている」、「裁判については、国民の直接のコントロオルがおよぶことは、過去の経験から見て、公正な結果をもたないおそれが多い」ということが言われる(宮沢俊義『法律学体系コンメンタール篇1日本国憲法』(日本評論新社・昭和三○年)六○六〜六○七頁)。しかし、これだけの説明では充分な納得は得られない。たとえば、裁判の公正さ――法学的な意味でではなく政治の問題として――とはなんであろうか、かりにそれが明らかになったとして、現行憲法におけるような一般国民から隔絶した地位に裁判官をおくことが、どのような因果の連関でその公正さを確保することに寄与するのか、このような具体的な点はいっさい明確ではない。政治学の立場としては、このような点を、言葉の文や遊びとしてではなく、具体的な資料に基づく事実の問題として確定する必要があるだろう。
 この事実問題の解明が充分には行なわれていない段階でも、つぎのことは言うことができる。すでに指摘した意味での民主主義の立場からいえば、公正の意味がなんであれ、法の意味内容の確定――裁判所の判断は法の解釈を通じてこれを行なっているのだが――は、一般国民の意向に沿うものでなければならない。すでに明らかにしたように、これは、民主主義が憲法の基本原理であり、かつ、法解釈が立法者の意図という歴史的事実を解明する形で行なわれる場合にのみ実現される。ところで、法解釈が裁判官の手によってそのような形で行なわれるか否かは、裁判官の地位が独立であるか否かとは論理的には一義的な関係にない。また、法解釈がこのような形で行なわれる限り、その活動に携わる人の数が少ないことは決して不都合ではない。これに対し、民主主義の憲法の下であっても、現代法学(自由法論)の方法によって法解釈が行なわれるならば、その活動に携わる者の数がいかに多くとも、裁判所の判断に国民が従わなければならない謂れはないことになる。
 論理的にはこのように言えるにもかかわらず、裁判の公正さを確保するためには司法の独立が必要だと主張するのは、いかなる根拠によるのであろうか。その主張の意図はどこにあるのであろうか。政治学の一分野としての法曹論は、このような問題を解明しなければならない。
 
                                [一九八六年四月四日・脱稿]
 
 
〔付記〕本稿の作成に際しては、慶應義塾大学法学部の津田利治名誉教授、伊東乾名誉教授から貴重なご批判とご助言をいただいた。ここに、深く謝意を表したい。
 その伊東先生はこの三月末日をもって本塾法学部をご退職された。先生の退職記念号は近々に刊行されることになっている。本稿はもともとその号に載せるべく執筆し始めたものであったが、私の留学の都合で早めに発表させていただくことになった。これまでの大いなる学恩に感謝し、この論文を伊東乾先生に捧げたいと思う。
 
Copyright (C) 1986 by NEGISHI, Takeshi
著作物一覧に戻る
 
《「法解釈と政治」終わり》