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著者:
根岸毅(ねぎし・たけし)
慶應義塾大学名誉教授・政治学専攻
出典:
慶應義塾大学法学研究会『法学研究』第58巻第8号、1985年8月、1-28ページ。
Copyright (C) 1985 by NEGISHI, Takeshi
工学に欠けるもの、政治学に欠けるもの
「問題解決のための学問」の条件
根岸 毅
はじめに
一 学問と実生活のかかわり
二 工学と政治学は同種のものであること
三 政治学に欠けるもの、工学に欠けるもの
おわりに
はじめに
現代は、未曽有の物質的な豊かさを、日本も含めた先進諸国にもたらした。それと裏腹に、精神的な閉塞状態が指摘されるのも現代である。経済成長にともなう環境汚染の深刻化や心身症の多発、あり余る物に囲まれて育った子供たちの間にはびこるいじめと非行、これらの出来事は現代の問題状況を象徴的に示してはいないだろうか。
この状況は、それをもたらした人間の努力の成功と失敗の証である。それはまた、その努力の重要な部分を占める知的活動に長所と欠陥があったことを示している。
では、人が精神的にも物質的にも豊かな生活を実現しようとするとき、それを目指して行なわれる知的活動はいかにあるべきであろうか。本稿はこの問に対する答を探ることを目的とする。そのためには、学問と実生活のかかわりの実態を明らかにする必要がある。そのかかわり方を基準にすれば、工学と政治学は同種の知的活動であるということができる。豊かな生活の実現を目指す知的活動のあるべき姿は、両者の違いを、それぞれがその種の知的活動として持つべき属性に異なる点で欠けていることの現われと理解することによって、その輪郭が見えてくるであろう。
一 学問と実生活のかかわり
実生活とのかかわり方に注目した学問区分でもっとも一般化しているのは、学問研究を基礎と応用に分けるそれである。しかし、この分け方には、学問と実生活のかかわり方の実態に合わない理解が含まれている。したがって、この誤った理解を正すことがまず必要である。
a 基礎科学と応用科学――学問の社会的効用についての誤解
学問研究を基礎科学と応用科学に分ける考えは、政治学者の間でも広く受け容れられている。ここでは、学問研究には「社会の役に立たない基礎科学」と「役に立つ応用科学」があり、前者の成果を後者が応用することで社会に役立つ技術が生まれる、と考えられている。基礎科学の応用科学に対する論理的先行性が指摘される(Martin Landau, Political Theory and Political Science (New York: Macmillan, 1972), pp. 21-25, 27)。
この考えの前半、すなわち、種々の学問研究が「実生活の役に立っている」集合とそうでない集合に分けられるという指摘は事実として正しい。しかし、両者の関係を上のように理解することは、つぎに示すように論理的に間違っている。
基礎科学、基礎研究の任務は実際問題の解決ではなく、事象の説明にあるとされる。その説明のためにはつぎの作業を行なう必要がある。すなわち、まず、説明されるべきある具体的な事象を、ある変数(従属変数、被説明変数)がある値をとったものとして捉え、その変数と他の諸変数(独立変数、説明変数)との間の因果の関係を法則として解明すること、がそれである。その事象について説明がついたというのは、a、そのような「法則」が特定され、b、その事象が、その法則の記述する被説明変数が特定の値をとった事例として理解され、c、その法則の記述する説明変数のbに対応する値の事例を、bを「結果」として生起させた「原因(条件)」として特定できたということである。
この、法則・条件・結果の間で推論がおこなわれるという思考の論理構造に関しては、説明も予測も問題解決*(ふつう言う応用を含む)も同じである。つまり、説明が任務だとされる基礎科学も、問題解決が任務だとされる応用科学も、その任務を全うするためには、この論理構造をもった思考の過程を経なければならない。両者の間の相違は、研究者が、この思考の過程にどのように入っていくか、この論理構造のどの要素にどのような動機でまず注目するかにある。それは、研究者が知的活動を開始する際の動機の問題、つまり科学の関わらない「発見の文脈」の問題である。
*日本語の「問題」も英語の"problem"も多義的であるので、その言葉を使う際には注意が必要である。
ここでいう「問題」とは、人が欲求を満足な形で充足させながら生きようとする場面(文脈)に生ずる特定の事情のことである。人は、自分の生活環境について、こうあって欲しいという考え(構想、design)をもつ。ところが、生活環境の現実は、それから隔たっていたり、その実現を阻む要素をもっていたりすることが多い。その場合、私たちは、その現実のあり様が問題だという。この意味の問題は、人が生きていく上での「不都合」(inconveniences)とか「障害」(obstacles)のことである。この種の問題に対する答(解決)は、不都合な現実に手を加え、それを、思考の産物である構想の方に合わせることでもたらされる。答が正解であるか否かの判断の基準は評価者が心に抱く考えであり、現実すなわち評価者の生活環境は評価の対象である。これが第一の場合である。
第二は、人が、現実とは無関係に、思考の中のみで首尾一貫した論理の体系を作ろうとする場面で生ずる特定の事情のことである。その体系が未だに不完全で、その一部が欠けていたり、曖昧であったりすると、その部分を補って完全なものにすることが求められることになる。この課題が問題と呼ばれる。この種の問題に答える作業は、思考の中のみで首尾一貫した体系を作成することである。この場合、答が正解であるか否かの判断の基準は体系の首尾一貫性である。考え出された体系は、その基準に照らして評価され、修正を受けることになる。
第三は、人が、生活環境の成り立ちを分析し、それについての理解(理論、theory)を得ようとする場面で生ずる特定の事情のことである。その理論が未だに不完全で、その一部が欠けていたり、曖昧であったりすると、理論のその部分を完全なものにすることが求められることになる。この課題もまた問題と呼ばれる。この種の問題に答える作業は、生活環境の現実に合致するように理論を考え出すことである。この場合、答が正解であるか否かの判断の基準は、理論がいかにうまく事実に合致するかである。考え出された理論は、その基準に照らして評価され、修正を受けることになる。
この、第二、第三の意味の問題は「研究課題」(research problems)と呼ぶことができる。
第四は、既存の論理体系や理論やその他の知識の一部がある人に対しては隠されており、その人に、その部分を明示することが求められている場面で生ずる。この課題もまた問題と呼ばれる。この課題は「当て物」(quiz)と呼ばれるのがふさわしい。この種の問題に答えるというのは、その隠れた部分を明示することであり、それはいわば「物当て」の作業となる。この場合、答が正解であるか否かの判断の基準は、答がいかにうまくその隠された部分に合致するかである。考え出された答はその基準に照らして評価されることになる。
私たちが通常はっきりとは区別せずに論じている「問題」なるものは、以上のように区分することができる。本稿で「問題解決」という場合のそれは、この第一のものである。その特徴は、問題に対する答の望ましさの基準が評価者の思考の産物(生活の構想、design)にあることである。これに対して、他の問題にあっては、人間の思考の産物は、別の基準に基づいて評価される対象でしかない。
問題解決とは無関係に行なわれる「説明」は、すでに生起したある具体的な事象に注目し、「これはなぜ生起したのだろうか」という問を発するところから始まる。説明のために行なわれる作業は上に述べたとおりであるが、そこでまず注目されるのは「結果としての事象」であり、研究者の知的好奇心の満足がこの種の問いかけの動機となっている。
これに対し「問題解決」は、ある事象の現在の状態が、不都合なものしたがって努力して改変すべきものと評価され、注目されたときに始まる。ここで発せられる問は、「これはどうすれば良くなるのだろうか」である。ここでは、その事象は、条件の変化の結果その状態が変化する変数として理解されることになる。この問に答を出すためには、まず、問題の事象の、現状とは異なる状態を、望ましいものしたがって努力して実現すべきものとして特定する必要がある。さらに、その事象を被説明変数として記述する法則、および、その法則が記述する説明変数の、問題の事象の良しとされた状態に対応する具体的な状態を特定する必要がある。その特定によって、「問題の事象はこういう状態になれば良い。その状態は、この条件(原因)が存在するところに、この法則が作用する結果生ずるものだから、これから手を打ってその条件を整えてやれば良い」という答が得られることになる。【1】
ここでまず注目されるのも「結果としての事象」である。それに注目する動機は、現実生活に現われる不都合(問題)を除去(解決)しようとする実際的関心である。問題解決の独自性はここにある。しかし、同時に指摘すべきことは、動機に違いがあるとはいえ、提起した問に対して答を見出だす思考の論理構造に関しては、問題解決と説明の間に違いがないということである。科学哲学では、この点を「説明・予測・応用の論理的対称性」と表現して、注目している(参照、リチャード・S・ラドナー(塩原勉訳)『社会科学の哲学』(培風館・昭和四三年)、九六頁、カール・R・ホパ−(久野・市井訳)『歴史主義の貧困』(中央公論社・一九六一年)、二○一頁)。
これはつぎのことを意味する。すなわち、ある事象についての説明がつけば、その事象の現状が不都合だと考えられる場合には、その除去のためにどんな手を打てば良いかを明らかにすること(問題解決)も可能になる、ということである。この説明と問題解決を可能にするのは一つの同じ法則である。説明の働きしかせず、それが記述する被説明変数に当たる事象の現状が不都合だと考えられる場合に、その問題の解決に役立ち得ない法則などは論理的に存在しない。したがって、「学問研究には『社会の役に立たない基礎科学』と『役に立つ応用科学』があり、前者の成果を後者が応用することで社会に役立つ技術が生まれる」と考えるのは間違っている。
法則はすべて、人間生活になんらかの形で役立つ可能性を潜在的にもっている。その可能性がいわば顕在化した法則を取り扱うのが、「実生活の役に立っている」学問研究である。これに対しそうでない学問研究が取り扱う法則はそれが顕在化していないだけで、それにその可能性がないわけではない。この顕在化は、ある学問研究の取り扱う法則が記述する被説明変数に当たる事象の現状が、研究を行なう者によって不都合(問題)だと考えられた場合に生じる。顕在化とは、法則の潜在的な可能性がひとりでに現われてくることではなく、人が意図してそれを顕在化させることである。いいかえれば、研究者が問題解決の意図をもって研究を行なう場合その研究は「実生活の役に立っている」集合に属し、その意図がない場合それはそうでない集合に属すことになる。
私たちが基礎科学と応用科学の区分を設けることで注目しているのは、学問研究に「実生活の役に立っている」集合とそうでない集合が分けられるという事実である。この区別は、それぞれの集合における研究対象の特徴が生み出すものでも、それぞれの集合で、研究者が提起した問に答を見出だす際の思考の論理構造に特殊性があることから生まれるものでもない。また、それは、後者の成果が前者で応用されるという両者の関係が作り出すものでもない。それは、研究者がその研究を行なうに際して、実生活に生じてくる不都合(問題)の除去(解決)を目的としているか否かという、研究の動機の違いから生まれてくるものである。
【1】厳密な意味での「応用」は、ここで述べた知的過程において特定される法則が既知の場合の「問題解決」である。厳密な意味で既知の法則が応用される問題解決がいわゆる「応用科学」のすべてではない。むしろ、そのような事例は限られている。
b 問題解決の意図の有無に基づく学問の区分――理学と工学
では、ある学問研究に問題解決の意図があるかどうかは、どのようにして判別することができるだろうか。それは、その知的過程を構成する基本的な問が、つぎのいずれの型に属すかを知ることで可能になる。【2】
問A 「これはこうなっているが、なぜそうなるのか?」
"Why do they act as they do?" …A1
この英文には、つぎのような言い足しをすることができる。
"Why do they act as they do,
which is what attracts my intellectual interest?" …A2
コンマ以下の部分で明らかなように、この型の問を発する動機は「知的好奇心」――K・ポパーのいう、知ろうとする純粋に理論的な興味(ポパー『歴史主義の貧困』、九○頁)、A. Kaplanのいう"a thirst for knowledge or a love for truth"(Abraham Kaplan, The Conduct of Inquiry (Scranton, Pa.: Chandler Publishing Co., 1964), p. 382)――である。
問B 「本来これはこうあるべきなのに、なぜそうならないのか?」
"Why don't they act as they should?" …B1
この英文は、つぎのように言い代えることができる。
"Why do they act as they do,
which is what I believe they should not do?" …B2
コンマ以下の部分で明らかなように、この型の問を発する動機は「実生活の場で生じる問題解決への関心」――ポパーによれば、生活のなかに生ずる実際問題の解決への関心(ポパー『歴史主義の貧困』、九○頁)――である。【3】
このA2とB2を比べれば、両者の違いがコンマ以下の部分、すなわち、説明を加えようとする事実に着目するにいたった「動機」にあることが分かる。その動機に「問題解決の意図」があるのは問Bの型であり、問Aの型にはそれがない。この点を基準とする学問区分にもっとも近い従来の分け方は理学・工学のそれである。それにしたがえば、問Aの型(Do-do?型)の問を基本的な問とする学問研究は「理学」、問Bの型(Don't-should?型)のそれは「工学」と呼ぶのが適当であろう。【4】
一般にこれらの呼称は、自然科学の諸分野に限って使われる傾向がある。しかし、いま問題としている学問区分の基準は研究の動機に問題解決の意図があるかないかであり、その区分による学問類型の名称である限り、理学・工学の従来の用語法がもつ自然科学的色彩に拘泥する必要はまったくない。政治学も含めて社会科学の諸分野においても、研究の動機に問題解決の意図があるかないかの区別は論理的に可能であるし、事実その区別は存在する。したがって学問と実生活のかかわりを論じようとする場合には、自然科学以外の領域でも理学・工学の区別を考えることが必要である。【5】
【2】研究の動機に見られる問題解決の意図は、直接的には個々の研究者の意識の問題である。しかし、それがある学問に特有のものとして社会的に認知されていれば、それはその学問に固有の研究の動機であると考えることができる。
【3】問Bの"should"は、日本語でいえば「べき」(そうであることが望ましい)の意味であって、「はず」(そうであるのが当然)の意味ではない。
ある学問研究の基本的な問がこのいずれの型に属すかを判断する際には、以下に留意しなければならない。具体的な一個の研究を取り上げた場合、その研究の過程で発せられる問の中には、かならずといってよい程A1が含まれている。しかし、A1は問Bの型の研究においても発せられることがある――B2のコンマより前の部分に注目――点に注意しなければならない。これに対して、B1は問Aの型の研究においては発せられない。重要なのは、コンマ以下の部分も含めたA2、B2の形で検討することである。
【4】理学(Do-do?型)は、M・ウェーバーのいう「自然科学的認識」、すなわち対象の「因果規定性」に注目した見方に対応する(参照、安藤英治『マックス・ウェーバー研究』(未来社・一九六五年)、一四三〜一四四、一七四、一七七頁)。これはまた、T・クーンの言うパラダイムが成立する学問研究に対応する(Thomas S. Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions, 2nd ed. (Chicago: University of Chicago Press, 1970))。さらにそれは、D・ウォルドウの言う「ディシプリン」すなわち単一の理論によって一体性を与えられている学問(Dwight Waldo, "Scope of the Theory of Public Administration," in James C. Charlesworth, ed., Theory and Practice of Public Administration, Monograph #8 of the American Academy of Political and Social Science (October, 1968), p. 10)に当たる。
工学(Don't-should?型)は、ウェーバーのいう「歴史的認識」すなわち対象の「歴史的意味」(対象が人々の価値意識に対して持つ価値関係)に注目しての見方に対応する(参照、安藤同上)。これはまた、クーンが、パラダイムが成立する学問研究から除外した「学問外的な社会的必要を主たる存在理由とする、医学、工学(technology)、法律学などの分野」(Kuhn, op. cit., p. 19)に対応する。さらにそれは、ウォルドウの言う「プロフェッション」、単一の社会的目的によって一体性を与えられている学問(Waldo, ibid.)に当たる。
【5】学問と実生活のかかわり方の実態に注目し、その類型化を試みようとする場合には、自然科学と社会科学の区分にこだわる必要はない。
この区分は考察の対象が社会に現われる現象か否かの区別(参照、『哲学事典』(平凡社・昭和四六年)、五八一頁右)に基づいている。ところで、この区分の基礎となるもの――同一類型内のものの間には共通に見られ、異なる類型の間ではその共通性が見られない特徴――は、研究対象それ自体の特徴でも、研究方法の特徴でもあり得ないように思われる。社会科学の特徴は研究対象となる現象の一回起性にあると言われることがあるが、自然科学でも気象学、地球物理学などの対象は明らかに一回起性のものとして捉えられている。また、社会科学の特徴として実験の難しさが指摘されることがあるが、その点でも気象学、地球物理学などは社会科学の同類である。このような点に関しては、自然科学と社会科学の違いは程度の問題と理解するのが妥当であろう。
では、なにがこの区別の基礎であろうか。それは両者の研究対象に対する人々の意味づけの違いのように思われる。端的にいえば、人間を神が作りたもうた特別の被造物だとするキリスト教文化の影響がなければあり得ない区別ではなかろうか。(See Landau, op. cit., pp. 15-17.)仏教思想の影響が濃い日本文化の下ではむしろ馴染みの薄い発想であったはずである。(参照、鈴木孝夫『ことばと文化』(岩波書店・一九七三年)、第二章。)
c 問題解決の意図をもつ知的活動はどこから生まれてくるか
問題解決のための議論は、人がその生活環境とかかわりをもつ中で、つぎのようにして生まれてくる。
人は生活する中で環境との接触をもち、環境についての「眺め」(参照、沢田允茂『認識の風景』(岩波書店・一九七五年))を持つようになる。人間の知識・学問は、この眺めをなんらかの動機に基づいて組織化したものである。環境の眺めはちょうど観光地図のようなもので、そこには二種類の異なった「書き込み」がしてある(参照、沢田同上、一四七頁の地図の比喩)。それはつぎの二つである。
@環境のモノ(事実)としての情報=眺めているモノは既知のどの範疇に属するモノであるか、それは特定の時点においてどのような状態になっているか、その状態の変化はどのような原因によって生じるか、などの問に対する答としての知識――「原因→結果」の関係についての知識――の素材となる。観光地図の比喩でいえば、湖の位置や山の高さ、村落と村落の間の距離などの情報がそれである。
A環境に対する人の生活反応=眺めているモノは「生きる」上での障害(不都合)になってはいないか、それはどういう意味で障害になっているのか、それは放置できない(行動を起こし事態を改善する必要がある)ほど深刻な障害か、などの問に対する答――モノに対して「目的←手段」の関係から付与される「価値の色づけ」――がその内容である。観光地図の比喩でいえば、路面の状況に基づく運転上の注意事項、新緑・紅葉が美しいなどの観光案内などがそれにあたる。
環境の風景には、この二つの要素が、つねに「重ね合わせ(二重写し)」になって存在している。
人が「生きる」ことには、かならず、環境に対するこの「価値の色づけ」*の行為がともなう。逆のいい方をすれば、この色づけを行なわずして人は生きることができない。私たちの知識の中には、このAの要素に動機づけられて環境の眺めの組織化を行なう知識がある。これが、研究の動機として「問題解決の意図」をもつ学問つまり「工学」である。これに対して、@の要素についての関心が動機となって環境の眺めの組織化が行なわれると、研究の動機に問題解決の意図がない「理学」が生まれる。
*一般的にいえば、「価値」とは、ある対象が持つ「特定の目的を実現するための手段となりうるか否か」の観点から判断される性質のことである。「良い(値値が高い)」というのはその目的の実現に役立つことである。「悪い(価値が低い)」というのはその目的の実現の妨げになることである。このように、価値は特定の目的の関数として捉えなければならない。(参照、沢田『認識の風景』、一四四〜一四七頁。)
もし、目的の実現が問題に対して答を出すことであるとすれば、価値は、すでに詳しく論じた問題の種別に対応して、いくつかに分けて考えることができる。すなわち、それぞれの種類の問題に対応する答とそれを求める努力は、それぞれの場面(文脈)での目的に対する、それなりの価値を持っていることになる。DNAの成り立ちを解明し、生物再生産の仕組みを理論化することは、科学的探求の目的から「価値ある」ものと言える。また、クイズに正解を出すことは、物当ての観点から「良し」と評価される。
しかし、本稿でいう価値は「人が欲求を満足な形で充足させながら生きようとする場面」で心に抱く目的の関数である価値に限定している。本節b問Bの"should"は、当然この意味での価値すなわち「好都合」(convenient)、「生きるという文脈での特定の目的の実現に適った」という意味である。
d 問題解決を意図する学問の構成
問題解決を意図する学問(工学、Don't-should?型)では価値の議論と事実の分析とが密接に関連して研究活動を構成している。そこでは、社会科学者がよく言う「価値と事実の峻別」や「価値判断排除」の要請(参照、『哲学事典』、二四三〜二四四頁、『政治学事典』(平凡社・昭和二九年)、一六六〜一六七頁)が存在する余地はない。
イ 価値論と事実分析の結びつき
問題解決を意図する学問は、究極的には、障害(不都合)なく「生きる」こと、障害があればそれを除去することを目指している。その目的を実現するためには、ここでの研究活動は、つぎの二つの問のいずれにも答を出さなければならない。
@「価値」に関する問=「目標」の設定
〃環境(モノ)はどういう状態であれば望ましいのか。〃 …Q1b
〃その状態が望ましいというのはどういう根拠によるのか。〃 …Q1a
A「事実」に関する問=目標を実現する「手立て」の解明
〃望ましいとされる状態(モノ)が生起する因果の条件はなにか。〃 …Q2
この双方に満足のいく答を出さなければ、人は「うまく」生きることができない。なぜならば、@を欠けば、なにが生きる上での障害になっているか、障害の克服のためにどの方向に向かって行動を起こせばよいかが分らなく、Aを欠けば、行動の方向は分っても、その方向に行くために環境(モノ)にどう働き掛けたらよいかが分らないからである。したがって、「生きる」すなわち問題解決の観点からは、この双方――@の価値論とAの事実分析――が組織的に関連づけられ、それぞれ充分に解明されてはじめて知識として完全なものになる、ということができる。
ロ 事実分析の手順
問題解決を意図する学問では研究活動はDon't-should?型の問から始まる。これにより、考察の対象となる事実は、特定の「生きる」文脈で価値の色づけがなされたモノ、その文脈で「評価の対象、行動の目標」となったモノとして捉えられることになる。価値論と事実分析の組織的な結びつきを可能にするのは、事実のこのような捉え方である。考察の対象をこのように捉えることは、環境をモノとして論じながら、同時に、それについて「生きる」上での「望ましさ・望ましくなさ」、事態の改善の方途を論ずることを可能にする。
以上に述べたことは、実際の研究の過程ではつぎのようにして実現される。研究が、実生活の場で生じる障害や不都合の除去、問題の解決への関心を動機として始まった場合、研究者がある「事実」に着目する、いいかえればその事実を研究対象として取り上げるのは、そもそも、彼が特定の「価値」の実現に関心を持っているからである。すなわち、はじめに彼が関心を持つのはある価値の高低である。その彼がその事実に関心を示すのは、その価値の高低がその事実の状態の変化に対応すると考えるからである。そこでは、低い価値に対応する状態は「不都合な(問題をはらんだ)」状態、高い価値に対応する状態は「不都合が除去された(問題が解決した)」状態と考えられている。
このように、私たちの実生活の場では価値と事実は「二重写し」になっており、そもそも価値と事実を峻別することは不可能である。生活の場面から価値判断を排除しては、人は生きることができない。したがって、科学的研究といえども、研究対象とする事実への着目(発見の文脈の問題)はかならずなんらかの価値によって動機づけられており、決して価値中立的ではありえない。(参照、A2とB2のコンマ以下。)
問題解決を意図する学問(工学、Don't-should?型)においては、研究者は、事実の分析に入る前に、自分の関心事である特定の価値の高低がどのような状態の変化(事実)に対応するのかを検討し、そのような事実を研究対象――正確にいえば被説明変数――に据えるという手順をとる。このようにして着目された事実を分析し、それに関する法則的知識を入手する過程(妥当化の文脈の問題)については、工学と、問題解決の意図をもたない理学の間に違いはない。
e 問題解決の過程における研究と実務
工学は、問題を解決し「うまく」生きようとする私たちの意欲に動機づけられている。この意欲を最終的に満足させるものは、人が障害(不都合)なく「生きる」ことができる状態を作り出すことであり、そのためには、生活の場面から実際に障害が除去されることが必要になる。この実際に障害を除去する作業はいわば「実務」と呼ぶことができる。これに対して、実務に活用される知識を準備する過程は「研究」と呼ぶことができる。
実務と研究は、このように、一つの社会的な文脈の中で相互に関連するものとして位置づけられている。しかし、それらが別々の過程として、別個の人々によって担われることは可能であるし、実際そのような仕事の分担が行なわれている。私が本稿で「工学」と呼ぶのは、この意味での「研究」の過程である。
実際に障害を除去する作業も含めた問題解決の全過程は、a、望ましいと評価されしたがってその実現が望まれる状態――障害が除去された状態――の特定、b、その状態を被説明変数が一定の値をとったものとして記述し得る法則の特定、c、被説明変数がその値をとる場合の説明変数の値に対応する具体的な事実(条件)の特定、d、その条件を実際に造り出すための施策の実行、の一連の仕事からなる。以上で「研究」と呼んだ過程は、〔a〕目標の設定(Q1a、Q1b)、〔b〕問題解決を目指しての法則的知識の入手(Q2)、〔c、d〕実際に障害を除去する作業の実験的試みの過程のことである。「実務」とは、bの作業により必要な法則的知識がすでに入手済みの場合の、a、c、dの作業のことである。
実際の問題解決の過程では、研究と実務とを截然と分けることが不可能な場合もある。実務の途中で、必要な法則的知識が欠けていることが明らかになり、bの作業をそこで開始せざるを得ない場合も多い。研究が引き続いて実際の障害の除去に移って行くことも、おおいにあり得ることである。しかし、実務と研究は、つぎの点において明確に区別しておくことができる。
研究=研究の過程では、問題解決のための法則的知識の入手が行なわれる。法則的知識とは、諸変数間に見られる一般的な関係についての知識であり、変数が特定の値をとったものに当たる個々の事例を直接記述するものではない。したがって、ここで研究者が関心をもつのは、ある価値の高低、ある障害の発生と消滅であり、それに対応すると考えられる事象の状態の変化の型である。いいかえれば、研究者は、ここでは、被説明変数として捉えられた特定の事象と他の諸事象(説明変数)との間に存在すると考えられる「一般的な関数関係」を、その変域の全体にわたって解明しようとする。問題解決を目指して法則的知識を入手しようとする場合には、問題の障害の発生と消滅に対応すると考えられる事象を被説明変数として取り上げることが必要であるが、その被説明変数がどの値をとることが望ましいかについての判断つまり「価値判断」をする必要はまったくない。
実務=実務の過程では、実際に障害を除去する作業が行なわれる。そのためには、実現すべき特定の状態、障害が除去された望ましい状態が、行動の目標として確定される必要がある。つまり、研究の法則的知識入手の過程では不必要とされた「価値判断」が、ここでは行なわれなければならない。この過程で実務家が関心をもつのは、「被説明変数が特定の値をとったものに当たる具体的な状態と、被説明変数がその値をとるための具体的な条件(事実)」である。したがって、実務家の関心は、基本的には、被説明変数の、その値を含んだ狭い変域だけに限られる。
二 工学と政治学は同種のものであること
研究活動を開始する動機が、実生活に生じてくる不都合(問題)の除去(解決)にあるか否かに注目して学問を類型化すれば、いわゆる工学と伝統的な政治学は同じ類型に属する同種のものである、ということができる。機械工学をはじめ、大学の工学部・理工学部で研究・教育が行なわれている各種の工学が、本稿でいう「工学」――Don't should?型の問を発し、問題解決を意図する学問――であることはいうまでもない。
以下本節では、伝統的な政治学がいかなる意味において「工学」であるのかを明らかにして、いわゆる工学と政治学が基本的には同種のものであることを示してみる。
a 政治学の歴史
政治学は、古典ギリシアのプラトン、アリストテレスから始まるといわれる。その二〇〇〇年を越す学問の歴史の中に、大別すると三種類の政治学が存在している。
もっとも早く現われ、今日もその命脈を保っているのは、「政治哲学」と呼ばれる型の政治学である。このあと、ヨーロッパ近世の市民社会の成立後、「政治制度論」と呼ばれる型の政治学が現われた。さらに、一九世紀後半以降の大衆社会の出現に刺激されて、政治現象を科学的に分析しようとする「政治(の)科学」が出現することになる。
第二次大戦後のアメリカで、いわゆる科学哲学の影響を強く受けて発達し、一九六〇年代にアメリカ政治学の主流になったといわれる「行動論的政治学」は、政治の科学の典型である。これは一節で明らかにした学問の区分に従えば、永い政治学の伝統の中では例外であり、理学型の学問だというのが当たっている。どういう点でそれが理学だといえるのか、なぜそれが例外の形で発達したのかを明らかにすることは、別の機会に譲る。しかし、それが理由で一九六〇年代の後半に、「この型の政治学は今日社会が悩んでいる実際問題の解決に何の役にも立たない」との批判が激しく噴出した事実は指摘しておく必要がある。(参照、根岸毅「政治学の社会的関連性と学問的一体性」(『法学研究』第四七巻第二号)。)
ここで私がいわゆる工学と同種だとする政治学は、永い政治学の歴史の大部分を占める政治哲学と政治制度論のことである。
b 政治哲学
本稿では、「工学」の特色をその研究の動機に問題解決の意図がある点に求めている。いいかえれば、研究が問題解決の意図に動機づけられていれば、その研究は「工学」であるということになる。「哲学」と名づけられた政治学は、まさに、そのような動機から出発した知的作業であった。
政治学の歴史をひもとき、政治哲学の著作が著わされた動機に光をあてて見ると、それが政治の実践と深く関わっていることが分かる。その典型的な例は、J・ロックが一六九〇年に発表した『国政二論』である。
この著書が著わされた背景には、つぎのような政治上の一大変事があった。一七世紀のヨーロッパは、王権神授説に基づく絶対王政が政治の形態として通例の時代であった。その最中の一六八八年、イギリス国民はみずからの手で国王の首のすげ換えを行なった。これがいわゆる名誉革命である。ロックは、名誉革命以前のジェイムズ二世の治世を「困った(不都合な)状態」、革命によってもたらされた新たな政治状況を「望ましい(不都合が除去された)状態」として捉えていた。彼の著作の意図(動機)は、イギリス国民の、不都合を除去し、望ましい状態を作り出そうとする、この「問題解決」の努力を正当化し、擁護しようというところにあった。(J・ロック(鵜飼信成訳)『市民政府論』(岩波書店・昭和四三年)、二四五〜二四六頁。これは『国政二論』の第二論文である。【1】)
これが動機であったから、この著書ではつぎの点の論証が試みられることになった。
論証点@《国家の必要性と目的》結論=国家すなわち政府は、特定の目的の実現のために、一定の役割を果たす(仕事を実行する)ように作られた道具である。その目的の実現が人間生活に不可欠だという意味で、国家は人間生活に不可欠である。←論証=各人が自分の事件に関する審判者である状態(自然状態)では、各人の「生命自由および資産」が充分に保全されるかどうか心もとない。それを確実にするのには、公知で実効性のある共通の審判者が必要になる。国家はこの共通の審判者の役割を果たすものとして作られた。(ロック『市民政府論』、一九、九一〜九二、一三九、一○○、一二七頁。)
論証点A《国家の形態》結論=道具としての国家は様々な形に作ることができるが、その目的を実現するためには一定の形に作ることが望ましい。←論証=国家すなわち政府の形態の善し悪しは、その目的に対する適合性(合目的性)により判断される。(ロック同上、一四○〜一四一、一五一頁。)たとえば、絶対君主政は国家の形態としては好ましいものとはいえない。なぜならば、それは、君主と人民の間で生ずる争いに関して訴えるべき共通の審判者がいない状態(ロック同上、九一〜九二頁)、人民にとっては私的救済もできない状態(ロック同上、九三頁)、つまり通常の自然状態より「一層悪い状態」(ロック同上、一四○、九三頁)であるからである。
この例から分かるように、政治哲学は、政治思想家が、自分の生活していた国家そして国家一般について、こうなればよい、こうしたいと思っていたところから生まれている。結局これは、人が自分の生活環境の一部について、「それには現在こういう不都合がある、それはこうなれば『よい』、それをこう『したい』」と考える思考の一種である、ということができる。その種の思考が国家を対象にして行なわれたものが政治哲学である。こう捉えると、政治の「哲学」は、その名称の堅苦しさにもかかわらず、きわめて身近な、だれもが行なっている日常的な議論のひとつであることが分かる。
つまり、一般的にいえば、それは、〃a、考察対象のモノを保有することが必要であることを示し、b、どうせ保有するのならばそのモノを可能な限り望ましい状態に維持したいという立場から、どういう状態が望ましいかを、またなぜそれが望ましいかを指摘し、c、その状態を行動を起こして実現すべきことを呼びかける議論〃である。政治哲学では、この種の議論が政府の意味での国家をめぐって行なわれている、ということができる。またそこでは、国家は、人間がある目的の達成のために作った道具、いいかえれば装置・仕組み・仕掛け【2】として捉えられており、人間の働き掛けでその出来具合いを変え得るものとして考えられている。(たとえば、J・J・ルソー『社会契約論』(岩波書店・昭和二九年)、一二五頁。)つまり、日頃私たちはさまざまな装置を対象として思考を巡らし、生活の向上に努めているが、政治哲学ではそれが国家という装置を対象になされている、と考えることができる。
これはまさに問題解決のための議論である。政治哲学はまさしく一個の「工学」であるといえよう。政治哲学は、同じ問題解決のための諸学問(工学)の間に見られる分業によって、「国家(=政府)という社会的な装置に関わる不都合」の研究をその分担の範囲にしている「工学」である、と特徴づけることができる。
【1】その他の例。プラトン=シラキュサのディオニュシオス一世の力を借りて、みずからの理想とする国家を実現しようとした。マキャベリ『君主論』=イタリアの政治的混乱を救うには賢く強い君主の出現が不可欠だとして、その君主の条件を論じた。T・ホッブズ『リヴァイアサン』=この著書の内容がいつの日にか「主権者」の手に入り、その人の手で「じっさいにおける効用に転じる」ことを願っていた。
【2】英語では、装置(a device)はつぎのように説明される。"[A] piece of equipment or a mechanism designed to serve a special purpose or perform a special function" (Webster's Seventh New Collegiate Dictionary, p. 227.)
c 政治制度論
政治制度論は、政治哲学が行なっていた価値についての議論から離れ、国家の機構や制度を事実として記述し始めたもの、その意味で政治の哲学と科学の橋渡しをしたもの、と理解されている。しかし、この理解は、事実を正しく捉えてはいない。それは、政治制度論の特徴をつぶさに検討してみれば分かる。(以下については、参照、根岸毅「行政学と比較の方法」(辻清明他編『行政学講座 1 行政の理論』(東京大学出版会・一九七六年)、二六八〜二七一頁。)
制度論の研究対象の特徴としては局地性と形式性があげられる。@局地性とは、制度論が取り上げて記述しようとしたもの(研究対象)が、主として欧米の民主主義国の制度に限られていたということである。A形式性とは、制度論が文書の形で残る法制度の分析はしても、政治過程の実態の分析はしなかったということである。
制度論の研究方法の特徴としては個別性と規範性があげられる。B個別性とは、研究が事例研究の形で行なわれ、二つ以上の事例を扱う場合でも、個別の事例研究が列挙されているのみで、一般化は試みられなかったということである。C規範性とは、研究の目的が理想的な政治制度の提示や、現在の政治制度の改善方法を示すことにあったということである。
これらの特徴のうち@BCは政治制度論を生み出した動機から説明することができる。
制度論は、現状に不都合があり、それをどうにかしなければならないとする動機から生まれた研究であった。それは、現状の改善の指針やヒントになると思われる手本を外国に探し、それを「見本例(または反面教師)」として紹介したものである。いいかえればそれは、政治の「組織と活動に関して『理想』もしくは『改善』を示すことを目的とする」もので、「研究の基本的な姿勢は、理想的な見本例の探求と、克服すべき困難・障害や解決すべき問題の確認」にあった。(参照、根岸「行政学と比較の方法」、二七○頁。)
見本例の記述であったからそれは事例研究的・個別的であった。見本例を探した結果、好ましいとされたもの(民主制)が西欧世界にしか見出されなかったので、研究対象の範囲が限定され、局地性を帯びることになった。
制度論は、たしかに、積極的な価値の主張をしなかった。しかし、これが手本だとして見本例を示すことは、消極的ではあるが立派に価値の主張である。また、制度論がたんに「事実の記述」をしていた――価値論から離れて事実としての政治制度を客観的に記述することに専心した――とするのは正しくない。価値の議論はかならずなんらかの事実に言及(refer)せざるを得ない。「価値」論は、問題とする価値の高低に対応する「事実」に言及することで、間主観的な伝達の可能性をもつことができる。制度論は、「価値があると考えられた事実」を記述していたのであって、事実に言及することを通して価値を論じていたということができる。
このように、政治制度論の特徴は、Aを除く他のすべてが問題解決の意図から生まれていることが分かる。研究の動機に問題解決の意図があるかないかに注目すれば、政治制度論は、政治哲学と同じ立派な「工学」であるということができる。
三 政治学に欠けるもの、工学に欠けるもの
前節で明らかにしたように、伝統的な政治学――政治哲学と政治制度論――も、その研究活動を開始する動機が「実生活に生じてくる不都合(問題)の除去(解決)」にあるという意味で、本稿でいう「工学」である。しかし、常識的には、いわゆる工学と政治学とが同種のものだとは考えられていない。それは、第一に、本稿のように自然科学・社会科学の区別にこだわらずに、問題解決の意図の有無に基づいて学問区分を行なうことが一般的ではないこと、第二に、両者が一見あまりにも違い過ぎるからである。
第一の点については、これまでの二節でその区分の意味するもの、その区分を行なうことの必要性、それに基づく両者の同種性を明らかにしてきたので、これ以上論ずる必要はないであろう。本節では、第二の点すなわち両者の相違をどう理解したらよいかについて考えてみよう。結論から先にいえば、両者の違いは、それぞれが、本稿でいう「工学」として持つべき属性――「望ましい工学」の条件――に異なる点で欠けるところから生じている、と考えることができる。
いわゆる工学も、伝統的な政治学も、その研究を開始する動機は明らかに問題解決にある。これは、そのいずれもが「工学」の定義を満たしていることを意味する。この点に疑いはない。両者の相違は、両者の、「工学」の定義としての属性以外の属性にある。この種の属性は、「工学」の下位類型――「工学」間の分業――を確定する定義としての属性であったり、「工学」の好ましさを表現する属性であったり、その他の属性であったりする。(参照、藤本隆志「価値の認識と論理」(岩崎・沢田・永井編『講座 現代哲学入門 4 現代の価値論と倫理』(有信堂・昭和四四年))、六六〜七八頁。)私は、問題の相違は、この第二のものに関わる違いから生じていると考えている。
一節dのイで論じたように、「工学」には、それが人が「うまく」生きるための〃良い〃道具であるためには欠かせない基本的な条件がある。それは、価値論――目標の設定――と事実分析――目標を実現する手立ての解明――とが組織的に関連づけられ、ともに満足な形で行なわれることである。いわゆる工学も、伝統的な政治学も、この基本的な条件すなわち「望ましい工学」の条件を満足に備えているとは思われない。その備え方、いいかえればその備わっていない部分が、両者の間で異なるのである。
a 問題解決の道具としての政治学の欠陥
上に述べた価値論とは、まずそれについて価値の高低――障害(不都合)の存在と不存在――を論じようとする対象を確定し、それについて価値に関わる問――「対象はどういう状態であることが望ましいか(Q1b)」、「なぜその状態が望ましいのか(Q1a)」――を発し、答を求めるものである。伝統的な政治学の場合、この対象は国家(=政府)であった。【1】
この点に関して、伝統的な政治学は、古典ギリシアの時代から継続して真剣な努力を払って来ている。(得られた答が充分に満足のいくものであったかどうかは、ここで問う必要はない。)
これに対して、「工学」が備えるべきもう一つの条件――Q1aとQ1bによって確定された目標を実現する手立てを解明するための事実の分析――に関しては、伝統的な政治学はまったく不満足なものであった。すなわち、「その望ましい状態はどういう条件を整えてやれば生起させうるか(Q2)」の解明を、伝統的な政治学はほぼ完全に怠って来た。
伝統的な政治学は、そのもともとの意図、「問題解決を意図する学問」としての目的からすれば、不完全なものといわざるを得ない。政治哲学が関心を払ったのはQ1aとQ1bであり、Q2にはまったくといってよいほど関心を払わなかった。政治哲学が批判されなければならないとすれば、それはこの点であった。また、政治制度論の特徴の一つが形式性にあったことは、それが、法制度に言及することでQ1bに答えようとするものであったことを示す。しかし一方で、その特徴は、制度論が現実の政治過程の分析を怠っていたことを示している。制度論は、問題解決のための議論として答えるべき問のQ1bにしか注意を払わなかったという意味で、政治哲学以上に不完全なものであった。
【1】政治学における国家の定義は、もともと、この意味での対象――なにについて価値を論じたいか――を確定する働きをするものであった。ところが、問題解決の動機を失った「行動論的政治学」では、国家の定義がこの働きを失い、国家の定義自体がないがしろにされている。
b いわゆる工学に欠けるもの
機械工学をはじめいわゆる工学は、本稿でいう「工学」として備えるべき条件に、伝統的な政治学とは逆の形で欠けているように思われる。
工学の真骨頂が発揮されているのは、設定された目標をいかにして実現するかの手立てを解明する局面である。この事実分析の素晴らしさについては、本稿との関係ではこれ以上なにも述べる必要はない。問題は価値論の局面にあると思われる。この点に関しては、工学は、伝統的な政治学から学ぶべきところがあるのではないだろうか。(ちょうど、政治学が逆の意味でいわゆる工学から学ぶべき点が多々あるように。)
事実分析によって対象が生起する因果の条件を解明し、法則的知識を入手することは、人が、分析対象となった事象を操作する能力を手に入れるということである。たとえば、物理学でさえも、それを「物質の世界を記述するための学問だと考える〔のは〕誤りである。・・・・〔その〕方程式は・・・運動一般を制御することができるように設けられた諸概念を適切に数学的に位置づけ関連をしめすことによって、個々の運動を制御することができる原則をしめしている」、と考えられる(沢田『認識の風景』、一五一〜一五二頁)。科学的な事実分析の発展は、人に、欲すれば開ける可能性の世界(選択肢=alternatives)を広げてくれる。人が環境に操作を加え、作り出すことが理論上可能な物や状態の範囲を拡大してくれる。しかも、その拡大に比例して、人の操作、人の作り出すものがもたらす影響は広範かつ重大になっている。しかし、事実分析それ自体は、人に、その可能性のどれを取るべきか、どれを避けるべきかは、どんな物や状態を作り出したらよいか、どれは止めた方がよいかは教えてくれない。したがって、科学的研究が進展すればするほど、開けた可能性の「好ましい」選択についての緻密な考察が必要になる。いわゆる工学に欠けるものが顕になるのは、ここにおいてである。
「工学」としての政治学の課題は、政治学が〃その価値の高低について論じようとするもの、すなわち、社会的な装置としての国家(=政府)の必要性を確認する〃ところから始まる。政府が、人間の作り出したもの(装置)であるとすれば、それを保有するかしないかは、私たちに開かれた選択肢であるからである。
もし、政府が人間生活に必要でないことが明らかならば、私たちは政府を保有しなければよい。そうすれば、政府が存在することから生じる一切の不都合は、はじめから発生しないからである。また、もし、政府の存在になにがしかの必要性が認められたとしても、政府が人間生活に不可欠というわけではなく、その存在から得られる利便以上に、その存在から生じる不都合が大きければ、政府を保有しないことが私たちの利益になる。
この観点から政府の存在に疑問を呈する議論は、政治学において「無政府主義」という名称で展開されて来た。これに対して、政府の不可欠性を認め、より好ましい政府のあり方を論じようとする者は、ちょうどロックがやったように、ある目的の実現が人間生活に不可欠であるとともに妥当なものであること、その実現のためにはある仕事の実行が必要なこと、その仕事は政府のみが実行することを、まず論証しなければならなかった。
この種の議論は、いわゆる工学の中ではどう位置づけられているのであろうか。たとえば、原子力発電所建設の可否の問題はこの一例である。それを論ずることは工学の範囲に含まれない、というのが答であるとすれば、その発想自体が、いわゆる工学の「工学」としての問題性を示していることになる。【2】
政治学のつぎの課題は、〃その必要性が確認された政府に実行させるべき仕事の範囲について、それがどうあるベきかを示し、そうであることがいかなる根拠から正当化されるかを論証する〃ことである。政府が、人間の作り出したもの(装置)であるとすれば、それにどの範囲の仕事を実行させるかは、私たちに開かれた選択肢であるからである。
「福祉国家論」や「最小国家論」など政府の守備範囲に関する議論は、この問題の検討を行なっているということができる。ここでは、第一の課題の検討の中で正当化される、政府の特定の目的を前提にして、政府の守備範囲が特定されることになる。政府の役割に関する、社会主義的国家観とレーガンやサッチャーの政府観の対立は、この問題の具体的な現われである。
いわゆる工学自体は、たとえば時速五○○kmでの走行が可能なリニア・モーター・カーの開発と関連して、乗物一般の速度のあるべき上限について考察をめぐらしたことがあったであろうか。そもそもコンピュータに実行させるべきではない仕事の種類を検討したことがあったであろうか。この種の問題の検討が、社会のどこにおいてもまったく行なわれていないとは言わない。たとえば、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』はその好例である。問題は、それが、いわゆる工学とは組織的に関連づけられていないところでしか行なわれない点にある。【3】
政治学の価値論の残された課題は、〃第二の課題の検討の中で確定される範囲の仕事を実行する装置としての具体的な個々の政府に、いかなる仕様を与えるのが望ましいか、その根拠はなにかを論証する〃問題である。(仕様とは、実行する仕事の内容、その仕事を実行するための造り、装置の使い方等の詳細のことである。)政府が、人間の作り出したもの(装置)であるとすれば、その仕様をどうするかは、私たちに開かれた選択肢であるからである。
これは、「理想国家論」や政治制度論という形で、政治学においてもっとも広範に議論されてきた問題である。政府の仕事はさまざまな造り(形態)の政府によって実行されることが可能である。その中の特定の形態――たとえば、政治的意思決定に関する民主政とか専制政、公務員の任用に関する情実主義とか成績主義――は、一定の状況においては、他の形態よりも相対的に好ましい結果を人間の生活にもたらすはずである。ロックによる民主政の擁護は、この観点から行なわれたものであった。
この種の問題の検討は、企業内の商品生産の現場で市場の動向を見ながら行なわれる、特定商品の仕様の決定と似ているところがある。しかし、この決定は、政治学における国家をめぐる論議と同列に論ずることはできない。
それは、第一に、特定商品の仕様の決定が、多くの場合、企業活動の採算性の観点からのみ行なわれ、上に述べた第一と第二の課題で検討されるべき、同種のもの一般に関わる価値の検討――そもそもその種の装置は人間の生活に必要であるのか、必要だとすればなにがその存在を許容する条件かについての考察――が欠けているからである。採算性は、人が生きていく上で満足させるべき条件(価値)の一つではある。しかし、それがすべてではないことは言うまでもない。この種の価値の検討は全人的でなければならない。
さらに、この決定は企業活動の一環として行なわれるのであって、いわゆる工学自体には、可能な複数の仕様の中からどれを選択するか、選択すべきか、その根拠はなにかについての組織だった研究が欠けていることが多いように見受けられる。
以上を一般的にいえば、いわゆる工学それ自体には、それが本稿でいう「工学」であるためには実行しなくてはならない作業、「人間がその環境に働き掛けを行ない、特定の装置を作り出したり、特定の状態を確保することの必要性と妥当性の確認」が多くの場合欠けている、ということができるのではないだろうか。【4】
【2】いわゆる工学の範囲にこの種の議論が含まれるということは、たとえば原子力発電の研究者のすべてが、原子力発電所建設の可否についての学術論文を書かなくてはならない、ということを意味するものではない。それは、「工学」の間で対象領域の分担――たとえば機械工学と政治学の間での分業――があるように、同一対象を研究する者の間にも分業――たとえば価値論と事実分析――がありうるからである。しかし、それが分業である以上、価値論を行なう者は事実分析の成果を踏まえて論を展開し、事実分析は価値論の成果を熟知して行なわれる必要がある。
【3】いわゆる工学の研究者がこの種の問題の検討をまったく行なっていないということはない。たとえば、ジョセフ・ワイゼンバウム(秋葉忠利訳)『コンピュータ・パワー』(サイマル出版会・一九七九年)は、その好例である。問題は、この種の議論がいわゆる工学の不可欠の一部として認知されていないところにある。(この点に関しては、慶應義塾大学理工学部専任講師永田守男氏からお教えをいただいた。)
【4】いわゆる工学に価値論を持ち込むことは収拾のつかない意見の対立を工学内にもたらすとして、本稿の趣旨に懸念を表明する向きもあろう。現に政治哲学はそのような状況にある。
しかし、人が「うまく」生きるためには、なんらかの形での価値論がそもそも不可欠である。私たちの生活に不可欠なものは、たとえそれが「収拾のつかない意見の対立」という厄介なものを伴っても、放置しておくことは出来ない。
いくつかの選択肢の間での選択が個々人の判断にまかされ、そのやり直しが容易に行なえる場面では、工学としての組織だった価値論はかならずしも必要ではないかも知れない。試行錯誤に基づく生活の知恵がその役を果たすからである。しかし、その選択が個人の意思では容易にやり直せない場面や、取り返しのつかない結果を生む可能性のある選択の場面では、工学としての組織だった価値論の展開が不可欠だと思われる。たとえば、装置としての政府や、社会システムの中枢に据えられたコンピュータの問題は、個人の意思では容易にやり直すことのできない選択の典型である。また、取り返しのつかない結果を生む可能性のある選択の例としては、原子力発電所建設の問題がある。しかもこのような選択の場面はしだいに増加している。取り扱いが厄介でも放置できない価値論の必要性はますます大きくなっている。
ところで、対立(論争)は事実分析にもつきものである。そこでの意見の対立が厭われないのは、その整序の方法が確立しているからである。価値論に求められるのは、それに適した対立整序の方法を確立することであろう。その方法によって整序できる対立の範囲がどこまでかを確認する必要があろう。これは、政治哲学にも等しく求められていることである。
おわりに
問題解決の意図をもつ知的活動すなわち「工学」が、そもそもいかに「うまく」生きるかという基本的な生活関心から生まれたとすれば、「工学」がその観点から十全なものであるか否かは、人が生きていく上で決定的に重要である。以上において本稿は、「工学」の特徴と構造を論理的に明らかにするとともに、いわゆる工学と伝統的な政治学という、ともに「工学」でありながら、「望ましい工学」としての属性に異なる点で欠けるものを対比させることによって、「工学」のあるべき姿を描き出そうとした。
問題解決の観点から伝統的な政治学について評価できるところは、その価値論である。その問題点は、価値論により設定した行動の目標を、現実社会の条件の下で実際に実現する際の具体的な手立てについては、実効性のある考察(事実分析)がなされなかった点である。いわゆる工学は、この後者に関しては充分な努力を払ってきた。すなわち、事実として人間に開かれた可能性、選択肢にはどのようなものがあるか、それはどのような条件を作ってやれば実現可能かの問題は、おどろく程の速さ、深さ、広さで解明して来た。しかし、いわゆる工学の問題点は、逆に、政治学が優れる価値の検証である。
「工学」が十全なものであるためには、この両者の優れている部分が組織的に関連づけられなければならない。伝統的な政治学はいわゆる工学から、いわゆる工学は伝統的な政治学から、互いに多くを学び取らなければならない。
(本稿は、昭和六○年四月一日に行なった、日本機械学会第六二期通常総会での特別講演の内容に、若干の加筆訂正を加えたものである。)
記:このファイルでは、本文中の英文の問について、初出の印刷物に手を加えてある。
Copyright (C) 1985 by NEGISHI, Takeshi
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《「工学に欠けるもの、政治学に欠けるもの」終わり》