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著者:
根岸毅(ねぎし・たけし)
慶應義塾大学名誉教授・政治学専攻
 
 
出典:
慶應義塾大学法学研究会『法学研究』第65巻第1号、1992年1月、119-140ページ。
このファイルとこの雑誌論文の間には、註の付け方などに若干の違いがあります。
Copyright (C) 1992 by NEGISHI, Takeshi
 
 
               民主主義の価値の論証
             「進歩」と「やり直しの機会」
 
                  根岸 毅
 
      一 はじめに
      二 「民主主義」と「やり直しの機会」と「進歩」の関係
      三 「進歩」と「やり直しの機会」
       イ 「進歩」の普遍的な価値
       ロ 「進歩」の要素
       ハ 「進歩」の必要条件としての「やり直しの機会」
       ニ 自分の「やり直しの機会」と他人の「やり直しの機会」
      四 まとめ
 
 
  一 はじめに
 
 かつて私は、「民主主義」の明晰な定式化を試みたことがある。そこで私は、民主主義を国家という社会的な装置の設計思想の一つと捉え、その要点がつぎの二つであることを示した。すなわち、民主主義は、「国家という社会的な装置を作る際に、@その装置が実行する『仕事の対象』となる人々(国民)の可能なかぎり大きな部分を同時にその『使い手』(有権者)とし、Aその使い手にはその装置を使ううえでの試行錯誤の機会を最大限に保障しようとする立場」である。一般的にいえば、これは装置の使い勝手の問題である。つまり、民主主義では、装置の使い勝手を高めるために、装置の使い手に「やり直しがきく程度のやり損じは当然あるものとして、それが生じた場合の軌道修正の機構をはじめから組みこんだ仕組」を作ろうというのである。【1】
 その際、つぎの二つの点を詳細に論ずることが、課題として残されていた。
 第一は、「国家」を一つの社会的な装置として明確に特定し、それとの関連で、その装置の「使い手」、装置が実行する「仕事の対象」を明確に規定することであった。この点に関する議論は、根岸毅『政治学と国家』(慶應通信・一九九〇年)のなかで十分な回答を用意することができたと考えている。
 第二は、使い手の「やり直しの機会」【2】の拡充の観点から規定した民主主義が、なぜに望ましいかの根拠を、より詳細に論証することであった。本稿で論ずるのはこの問題である。
 
 
  二 「民主主義」と「やり直しの機会」と「進歩」の関係
 
 民主主義、すなわち「国家の『仕事の対象』となる人々の可能なかぎり大きな部分【3】を同時にその『使い手』とし、使い手の人々がその装置を使う際に可能なかぎり大きな『やり直しの機会』を持てるようにする仕組」の価値は、どこに由来するのであろうか。私は、その起源が「進歩」にあると考えている。
 「進歩」には、それに固有の(他に淵源をもたない)、普遍的な(だれもが承認する)価値が認められる。その進歩を可能ならしめる必要条件の一つが「やり直しの機会が存在すること」である。その意味で、進歩に認められる普遍的な価値がやり直しの機会にも認められることになる。ところで、「民主主義」は、社会的な装置としての国家に、それを使うことのやり直しを可能ならしめる仕組を組み込もうという国家の設計思想である。この関連から、「まとめ」で詳しく論ずる論理の筋道をへて、やり直しの機会に認められる普遍的な価値が、また民主主義にも認められることになる。
 以下では、自分にとっての効用のみを基礎にして、民主主義の価値の論証を試みる。いいかえれば、他の条件が同じならばそうであることはだれにとっても有利だ――そうである方がそうでないよりは良い――という事から、民主主義のすべての構成要素を導き出すことができる、というのが本稿が試みる議論である。
 
 
  三 「進歩」と「やり直しの機会」
 
   イ 「進歩」の普遍的な価値
 ふつう私たちは、人々の価値判断はまちまちであり、全員一致は稀有の例外であると考えている。具体的な価値判断の内容に関していうかぎり、これはたしかに正しい。しかし、思考の論理形式上、普遍的に価値が認められる――他の条件にして等しければそれが望ましいことはだれもが肯定する――ものが存在することもまた事実である。「進歩」は、そのようなものの一つである。
 「進歩」は、「物事が次第によい方、また望ましい方に進み行くこと」【4】と定義される。この進歩に関して人々の意見が分かれるのは、具体的になにをもって「進歩」と見做すか――進歩と判断される対象――が論じられるときである。【5】 物事がどの方向に進み行けば「よい」または「望ましい」といえるかに関して、意見の一致が期待できないからである。それにもかかわらず、「進歩は望ましくない」と言う者はいない。「物事がよい方向に進み行くこと」は、すべての人によって肯定される。その意味で、進歩には普遍的な価値があるということができる。
 
   ロ 「進歩」の要素
 「進歩」は「ある物事の状態が好ましい方向へ変化すること」を指す。詳論すれば、進歩は、つぎの二つの要素、すなわち事実の要素と価値の要素から構成されている。
 
   (1)事実の要素
 「変化」とは、なんらかの原因により、時間的に先行する状態とは異なる状態が生じることである。したがって、ある物事に「進歩が見られた」とすれば、その物事に関して、なんらかの原因で、時間的に先行する状態とは異なる状態が生じたことになる。
 この変化が「進歩」と呼ばれるためには、それを生ぜしめた原因に、人間の行為が関与していなければならない。たとえば、工場排水で汚染された川の水が台風の豪雨で洗い流され、その川の水質に改善が見られた場合、私たちはそれを「事態の好転」とはいっても、「そこに進歩が見られた」とはいわない。それは、その変化が人間の行為によってもたらされたものではないからである。ただし、これは、後に「進歩」と呼ばれる変化が、はじめは人為がまったく関与しないところで生じたものである可能性を排除しない。たとえば、大豆が醗酵してできる納豆や、牛乳が醗酵してできるチーズの始まりは、おそらく天然に生じた大豆や牛乳の醗酵を人がたまたま見つけたことにあろう。それが「食生活の進歩」にまでなったのは、人がその天然の現象を人為で再現させたからである。
 この「状態変化の人為による再現」とは、「人がある結果が生じることを願って行動を起こした」以上のことを意味する。たとえば、打撃の上達を願って練習に励んだ野球の選手がまぐれで本塁打を打っても、私たちは「彼の打撃に進歩が見られた」とはいわない。なぜならば、その結果が彼によって望まれたものであることは明らかでも、彼がそれを意図して再現することができないからである。ところが、その選手が、まぐれの本塁打の経験から本塁打の打ち方を学び、それによってつぎの打席から本塁打を量産しはじめれば、彼の打撃は進歩したといわれることになる。再現の術を知らない最初の本塁打には進歩は認められず、その術を知ってからの本塁打には進歩が認められることになる。したがって、人がそれを再現する術を知っており、それを活用して意図的に生ぜしめた変化でなければ、「進歩」があったということはできない。【6】
 ところで、人間の行為は、行為者が、複数の選択肢のなかから一つを選択し、それを実行に移すという過程を経て行なわれる。この選択肢は、一定の行動の手順(手段)とそれを実行に移せば得られると考えられる結果の状態(目的)をその内容とする。「人がそれを再現する術を活用して、ある状態変化を意図的に生ぜしめた」というのは、その人が、@ある選択肢が示す行動の手順を実行に移せばその状態変化が生じることを知っており、Aその状態変化を実現しようという意図の下にその選択肢を選び、かつ、Bその行動の手順を現実に実行に移したことを意味する。
 以上から、つぎのようにいうことができる。ある変化が「進歩」と呼ばれるためには、「ある選択肢が示す行動の手順を実行に移せばその状態変化が生じることを知っている人(A)が、その状態変化を実現しようとしてその選択肢を選択し、それを実行に移した結果、ある物事に、時間的に先行する状態とは異なる状態が生じた」という「事実」の要素が存在する必要がある。
 この場合の「人」は、一人の個人であっても、複数の人々であっても構わない。後者の場合、変化の原因となる行動は集団行動の形をとる。そこでは、ある選択肢が示す因果の連関を知っている(@)がゆえにその選択肢を選択する(A)作業と、その選択肢が示す行動の手順を実行に移す(B)作業は、その集団のなかの異なる人々に分担して実行される、つまり別々に実行されることが可能である。
 
   (2)価値の要素
 ある物事に関して、以上の意味での状態の変化が生じたというだけでは、「進歩」が私たちの話題に登ることはない。そのような変化が「進歩」と呼ばれるためには、くわえてそこに、「人(B)が、その変化後の状態を変化前の状態と比べてより好ましいと評価する」という「価値」の要素が存在する必要がある。
 そもそも人が行なう選択は、複数の選択肢のなかから「もっとも好ましい」結果をもたらすと考えるものを選び出す行動である。したがって、以上の事実的要素としての状態の変化は、多くの場合、【7】その原因である行為の主体(A)によっては、それ以前の状態と比べてより「好ましい」ものと評価されている。その意味で、人が再現する術を活用して行動を起こし意図的に生ぜしめた変化は、多くの場合、「その行為の主体にとっては」進歩である。【8】ここではA=Bである。
 ところで、評価者(B)と問題の状態変化の原因である行為の主体(A)の関係は、A≠Bであっても構わない。というより、社会が複雑化し、分業が大規模に行なわれている現代社会では、生活の多くの局面においてこの関係がむしろ常態である。ここでは、それをもたらした行為の主体(A)にとっては進歩である状態の変化が、別の人(B)によって別個に評価されることになる。この場合、両者の評価が一致することもあれば、一致しない――Aは「好ましい」と評価し、Bは「好ましくない」すなわち「進歩ではない」と評価する――こともあり得る。
 ここから、具体的な内容に踏み込んで進歩を論ずる場合、それが「だれにとっての進歩か」を明示する必要があることが明らかになる。進歩はつねに「評価者にとっての進歩」であるにすぎない。くわえて、その評価者は「一人の個人」でなければならない。なぜならば、そもそも価値判断の具体的な内容は人によって異なるのが常態であり、本稿の冒頭で指摘したように、それは進歩に関しても当てはまるからである。その意味で、進歩はあくまでも「自分にとっての進歩」すなわち評価者個人の問題である。
 
 ところで、私たちは、「社会の進歩」という表現を用いて、進歩について論ずることがある。しかし、この種の議論は、進歩を個人の問題だとする上の主張と矛盾するものではない。「社会の進歩」という表現を用いて行なわれる進歩についての議論は、つぎのいずれかに当たる。
 その一は、「社会の進歩」という表現で、「社会が進歩する」事態が論じられる場合である。ここで論じられているのは、私たちの生活環境のうち他の人々との関わりから構成される部分すなわち「社会」の状態である。進歩論としてのこの議論の特徴は、対象をこのように特定することだけである。したがって、論じられているのは、あいかわらず、その対象に関する「自分にとっての進歩」だということができる。
 その二は、「社会の進歩」という表現で、「社会にとっての進歩」が論じられる場合である。(この「社会」の位置に「特定集団」(たとえば日本人とか労働者)が置かれた表現を用いての議論についても、以下と同じことがいえる。)もし価値判断の内容は人によってまちまちであるとするならば、これが意味するのはつぎのいずれかである。@ある具体的な状態の変化を進歩と認めるかどうかに関して、その社会(または集団)を構成する人々の意見が完全に一致した、すなわち、その人々一人ひとりの「自分にとっての進歩」がたまたますべて同じであった。Aその構成員の一部が、実際には存在しない意見の一致があたかも存在するとの虚偽の主張を行なっている。@は稀有の出来事であるから、ほとんどの場合「社会の進歩」のその二は、「自分にとっての進歩」が多くの人に受け入れられることを望む、またはその受け入れを他の人々に強制しようとする者の言葉の文にすぎない。
 以上いずれの場合においても、論じられているのは「自分にとっての進歩」であり、それ以外の「進歩」は存在しない。言葉の世界を別にすれば、「進歩」はつねに個人の問題である。
 
   ハ 「進歩」の必要条件としての「やり直しの機会」
 以上の考察から、ある個人が「自分にとっての進歩」を意図して手に入れるための必要条件として、つぎのものを挙げることができる。
 その一は、その個人が上の意味での評価者であることである。論理の問題としてはこれを指摘しておく必要があるが、現実問題としてはこの条件はつねに満たされており、これを取り立てて論ずる必要はない。なぜならば、人はつねに評価を行なって生きており、外からのいかなる強制もこれを止めることはできないからである。
 その二は、その個人が、(イ)対象の状態変化をもたらす選択肢を自分の意思で選択でき、くわえて、(ロ)その選択肢を実行に移した結果が自分の意図に反して好ましくない場合、それが「進歩」と評価できるようになるまで、何度でもその選択を「やり直す」ことができることである。【9】
 これらの条件については若干の説明が必要である。
 
 まず、(イ)について。
 この条件に欠ける場合、その変化は、その個人にとってつぎの二つの意味で偶然の産物でしかなくなり、彼が意図して進歩を手に入れることは不可能となる。(ただし、この場合でも、他の特別の条件――たとえば、つぎの項において市場経済との関連で論じるもの――が満たされた場合は別である。)
 第一は、「ある物事に変化が生じたとしても、それが『進歩』である保証がない」という意味である。ある個人が、その変化を生じさせる選択肢を自分で選択することができなければ、他の特別の条件が満たされない限り、彼が進歩を手にするのは、彼の価値判断とその選択を行なった人のそれとがたまたま一致した場合のみである。この場合、他人が行なった選択の結果が「自分にとっての進歩」でもあることは、自分にとっては偶然に支配される出来事である。ここには、他人の選択の結果が「自分にとっての進歩」である保証はない。
 第二は、「ある物事に『進歩』と評価できる変化が生じることはあっても、それを自分の望むときに生じさせることができない」という意味である。ある個人が対象の状態変化をもたらす選択に関わることができなければ、他の特別の条件が満たされない限り、彼はその変化の発生の時期、場所をまったく制御することはできない。その意味ではその変化は、その個人にとって自然現象――たとえば、たまたまの大水による河川の水質の改善――となんら変わらないものである。
 したがって、意図して進歩を手に入れようとするならば、人は、対象の状態変化をもたらす選択を「自分で」行なう必要がある。
 
 つぎに、(ロ)について。
 これは、「満足な結果を実現するために(イ)を繰り返し行なう」ことを意味する。
 (イ)の意味の選択に関して「やり直しの機会」がなければ、条件に恵まれた例外的な場合を除いて、人が進歩を手に入れることは難しい。なぜならば、判断のために使える資源(能力、知識と情報、時間、資金など)には限界があることから、判断の誤りを皆無にするのは不可能であり、また、判断の基準となる価値観は移ろい易いものだからである。
 ある時点では「好ましい」と判断して選んだ選択肢が、同じ人によっても「好ましくない」と判断される結果を生む可能性はつねにある。ある時点で完璧と判断されるのみならず、時の経過が条件を変化させても改善の余地を生まないような選択肢を発見すること、さらに、一回の実行の試みで意図した通りの結果を生起させることは、一般的には不可能である。「やり直し」をせずして満足な結果が得られることは、通常の状況ではあり得ない。したがって、進歩を確実に手に入れようとするならば、人は選択に関して「やり直しの機会」をもつ必要がある。
 
 ところで、条件の(ロ)は条件の(イ)が満たされていることを含意する。したがって、これらの条件はつぎの一つに集約することができる。すなわち、進歩を意図して確実に手に入れるためには、対象の状態変化の原因となる選択肢の選択に関して「自分がやり直しの機会をもつ」ことが不可欠である。
 
   ニ 自分の「やり直しの機会」と他人の「やり直しの機会」
 では、ある個人にとっての「進歩」と他の人の「やり直しの機会」の間には、どのような関係があるであろうか。自分にとっての進歩を手に入れるには、自分だけがやり直しの機会をもっていればそれで十分であろうか。他の人がやり直しの機会をもつことは、自分の進歩にどのような効果をもたらすであろうか。
 物事は、その状態の変化が主として一個人のみの好き嫌いにかかわるもの(たとえば、個室の壁紙の色など)と、同時に複数の人々の好き嫌いにかかわるもの(たとえば、身体の安全を確保するための社会的な仕組など)に分かれる。【10】 前者については、その個人が自分の都合だけを考えて、その状態の変化の原因となる選択肢の選択を自分一人で行なうことは論理的に可能である。後者については、その状態の変化の原因となる選択肢の選択を一個人の勝手で行なうことには、他の人々の意向(好き嫌い)が制約を課すのが普通である。
 前者についても、自分の生活環境のなかのその種の部分すべてに関して、その状態の変化の原因となる選択肢の選択を自分が直接行なうことは、現実問題としては不可能である。なぜならば、個人が判断のために使える資源(能力、知識と情報、時間、資金など)にはもともと限りがあることにくわえて、社会はますます複雑化しており、だれにとっても、生活環境のこの種の部分を維持改善するために必要な活動のすべてを自分で監理することは、可能でも得策でもなくなってきているからである。
 以上の事情から、ある個人にとって物事は、その状態の変化の原因となる選択肢の選択を自分で行なえるものと、それができないものの二つに分かれることになる。そして、「他人の選択」が「自分にとっての進歩」に対して果たす役割は、物事の以上の区分にしたがって異なったものになる。
 
 はじめに、その状態の変化が主として一個人のみの好き嫌いにかかわり、したがって、その個人が自分の都合だけを考えて、その状態の変化の原因となる選択肢の選択を自分一人で行なうことが論理的には可能な物事について考えてみよう。結論をいうと、この種の物事については、人はその選択を自分で行なう。ただし、選択の行なわれ方から、それはつぎの二つに分かれる。
 その一。
 この種の物事の大きな範囲については、人は、その状態の変化の原因となる選択肢の選択を自分で「直接」行なっている。さらに、これらの物事に関しては、人は、その「やり直しの機会」をもっているので、「自分にとっての進歩」を意図して手に入れるための条件は一応整っている。ただし、事はそれで万全とはいえない。なぜならば、「自分だけのやり直し」にはつぎの点で限界があるからである。その限界とは、@一個人が考えつく選択肢の多様さは限られている、A思考実験には失敗――実際やってみたら思惑違いであった――の可能性がある、Bこのような理由から、十分に満足のいく結果が得られるまでに時間がかかる、がそれである。
 他人が「やり直しの機会」をもつことは、自分の進歩にとっての以上の問題点の克服に役立つ。それは、私たちが、「人のふり」を見て「我がふり」を直すことができるからである。つまり、他人の行為は、自分にとっての模擬実験の効果をもつ。それは、自分一人で考える場合と比べればより多様な選択肢を提供し、不確かな思考実験ではなく実際の結果を事実として示し、その結果自分の進歩の速度をそれだけ速め、確実なものとしてくれる。その効果は、他人がもつやり直しの機会が広範であればあるほど大きくなる。したがって、主として自分のみにかかわる物事に関しても、自分が良質の【11】進歩を手に入れるためには、他人が可能な限り広範なやり直しの機会をもつことが不可欠となる。
 その二。
 現代社会の複雑化は、その状態の変化が主として一個人のみの好き嫌いにかかわり、したがって、その個人が自分の都合だけを考えて、その状態の変化の原因となる選択肢の選択を直接自分一人で行なうことが論理的には可能な物事についても、自分の意思で他人にその選択を委ねる場合を増加させている。人々は、それが得策だと考えている。いいかえれば、社会は、商品生産を通じて分業の利益を追求する方向に変化してきている。
 この場合、その選択を委ねる側(消費者)が委ねられる側(生産者)の行為を監理できる範囲は限られている。注文に基づいて生産される財やサービスの場合はまだしも、商品生産の大きな部分を占める市場生産の場合は、消費者は生産活動を「事前に」監理することはできない。前項で明らかにしたように、進歩を意図して確実に手に入れるためには、人は、物事の状態変化の原因となる選択肢の選択を自分で行ない、その結果が満足のいくものでなければその選択をやり直すことが必要である。ところが、消費者(自分)と生産者(他人)のこのような関係においては、消費者にとってこの条件は十分には満たされることがない。
 しかしながら、市場経済の下では、よい商品、消費者に受け入れられる商品が、現に次々と生産されている。これは、生産者の選択の結果に対する消費者の評価が、商品を買う買わないの形で「事後的に」ではあるが生産者に伝達され、生産者によるつぎの回の生産活動が「消費者のより大きな満足を求めてのやり直し」として行なわれるからである。消費者(自分)の選択は、生産者(他人)の選択にこのようにして「間接的に」反映される。【12】しかも、消費者の意向に沿うようにやり直しを行なうことは生産者の利益でもあるので、消費者の選択がこのように間接的ではあっても反映されることは、この仕組のなかで保証されている。もし消費者(自分)の意向を受けての生産者(他人)のやり直しがなければ、消費者が事態の好転を手に入れるのは偶然の賜物でしかない。
 以上から、私たちの生活環境のこの種の部分に関しては、自分の進歩にとって、他人が「自分のより大きな満足を求めて行なうやり直しの機会」は不可欠の条件ということができる。【13】
 
 では、その状態の変化が同時に複数の人々の好き嫌いにかかわり、したがって、その状態の変化の原因となる選択肢の選択を一個人の勝手で行なうことには、他の人々の意向(好き嫌い)が制約を課すのが普通である物事(たとえば、身体の安全を確保するための社会的な仕組など)についてはどうであろうか。この制約は、@その選択を自分で行なえる場合でも、一定の手続きを踏み、一定の立場に就いてはじめてそれが可能になるとか、Aその選択を自分以外の人が行なうことを、自分の意思に反して認めさせられる、という形で現われる。
 この種の物事に状態の変化を生じさせる選択肢の選択と「自分」の関係、その自分にとっての「他人」は、つぎのように類型化できる。
 第一は、@自分でその選択が行なえる場合である。【14】この自分に対する「他人」(自分以外の人)には、自分と同じ立場(@)にある他の人々と、自分とは異なる立場(以下のA)にある人々が含まれる。しかし、前者は、選択肢の案出と選択に関して自分と同じ機会をもち、同じ行動をとる人々であるから、ここの議論においては「自分」に含めて考えてよい。したがって、ここでの「他人」は以下のAの立場にある人々のことを指す。
 第二は、A自分ではその選択が行なえない場合である。【15】この自分に対する「他人」には、自分と同じ立場(A)にある他の人々と、自分とは異なる立場(@)にある人々が含まれる。
 その一。
 まず、第一の、自分で選択が行なえる場合には、「自分にとっての進歩」を意図して手に入れるための条件は一応整う。そこでは、人は、状態の変化の原因となる選択肢の選択を自分で行ない、その結果が満足のいくものでなければ選択をやり直すことができるからである。しかし、すでに指摘した通り、「自分だけのやり直し」にはつねに限界があり、他人の活動は、自分にとっての模擬実験として、この限界を克服するのに役立つ可能性をもっている。
 この場合の「他人(A)」は、選択肢の選択を行なう立場から排除されている。そうであっても、彼らには選択肢の提示を行なうことはできる。(現実には、これさえも否定されることがあるが。)この活動には、選択肢を開発する研究活動と、開発された選択肢を広めるための教育と宣伝の活動が含まれる。通常、この人々は同質性をもたないから、開発され、提示される選択肢は多様なものとなる。同じく、彼らによって行なわれる思考実験も多様性を示すことになる。自分(@)にとって、この人々のこの種の活動とそのやり直しの機会を制限することは、自分が選択を行なう際に検討の対象にできる選択肢の幅を制限し、より好ましい物事を、より短い時間で、より確実に手に入れる可能性をみずからに否定することを意味する。この効果は、他人がもつやり直しの機会が広範であればあるほど大きくなる。したがって、自分がいわば「権力の座にある」場合でも、自分が良質の進歩を手に入れるためには、他人が可能な限り広範なやり直しの機会をもつことが不可欠となる。
 その二。
 つぎに、第二の、自分では選択が行なえない場合には、人は「自分にとっての進歩」を意図して手に入れる条件に恵まれていない。そもそも商品生産の場合とは異なり、自分のこの立場は、自分の意思でそれが得策だと判断し、選択肢の選択を他人に委ねた結果手に入れたものではない。さらに、選択を行なう立場にある他人(@)には、通常、その選択に「自分の意向」を反映させようとする動機がない。もし彼らが「選択から排除している人々(自分)のより大きな満足を求めて」選択のやり直しを行なうことに利益を見出だすのであれば、その人々を選択から排除する必要ははじめからないからである。【16】このように、この状況の下では、選択を行なう立場にある他人(@)の選択のやり直しは自分にとっての進歩と必然の関係にはなく、事態の好転は偶然の賜物でしかない。
 さらに、自分と同じく、選択が行なえる立場にない他の人々(A)の活動(選択肢の開発と提示)は、以上の「その一」で指摘した効果を自分に対してももつが、自分がいかなる意味においても選択肢の選択にかかわれない以上、この効果を論ずることには意味がない。
 
 以上の考察から、つぎのように言うことができる。
 ある物事に変化をもたらす原因となる選択肢の選択を自分自身で行なうか否かを問わず、その物事に関して「自分にとっての進歩」が達成されるには、その物事に変化をもたらす原因となる選択肢の選択を行なう者――自分自身でも他人でも構わない――が、「自分のより大きな満足を求めて選択をやり直す」ことが不可欠の条件である。「進歩」の条件としての「やり直しの機会」は、この意味でのそれでなければならない。
 その選択を行なう者が「自分」である場合、自分にとっての進歩が達成されるためには、自分が、自分のより大きな満足を求めて選択のやり直しを行なう必要がある。これは、他人からの強制がなければ、かならず満たされる条件である。【17】また、そもそも「自分だけのやり直し」には提示される選択肢の幅が限られるなどの限界があることから、人が良質の進歩を手に入れるためには、「自分」がいわば「権力の座にある」場合でさえ、他人が可能な限り広範なやり直しの機会をもつことは不可欠の条件となる。
 物事に変化をもたらす原因となる選択肢の選択を行なう者が「他人」である場合、自分にとっての進歩が達成されるためには、他人の行なう選択のやり直しが「自分のより大きな満足を求めてのやり直し」となる必要がある。この条件が満たされることを保証するためには、「自分」の意向を反映させようとする誘因が「他人」に対しては働かない社会的な仕組を積極的に排除し、「自分」の意向を反映させることが「他人」にとっても最大の利益をもたらす社会的な仕組を意識的に作り上げる必要がある。ただし、その場合でも、自分の意向が他人の選択に反映するのは間接的であり、自分にとっての進歩の達成は、それだけ不確実で時間のかかるものとなる可能性がある。
 
 
  四 まとめ
 
 本稿の目的は、民主主義の価値を論証することである。その論証は、つぎに示す論理の筋道をへて成り立つ。
 ここでいう民主主義とは、西欧政治思想の伝統にいうそれ、すなわち政治の方法の意味での民主主義、たとえば「共同社会意思、または比喩なしにいえば社会秩序が、これに服従するもの、すなわち国民によって創造せられる一つの国家・あるいは社会・形式」【18】と規定されるそれである。かつて、私はこの同じ民主主義を、国家という社会的な装置を設計する際の一つの立場、すなわち、@装置の「使い手」の範囲に「仕事の対象」のできるだけ広い範囲を含める、A使い手が装置を使うという行為においてできるだけ広範に「やり直し」が行なえるようにする立場であると規定した。
 この意味での民主主義の価値は、A使い手に「やり直し」が行なえることになぜ価値があるのか、および、@やり直しに価値があるとしても、なぜ自分以外の者にまでそれを認める必要があるのか、の二点に分けて論証する必要がある。その答は、「進歩」の価値とそれを実現するための条件に関する考察から得られる。つまり、「民主主義の価値は進歩の価値に由来する」というのが本稿の主張である。
 
 「進歩」は「物事がよい方向に進み行くこと」を意味する。この事態は、すべての人によって肯定される。いいかえれば、進歩には普遍的な価値が認められる。
 進歩は、「ある選択肢が示す行動の手順を実行に移せばある状態の変化が生じることを知っている人(A)が、その状態変化を実現しようとしてその選択肢を選択し、それを実行に移した結果、ある物事に、時間的に先行する状態とは異なる状態が生じた」という事実としての要素と、「人(B)が、その変化後の状態を変化前の状態と比べてより好ましいと評価する」という価値の要素から構成されている。このAとBの関係は、A=Bであっても、A≠Bであっても構わないが、進歩はあくまでも「自分(評価者B)にとっての進歩」すなわち評価者個人の問題である。
 ある個人が「自分にとっての進歩」を意図して確実に手に入れようとするならば、彼は、他の特別の条件(これについては以下に論ずる)が満たされない限り、(イ)対象の状態変化をもたらす選択肢の選択を「自分で」行ない、(ロ)その選択肢を実行に移した結果が自分の意図に反して好ましくない場合、それが進歩と評価できるようになるまで、その選択を何度でも「やり直す」必要がある。条件の(イ)は条件の(ロ)に含意されるから、人が自分にとっての進歩を意図して確実に手に入れるためには、対象の状態変化の原因となる選択肢の選択に関して、「自分がやり直しの機会をもつ」ことが不可欠の条件となる。このことから、「自分のやり直しの機会」にも、進歩がもつ普遍的な価値が認められることになる。
 
 民主主義を構成する要素のAは、社会的な装置である国家を使う場面でのやり直しの機会を、それを可能とする仕組を作ることで、その使い手の立場にある人々に保証することである。その意味で、民主主義のこの要素にも、やり直しの機会がもつ普遍的な価値が認められることになる。
 しかし、これには、国家を使うことを通して得られる「自分にとっての進歩」を「自分が」意図して確実に手に入れるためには、国家に実行させる仕事に関して、「自分で」選択肢の選択を行なう必要がある、ということ以上の意味はない。いいかえれば、それは、自分にとっての進歩の確保のために、自分以外の人(他人)にも同じやり直しの機会を認める必要があるということは含意していない。(選択肢の選択の場面では、自分と同じ選択肢を選択する他人は自分と同じと考えてよいから、ここでいう他人は、別の選択肢を選択しようとする人々のことを指す。)つまり、この論理は、独裁制は正当化し得ても、民主主義を構成する要素の@を正当化するものではない。そこで、他人のやり直しの機会が自分の進歩に対してもつ効果の解明が必要となる。
 民主主義の構成要素の@にかかわるのは、他人が自分とは別の選択肢を選択しようとする場合、このような人々をどう扱ったらよいかという問題である。このような他人がやり直しの機会をもつことは、「自分だけのやり直し」がもつ限界――一個人が考えつく選択肢には限りがあることなど――の克服に役立つ可能性がある。その効果は、他人がもつやり直しの機会が広範であればあるほど大きくなる。したがって、自分は選択を行なえる立場にある――いわば「権力の座にある」――場合でも、自分がより好ましい物事を、より短い時間で、より確実に手に入れるためには、他人が可能な限り広範なやり直しの機会をもつことが不可欠となる。
 「物事がよい方向に進み行くこと」が是認されれば、それがこの意味でより良質となることもまた是認されるはずである。したがって、国家を使うことを通して得られる自分の進歩をより良質のものとするために、民主主義の構成要素の@を国家の仕組に付け加えることにも、また普遍的な価値があるといわなければならない。【19】
 
 以上により、本稿にいう民主主義が普遍的な価値をもつ――他の条件にして等しければそれが望ましいことはだれもが肯定する――ことが論証できた。
 
 ところで、選択はつねに選択者本人の満足を求めて行なわれるが、条件さえ整えば、他人が行なう選択が同時に「自分のより大きな満足を求めて」の選択となる場合がある。この場合の他人の選択は、自分が直接行なう選択に比べればより不確実で時間はかかるが、自分にとっての進歩の達成に役立つものとなる。上に「他の特別の条件」として指摘したのはこれである。
 社会が複雑化し、分業が一般化する現代にあっては、自分の好き嫌いにかかわる状態変化のすべてに関して、直接自分で選択肢の選択を行なうことは、可能でも、得策でもない。選択の一部は他人に任さざるを得ない。したがって、この種の物事についても自分が意図して確実に進歩を手に入れようとするならば、他人の選択が「自分のより大きな満足を求めて」行なわれるように仕向ける必要がある。そのためには、「自分」の意向を反映させようとする誘因が「他人」に対しては働かない社会的な仕組を積極的に排除し、「自分」の意向を反映させることが「他人」にとっても最大の利益をもたらす社会的な仕組【20】を意識的に作り上げる必要がある。【21】
 
 
      註
 
 【1】いいかえれば、「装置を使ってみた結果が好ましくなければ、何度でもやり直しをしてよい結果を手に入れるのがよい。人はだれでもかならず間違いをしでかすものだから、そうなった場合の軌道修正のために、はじめからやり直しの機構を組み込んでおこう」というのがこの立場の基本的な考え方である。民主主義は、このやり直しの機会を国民の一部だけではなく、すべてに与えるのが望ましいとする。参照、根岸毅「政治における試行錯誤の機会――もうひとつの民主主義論」(石川忠雄教授還暦記念論文集編集委員会編『現代中国と世界――その政治的展開』慶應通信・一九八二年)、八〇六〜八〇七ページ。本稿での言葉遣いは初出のものを多少変えてある。
 【2】「政治における試行錯誤の機会」では「試行錯誤」の観念を議論の中心にすえたが、本稿では「やり直し(redo)」という観念を重視する。「試行錯誤」は行為の反復性そのものに力点があるのに対し、「やり直し」は行為の反復を通してよりよいものを求める意思に力点がある。
 【3】民主主義の理想は、仕事の対象である人々の「すべて」を使い手とすることにある。しかし、現実問題としては、たとえば人間の判断能力の生物学的成熟に時間がかかる事実などから、使い手の範囲からある程度の範囲の人々が排除されざるを得ない。
 【4】新村出編『広辞苑[第三版]』岩波書店・一九八三年。英語の名詞の"progress"は"gradual betterment"と、また、動詞の "progress" は "to develop to a higher, better, or more advanced stage: make continual improvements" と説明されている(Webster's Third New International Dictionary)。
 【5】「進歩」をめぐる思想史上の論争は、人々がなにをもって進歩と考えるかの争いである。たとえば、十八世紀ヨーロッパの進歩論は、理性とそれにもとづく科学の発展に着目して進歩を論じた。しかし、科学技術には手放しでは礼讃できない産物(たとえば火砲)があることが認識され、また、ヨーロッパ進歩論の基礎にある非ヨーロッパ圏に対するヨーロッパ優越の確信が問題視されるとき、この進歩論そのものが揺らぐことになる。(参照、徳永恂編『社会思想史「進歩」とは何か』弘文堂・昭和五五年。)人々――たとえば、サン・ピエール、チュルゴ、コンドルセ、ベイコン、コント、マルクス、ウエーバー、シュミット、マルクーゼ、アドルノ、徳富蘇峰、内村鑑三など――が進歩と考えたものがいかに多様であったかについては、同書の各章を参照のこと。
 【6】進歩は人を主語としても語られる。たとえば、「彼の打撃に進歩が見られた」という代わりに、「打撃で彼は進歩した」ということができる。ただし、この場合には、かならずなにに関しての進歩かが明示される必要がある。人を主語として語られる進歩は、物事の状態の変化としての進歩を、それを生じさせる人の能力の変化に着目して論じたもので、第一義的な意味での進歩はあくまでも物事の状態の変化にある。
 【7】これが「つねに」ではないのは、たとえばあらたに他者からの強制が加わったなどの状況の変化により、手元のもっとも好ましい選択肢を実行に移しても、以前の状態より悪い状態しか実現できない場合があり得るからである。
 【8】厳密にいえば、ある状態の変化がその原因である行為の主体によって進歩と評価されるのは、彼によって選択が行なわれた時点においてである。選択された選択肢が実行に移され、いくばくかの時間の経過ののちその行為の結果が実際に生じた時、彼がその結果をどのように評価するかは確定できない。まして、さらに時間が経過した将来の時点においては、彼の評価が覆ることは当然にあり得る。
 【9】すでに「(1)事実の要素」の項で指摘したように、進歩を達成するためには、それを実行に移せばある状態の変化が生起することを知ってその選択肢を選択する作業と、その選択肢を実行に移す作業が行なわれる必要がある。この二つの作業は同一の主体によって行なわれる必要はかならずしもないが、実際に行なわれる実行の作業はなんらかの選択の作業によってかならず監理されている。本文では、実行の作業を現実に監理している選択の作業に言及すればその実行の作業は特定できることを前提として、選択の作業のみに言及して議論を進めることにする。つまり、本文中にいう選択とは、選択の権限の形式的所在にかかわらず、実際に行なわれる実行の作業を現に監理している選択の作業のことを指す。
 【10】厳密な意味で「一個人のみの好き嫌いにかかわる」物事は少ない。本文中の例にあげた個室の壁紙の色にしても、家全体の色の調和の観点から、一家の主が無関心ではいられない場合も多い。ここの議論では、「他の人が積極的に好き嫌いを申し立てはしない」物事を想定することで十分である。
 【11】「良質」とは、進歩と判断される物事の好ましさが向上し、そのような変化がより短時間で、より確実に手に入るという意味である。
 【12】商品を買う買わないの選択が消費者の自由意思に任されている状況がなければ、ある商品が購入されたという事実は、ここでいう「消費者の選択」を意味しない。この状況とは「競争」の状況である。したがって、市場経済においても独占状況の下でや、原則として消費者に商品選択の自由がない計画経済の下では、進歩のための選択の機会が消費者には存在しないといえる。
 【13】消費者(自分)の意向とは無関係に行なわれる生産者(他人)のやり直しも、消費者にとってはすでに指摘した模擬実験の意味をもつ。しかし、消費者が自分で選択肢の選択を行なえない以上、生産者が消費者の意向を体してやり直しを行なわない限り、それは消費者にとっての進歩に対してはなんら積極的な意味をもたない。
 【14】これは、つぎのいずれかの場合である。@A 関係者の全部にその選択への参加の機会が認められている状況で、(1)全員の意見が一致する場合、または、(2)自分が支配的な立場にある(a少数派でも実権を握っている側に属している、または、b多数決の下での多数派に属している)場合。@B 関係者の一部のみにその選択への参加の機会が認められており、かつ自分がその一部に含まれる状況で、(1)その全員の意見が一致する場合、または、(2)自分が支配的な立場にある(a少数派でも実権を握っている側に属している、または、b多数決の下での多数派に属している)場合。
 【15】これは、つぎのいずれかの場合である。AA 関係者の全部にその選択への参加の機会が認められている状況で、自分が支配的な立場にない(a多数派でも実権を握っていない側に属している、または、b多数決の下での少数派に属している)場合。AB 関係者の一部のみにその選択への参加の機会が認められており、かつ自分がその一部に含まれる状況で、自分が支配的な立場にない(a多数派でも実権を握っていない側に属している、または、b多数決の下での少数派に属している)場合。AC 関係者の一部にはその選択への参加の機会が認められているが、自分はその一部に含まれない場合。
 【16】自分以外の人に選択の機会を与えない最大の理由は、自分がよしとする選択肢が選択されない状況をあらかじめ排除することである。したがって、選択肢の選択において自分と同じ行動をとることが確実な人々に、その機会を与えないよう画策する理由はない。
 【17】他人からの強制があろうがなかろうが、人はつねに、自分の手元にある複数の選択肢のなかから最大の満足を与えてくれるものを選択する。強制とは、被強制者が自分に最大の満足をもたらすとしてある選択肢を選択すると、それが強制者の望む結果をもたらすように、強制者が被強制者の手元にある選択肢を操作することである。(参照、田中宏「合理的選択と政治理論」(『法学研究』第五八巻第一〇号)。)この操作された後の最良の選択肢は、ある物事に関してその現状よりも悪い状態を、被強制者にもたらすことがある。
 【18】H・ケルゼン(西島芳二訳)『デモクラシーの本質と価値』岩波書店・昭和四一年、四四ページ。
 【19】この方法をとると、自分一人では考えつかない「良質」の選択肢が手に入る可能性がある。しかし同時に、自分が「選択できない立場」に立つ可能性も生まれる。この損得については、稿を改めて考察することにするが、現時点では以下を指摘しておく。
 この方法によってより良質の選択肢が手に入る可能性があること、自分自身の価値判断の基準が状況の変化、時間の経過とともに移ろうこと、国家に実行させる仕事が多岐に亙ることを前提とすれば、自分の選択がある問題に関していま否定されても、他の諸問題に関する決定も考慮に入れ、かつ、長期的に損得を均してみれば、この方法をとる方がより大きな満足をもたらすものと考えられる。
 【20】そのような社会的な仕組として、市場経済と選挙があげられる。ただし、市場経済においても、独占状態が存在すると、消費者(自分)の選択が生産者(他人)の行動をうまく制御できないので、独占の排除、競争状態の確保が必要である。同様に、選挙についても、投票者(自分)の選択が議員(他人)の行動をうまく制御できないさまざまな要因を排除する必要がある。
 【21】一九九一年八月ソ連にクーデターが起こり、まだその失敗が見えなかった時期にテレビのインタヴューに答えたモスクワの婦人が、「誰が権力の座につこうと、暮らしさえよくなればよい」という趣旨の発言を行なっていた。しかし、自分では選択ができず、くわえて、権力の座にある者の選択が同時に「自分のより大きな満足を求めて」の選択となる保証がない状況では、彼女にとっての暮らし向きの改善は偶然の賜物であり、自分の制御の効かない自然現象と大差がない。
 
                         (一九九一年八月三一日脱稿)
 
 
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《「民主主義の価値の論証」終わり》