原理主義と民主主義 [要旨]
I 9.11事件が政治学に提起した問
9.11事件は、暴力の正当化について対立する二つの立場があることを露にした。また、それは、人の行動様式に、目的の実現のためには「他の手段が尽きた場合にはかならず暴力的手段に訴える」それと、「例えば正当防衛の場合を除いては決して暴力的手段に訴えようとしない」それがあることを示している。この違いは、行動様式の基礎にある思考方法の違いから生まれる。事件は前者の思考方法をとる人びとが起こし、それに対抗するために結集した人びとは後者の思考方法をとっていると捉えると、事件当事者の言動を可能な限り論理的矛盾を少なくして理解することができる。前者の思考方法は「原理主義」、後者のそれは「再行主義」と呼ぶことにする。
私は、この事件は理論的にはつぎの問を提起していると考える。すなわち、「9.11暴力事件を生みだす思考方法としての原理主義と、それに対抗して結集した人びとの思考方法としての再行主義のいずれが優れているか」、さらに、この問への答が政治の場面で意味するものはなにか、がそれである。
この論文が探るのはこの理論的な問への答であり、特定の紛争の解決のための具体策、特定の行動の適否、支持不支持の判断ではない。
II 概念の説明
[この章の内容は、以下各章の必要な箇所において、個々に説明する。]
III 原理主義の思考方法
「原理主義」とは、「ある原理を無謬のものとして前提に置き、それが指し示す特定の具体的な生き方、活動の仕方のみを肯定し、それを否定したり、それに疑問を投げかけたりすることをいっさい認めない」思考方法を言う。
その生き方、活動の仕方のみを肯定する状態を実現するためには、それを否定したり、それに疑問をもったりする人の態度を変えさせ、それを受け容れるようにし向けること、つまり強制力の行使が必要となる。原理主義がよしとする状態を受け容れない人たちは、すべての人が無条件で受け容れるべきものを受け容れないのであるから、他の手段を尽くしてもそれが聞き入れられない場合には、暴力的手段を用いてもその受け容れを強要することが正当かつ必要と考えられる。
この考え方が政治の仕組みづくりに用いられると、政治上の原理主義――具体的には、独裁政治、専制政治、絶対主義――となる。そこでは、特定の個人または集団が無謬だと信じる原理が指し示す内容の活動を政府に行なわせることが必要とされる。そのために、強制力を行使してそれを受け容れる人びと(例えば特定政党員)のみに有権者を限ったり、有権者の範囲を拡大する場合も、その政府活動を受け容れるよう人びとに対して強制力を行使することが正当かつ必要とされ、実際、しばしば強制力(その最終的な形態としての暴力)が行使される。
以上のように、原理主義の思考方法では、他の手段が尽きた場合にはかならず暴力の行使が、正当かつ必要な手段として採用されることになる。
IV 再行主義の思考方法
「再行主義」の思考方法を採ると、人はつぎのように考える。
生きるとは繰り返し繰り返し選択を行なうこと、ボクシングに準えていえば、継続的なラウンドでの選択の繰り返しである。ここで、人は「物事が次第によい方に進み行くこと」、いいかえれば「前のラウンドでの選択より、いまのラウンドでの選択の方が『好ましい』と判断できる」状態の実現を求めて選択を行なう。「進歩」は、この状態として定義できる。具体的にどのような状態を進歩とみなすかは、人により、時と場所により異なるのがふつうである。しかし、このように定義される進歩は、論理的には、「すべての人がよしとして受け容れる性質」(普遍的価値)をもっているということができる。
ところで、だれであろうと「間違いを起こす可能性」は排除できない。この事実から、進歩つまり上の状態(必要に応じて「前R<後R」と表記することにする)を実現するために不可欠な条件が出てくる。それは、(1)進歩を望む本人すなわち「私」が「やり直しの機会」をもっていることと、(2)「他者」も私と同様にやり直しの機会をもっていること、が同時に満足されることである。その理由はつぎの通りである。
(1)間違いの可能性が排除できないとすれば、いまのラウンドでの選択が前のラウンドでのそれより好ましいと評価できる保証はない。間違いを正すためには、つぎのラウンドでみずから「選択のやり直し」をすることが必要である。その際、間違いが実際に正されるためには、「私」が「これを選べば間違いが正せる」と考える選択肢を選べなくするような「他者」からの働きかけ(すなわち強制)があってはならない。この、強制がない状態を「自由」という。
(2)人の思考には能力、時間、資金等から来る制約があり、一人で選択肢を考え出そうとするよりは、他者の意見や実際の生き方、活動の仕方から学んだ方が、より質の高い選択肢をより早く手に入れることが可能になる。その機会なしには、よりよい選択肢にめぐり合えないことさえある。したがって、「私」と同じやり直しの機会を「他者」にも認めることは、「私」にとって有利であり、必要でさえある。
「やり直しの機会」に関するこれら二つの条件は進歩(前R<後R)の実現に不可欠であり、進歩がもつ普遍的価値を受け継いでいる。また、自由はやり直しに不可欠の条件であり、その同じ価値を間接的に受け継いでいる。つまり、「自由の価値」は手段としてのそれであり、その起源は進歩にある。
民主主義の政治制度は、以上の考えに従って作られた政治の仕組みである。すなわち、政治の選択においても人は間違いを起こす可能性があり、それが起こってしまった場合には間違いを正すために「選択のやり直し」を行なう必要がある。民主主義は、人びとが政府活動に関しての選択でやり直しができるよう、間違いが起きる前から制度的な準備をしておこうという構想である。
その民主主義は、政府に行なわせる活動の選択の過程での進歩の確保のために不可欠の条件である。したがって、民主主義は、進歩(前R<後R)がもつ「だれもがよしとして受け容れる価値」を受け継いでいるということができる。
再行主義は、進歩すなわち「前のラウンドでの選択より、いまのラウンドでの選択の方が『好ましい』と判断できる」状態には、定義上「だれもがよしとして受け容れる価値」があるとする。したがって、その状態の実現をどんな場合にでも断固確保しようとする。そのためには、その選択が行なわれる「場」が「可能な限り、強制の要素を排除し、すべての人にやり直しの機会を確保」した形に作られる必要があると、一義的に考える。政治の場面でのこの種の場を、「民主的な意思決定の場」と呼ぶ。
この意味で、再行主義は「絶対主義」である。民主主義が相対主義だといわれるとき、この側面が見落とされている。
ところで、そのような場を実現するためには、それを阻止しようとする人びとの活動を排除する必要がある。したがって、再行主義では、「そのような場の確保のためには、他の手段が尽きた場合には、強制力の行使が正当かつ必要である」と考える。
具体的には、既存の民主的な意思決定の場の破壊を意図する攻撃の排除のための軍事行動、あらたにその種の場を作ろうとする民主化運動、既存の国家の枠組みから独立してその種の場を独自にもとうとする少数派の独立運動などの関連で用いられる暴力的手段は、理論的にはこの文脈で正当化される。(ただし、再行主義が正当化するのは、その種の場を確保する効果だけであり、暴力の行使に伴う人的、物的損害それ自体は正当とは考えない。)
選択の場についてとは対照的に、再行主義は、人びとの具体的な生き方、活動の仕方については決して判断を下さず、その選択をその人びとにまかせる。
その意味で、再行主義は「相対主義」である。民主主義が相対主義だといわれるのは、この範囲に限ってのことである。
このように、再行主義は、「絶対主義」と「相対主義」の二面をもっている。
V 原理主義と再行主義の理論的優劣関係とその政治的意味
思考方法としての再行主義を採れば、「前のラウンドでの選択より、いまのラウンドでの選択の方が『好ましい』と判断できる」状態すなわち進歩がより確実となる。原理主義に拠れば、この状態の実現は偶然の賜物にすぎなくなる。「前のラウンドでの選択より、いまのラウンドでの選択の方が『好ましい』と呼べる」可能性を開くものと閉ざすもののどちらを選ぶかと問われれば、前者を選ぶのが賢明であることは明らかである。
ところで、原理主義は一つではなく、各種ある。それらがこうあるべしとして指し示す事態は「論理的に」一つに帰すことがない。この「神々の争い」の状況に決着をつけるためには、流血を招く可能性のある暴力的手段に訴える外に手はない。
これとは対照的に、再行主義は、進歩という定義上だれもがよしとして受け容れる状態と、「人が間違う可能性」という争いえない事実を前提とし、「論理的には」だれもが受け容れざるを得ない結論を示すという構成をとる。また、人びとが「実際に」再行主義を採ると、思考の過程につぎの特徴が現われる。すなわち、他者の言動を自分の選択肢の源泉として尊重する結果、選ばれる選択肢が自分で考え出したものである場合もあれば、他者の言動から学んだものである場合もあることになる。ここに、事態を暴力の行使によらずに収拾する可能性が生まれる。
再行主義の政治上の帰結は、民主主義の政治制度である。したがって、それは、政府に行なわせる活動の選択の場面で、「前のラウンドでの選択より、いまのラウンドでの選択の方が『好ましい』と判断できる」状態すなわち進歩がもつ「だれもがよしとして受け容れる価値」を受け継いでいる。また、再行主義がもつ上に指摘した「意見の対立を流血を見ずに収める可能性」は、政治の場面でこそ大きな効果を発揮する。これと正反対の役割を果たしているのが原理主義である。
以上に示したように、思考方法としての再行主義とその政治的帰結としての民主主義は、原理主義の思考方法とその政治的帰結に優る。
VI テロリズムとは何か
「テロ」という負の価値を表わす語が納得のゆく根拠なしに使われる結果、他者の行為がもつかもしれない意義を一方的に無視し、ひいては「テロ撲滅」と称して政治的抑圧を行なう事態が生まれている。この不都合を取り除くためには、何を「テロ」と呼ぶべきかについて、納得のゆく根拠の上に合意を作る必要がある。再行主義は、この根拠を提供できる。
「テロ」とは、政治的意図をもつ暴力の行使で、「自分には容認できない」と否定的に評価されたものに貼られたラベルであり、「自分には容認できる」暴力は「テロ」とは呼ばれない。この区別に関する合意を作るには、「すべての人」がよしとして受け容れる目的を特定し、それ以外の目的の実現のために行使される暴力を「テロ」と呼べばよい。
再行主義が前提とするのは、そのような目的である。したがって、その目的の政治の場面での現われすなわち「政府活動の決定に関し、前のラウンドでの選択より、いまのラウンドでの選択の方が『好ましい』と評価できる」状態の実現のために行使される暴力以外の暴力は「テロ」と呼ぶのが適切である。
目先の利益に囚われたり、原理主義に拠ったりして、他者の立場に配慮せずに行動を起こせば、対立の発生は避けがたい。その意味で、上の不都合や紛争の発生と深刻化は、紛争当事者が再行主義の思考方法を採用しないこと、「テロ」をこのように捉えないことに根本的な原因の一つがある。したがって、紛争の当事者が思考方法を再行主義に転換することは、紛争の根本的な解決に役立つことになる。
VII 問題の論理を超える側面
本稿で扱った類の問題に関して学問にできるのは、問題の論理の筋道の解明とそれを通しての人びとの説得までである。しかし、人びとが実際にそれを受け容れ、実行に移す保証はない。そこで、人びとが再行主義を受け容れ、政治の場面で民主主義の仕組みを作り、維持するために行動を起こすよう動機づける社会的環境の整備が必要となる。
上の説得が不首尾に終わる要因の一つは、思考の不健全さ――論理性の欠如、現実を直視しない性向、特定の原理に対する盲信――にある。この要因を取り除くためには、教育、中間的共同体、家計の整備、その目的で行なわれる途上国援助、政教分離の政治制度の確立が必要である。
政治の場面での進歩すなわち「政府活動の決定に関し、前のラウンドでの選択より、いまのラウンドでの選択の方が『好ましい』と評価できる」状態の価値は、「どういう形でもいいからまず生きていること」の価値には道を譲らざるを得ない。生存に疑問符がつく状況でも、政治の場面で民主主義が実現するにこしたことはない。とすれば、それに向けての環境整備として、治安の維持と最低限の食糧の確保がはかられる必要がある。他国に対する食糧援助および治安維持のための介入は、この文脈で理解する必要がある。
民主主義の存在理由は「やり直しの機会」の確保にある。したがって、民主主義の下での多数決は、少数派の人びとに「やり直しができるよう、再起のための最低限の条件」は確保する必要がある。国内でのセイフティ・ネットの整備および途上国援助は、この文脈で理解する必要がある。
VIII 9.11事件の捉え方
9.11事件とアフガニスタンでの軍事行動は、本稿が以上に提示した枠組ではつぎのように捉えられる。
ビンラディンの主張は、彼の思考方法が原理主義のそれであると捉えると矛盾なく理解できる。本稿が提示した枠組によれば、アメリカ国民から「他者に強制されることなく意思決定が行なえる政治的環境」を奪おうとした9.11の暴力の行使は正当化できず、「テロ」と呼ぶべきものである。
ブッシュ大統領の主張は、彼の思考方法が再行主義のそれであると捉えると大筋で矛盾少なく理解できる。本稿が提示した枠組によれば、アフガニスタンでの軍事行動は、9.11の暴力的攻撃がもつ民主的な意思決定の場の破壊という効果の排除を目的として行なわれたと考えられる。したがって、それは必要でありかつ正当化でき、「テロ」と呼ぶべきものではない。ただし、これは、暴力的攻撃がもつ上の効果を排除する働きが正当化できるということであり、軍事行動に付随する人的、物的損害までを正当化するものではない。
IX イスラエル・パレスチナ紛争を解く鍵
以上に論じたのは、「私たちは、政治的意図をもつ暴力行為をどのように評価し、それにどのように対処するのが適切か」の問題である。9.11事件は、この問を強く意識させる契機であったに過ぎない。本稿が提示した理論的枠組が有用なものであるならば、その枠組でイスラエル・パレスチナ紛争の理論的整理ができ、さらにはそこからこの紛争の解決に役立つ示唆が得られるはずである。
パレスチナ側の活動は、イスラエルが貼る「テロ」のラベルにもかかわらず、「民主化運動」の一つであることが認められる必要がある。パレスチナ側が求める民主化は、イスラエルの行為によって阻まれている。したがって、その行為の排除を目的とする暴力的手段は、理論的には正当化できる。ただし、これは、その手段がもつ「すべての人が他者に強制されることのない政治的意思決定の場」を作り出す効果が正当化できるということであって、人の生命、財産に危害が及ぶことそれ自体は正当化できない。
イスラエルにとっては、パレスチナ人の「民主化運動」は、みずからがすでに手に入れた民主的な政治的意思決定の場を破壊する働きかけと捉えられる。したがって、その場の防御のために暴力的手段に訴えることは、理論的には正当である。ただし、これは、その手段がもつ「すべての人が他者に強制されることのない政治的意思決定の場」を防御する効果が正当化できるということであって、人の生命、財産に危害が及ぶことそれ自体は正当化できない。
イスラエルの行動がもたらしたものは、「ある政治的集団の既存の『民主的な政治的意思決定の場』の防御の活動が、結果として、他の集団独自の『民主的な政治的意思決定の場』の創出の障害となっている状況」として位置づけることができる。
したがって、イスラエル・パレスチナ紛争に解決をもたらす唯一の理論的な解は、「同一地域内で二つの民主的な政治的集団が共存する」ことである。
この解の実現のためには、さまざまな条件を具体的に整える必要がある。本稿は、その条件は具体的に何かの問に答を出そうとするものではない。本稿にできるのは、回りくどいかもしれないが、紛争当事者の考え方を変えることによって、紛争に抜本的な解をもたらす助けとなることである。
この解の実現のためにイスラエル側に求められるのは、思考方法を再行主義に転換し、パレスチナ側の活動を「民主化運動」と認め、それに「テロのラベル」を貼ることを止めることである。
パレスチナ側に求められるのも、思考方法を再行主義に転換し、みずからを「民主化運動」の主体と自認するとともに、みずからの運動にイスラエルの既存の「民主的な政治的意思決定の場」の存続を危うくする側面があることを認める必要がある。
このように思考方法を再行主義に転換すると、すでに指摘した(参照V)ように、事態を暴力の行使によらずに収拾する可能性が生まれる。
私が本稿で提示した理論的枠組は、イスラエル・パレスチナ紛争のもつれた糸を解きほぐし、対立する双方の行動がもつそれぞれの理論的意義を明らかにし、双方に思考方法の転換を促すことによって紛争の非暴力的かつ根本的な解決の糸口をつけることができる、という意味で有用である。
X 政治学者の責任
思考方法としての原理主義と再行主義の対決の状況は、1991年のソ連邦の崩壊の際にも意識されえたはずである。その際、大方の政治学者、社会科学者は、事実としてのソ連邦の退場をもって一つの有力な原理主義(マルクス・レーニン主義)の理論的打破がなったものと錯覚し、この問題の理論的考察を充分には行なわなかった。私たちは、重要な研究課題の一つに答を出す努力を怠ってきたことを認めなければならない。私は、これは政治学者の怠慢であり、ひいては9.11事件の責任の一半は政治学者にあると考えている。
Copyright (C) 4/26/2003 by NEGISHI, Takeshi
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