藤原ゼミOB会との交流

藤原先生とアメリカ研究    斎藤眞

 旧臘15日、研究室で藤原守胤先生御逝去の訃報に接した時、私は一瞬、四半世紀余りに及ぶ御厚情にみちた先生とのおつきあいを想い起した。1947年初めてお目にかかって以来、1973年11月お宅にうかがった時まで、決してひんぱんとは云えなかったにせよ、もし生意気な表現を許していただくならば、同学の誼の故に、個人的に、またアメリカ学会などの組織を通じて、先生に接することを許していただいた。今ここに、日本におけるアメリカ研究の先駆者としての先生の御貢献を、個人的な想い出を通しつつ、記すことによって、先生の学恩に少しでもお報いすることができればと思う。

 1947年の年の始め頃であったか、アメリカ学会設立の話がまとまりかかった頃、その発起人会のような形での打合せの集まりがもたれたことがある。終戦後一年ほどおくれて復員してきたばかりで五里霧中の私も、大学院特別研究生として、文字通りその末席をけがすことになった。その打合せ会が、確か有楽町近くのヒルの上の方の階にある立教のセント・ポール・クラブで開かれた。当時、立教大学のアメリカ研究所の所長をやっておられた藤原先生の肝煎りではなかったかと思う。敗戦直後の荒廃した東京の中では、珍しく落ちついた優雅にすら見える雰囲気であったのを覚えている。その一隅で、藤原先生に、高木八尺先生は私を紹介して下さった。あの大著『アメリカ建国史論』を通してお名前や御業績は存じ上げていた藤原先生に、私はそこで初めて個人的にお目にかかったわけである。実は、御本から何となくきつい、固い藤原守胤像を勝手につくっていた私は、実際の先生の丸やかな温顔に接し、ホッとしたことを覚えている。その後25年余り、先生のこの温顔はいささかも変わらなかった。

 アメリカ学会が1947年3月組織された時、先生は副会長に選出され、アメリカ学会の中心的存在の一人となられた。藤原先生が副会長に選ばれたのは、一つには当時日本における大学附属の唯一のアメリカ研究所の所長をやっておられたこともあずかっていよう。しかし、それ以上に、すでに戦前よりアメリカ研究の面で学問上の業績をものにされていた、アメリカ研究の先駆者としての先生を、アメリカ学会は必要としていたのである。

 藤原先生は、学生の頃慶應大学で占部百太郎先生のイギリス政治史の講義に出られ、アメリカのことにも興味をもたれ、御友人の紹介で、東大の高木八尺先生の「米国憲法・歴史及外交」(ヘボン講座)の講義に特別に出席されたと、語っておられる。その講義は、高木先生がアメリカ留学より帰られてヘボン講座を開講された最初の講義であり、1924年のことである。これが、藤原先生とアメリカ研究の出逢いといえようか。御卒業後、先生は英仏に留学され、さらに1927年2月より約3年ハーヴァード大学で学ばれた。チャニング、モリソン、シュレジンジャー(父)などからアメリカ史を学ばれ、他面エリオット、ホルコム、マッキルウェインなどの下でアメリカ政治を勉強されている。(これは全く私事で恐縮であるが、藤原先生から20年余り後に私もハーヴァードで学んだが、上に名をあげた6人の教授の中の4人に私も習っている。敢て生意気にも同学の誼と記させていただいた所以である。)

 このハーヴァード時代、またイギリスでの研究の成果を、帰国後まとめられて、『アメリカ建国史論』上下1300頁として、1940年、有斐閣より刊行された。この本は、先生の御研究の関心をよく示し、非常に多くの部分をイギリス憲政史にさかれ、イギリスとアメリカとの政治思想・政治制度の比較という視座にたたれて論述が行われている。アメリカ研究とはまさに比較研究に他ならないが、その点藤原先生のその後の御研究にも、英米の比較という形でなされたものが少なくない。ともあれ、当時のアメリカにおける最近の研究を広く渉猟されたこの研究書を、太平洋戦争前に刊行されたことは、日本のアメリカ研究史における先生の特筆すべき御貢献といえよう。なお、戦後藤原先生は東大法学部に同書を博士論文として提出され、1950年に法学博士号を得られている。

 ところで、設立されたアメリカ学会の主な活動は、月刊『アメリカ研究』刊行と、アメリカ史の原典の研究会にあった。前者にあっては、『アメリカ研究』の第1号より、財政難の為やむをえず廃刊になる1950年末にいたるまで、同誌の発行人は藤原守胤先生のお名前になっている。アメリカ史の原典の研究会は1948年2月より約十年続き、その成果は『原典アメリカ史』全5巻として岩波書店より刊行され、日本のアメリカ研究の基礎となっていることは周知のごとくである。藤原先生はこの研究会の最も熱心かつ積極的な参加者で、終戦後の暖房もない本郷の東大図書館の館長室まで毎回ほとんど欠かさずに出席されていた。寄稿の数も、藤原先生は最も多い方のお一人であったと思う。事実、1760年から1800年までをとりあつかった第2巻は、藤原先生が編集を担当され、概説を執筆されている。20世紀をあつかった最終巻の第5巻でも、1924年の移民法、フランクリン・ローズヴェルトの第二次大統領就任演説は、藤原先生が執筆されている。60歳に近い大家であられながら、常に共に学ぼうされる先生の謙虚な学究らしい態度は、後学の私共にとって強い励ましであった。アメリカ学会が先生が七十歳になられたのを機に、1970年4月名誉会員に御推挙申し上げたのは当然のことといえよう。その時の理事会で、先生が「いや一」と少々照れられながら、温顔をほころばされたことを、想い起す。

 1971年夏、藤原先生が脳内出血で慶應病院に入院されたことを太田俊太郎教授からおうかがいし、病院の方に参上し、奥様の御案内で意識不明のままベッドに横たわっておられる先生をお見舞い申しあげたことがある。御再起を祈りつつ「胸をしめつけられる想いで、おいとまを乞うたことを覚えている。

 幸いその後回復され、お話しも御自由になられた由おききし、安堵申し上げると共に、先生のアメリカ研究についてのお話しをおうかがいし、テープに収めておくことを思い立った。1973年11月のある日、太田さんに先導して頂いて、清水博、本間長世、それに私と、大勢で先生のお宅におじゃまし、学生の頃、留学の頃のことから、2時間近くアメリカ研究者としての先生の御生涯について、おうかがいすることができた。久しぶりで、こだわらない先生のお人柄に接し、心あたたまる思いがした。ききとりの後、奥様のお心づくしのお茶やお菓子を頂きながら、雑談がはずみ、お互いの失敗談や月給の話までとび出し、くつろいだ気分でお宅を後にしたのもつい昨日のことのようである。

 このききとりのテープは、東京大学アメリカ研究資料センターで保存し、また録音を起して原稿の形にしてあった。最近、同センターでは「日本におけるアメリカ研究・オーラル・ヒストリー」の計画をたて、予算のめどもついたので、アメリカ研究の先学たちのききとりを行い、それをタイプ印刷にすることにしている。藤原先生のききとりも近く印刷に廻すことになっている。御生前の先生にお捧げするつもりであったのが、今や御墓前にお供えすることになってしまった。それでも、先生は「いやー、できましたかー」と、温顔をほころばして、おうけとり下さりそうな思いがする。