最高裁判所におけるSandra Day O’Connorの役割
_妊娠中絶に関する判決を中心に_
4年 渡辺 麻理
序章: はじめに
一 最高裁判事に任命されるまでの経歴
(一) アリゾナ州での経歴
(二) レーガンによる任命と公聴会での発言
(三) オコナーの法解釈
二 ロー対ウェイド
(一) 憲法修正第十四条
(二) 妊娠期間の三半期制
三 1989年までの判決とオコナーの見解
(一) アクロン判決
(ニ) ソーンバーグ判決
四 1989年以降の判決とオコナーの見解
(一) レーガンによる人事政策
(二) ウェブスター判決
(三) ケーシー判決
終章: おわりに
序章:はじめに
アメリカにおいて、女性たちによる男女平等を訴える運動が活発化したのは1970年代後半である。主に社会的地位の平等を求めて活動が進んでいたが、1980年の大統領選挙では男女平等権修正条項(Equal Rights Amendment)と人工妊娠中絶に真っ向から反対するレーガン大統領が選出され、平等主義の高揚といった一つの時代は終わりをとげた。新保守主義が台頭する中で、レーガン大統領は自身の支持者におけるジェンダーギャップに悩まされ、その政策として大衆の目を引く政府の高い地位に女性を登用した。1981年には、アメリカ史上初めての女性最高裁判事としてサンドラ・デイ・オコナー(Sandra Day O’Connor)が任命された。これまで最高裁で行われた全ての判決は男性判事によって下されたので、最高裁の判事としてのオコナーの法解釈が注目された。特に、女性の権利を問う妊娠中絶の裁判に対するオコナーの見解が注目された。
私がこの論文で明らかにしたいことは、このような背景の下で、オコナーが具体的にどのような基準を持って女性の権利に関する判決を下しているかである。判決を導く過程の中で、女性としての考えや心情が含まれているか分析していく。論文では、人工妊娠中絶問題に関する判決を取り上げ、この点を具体的に検証していく。また、この過程の中でレーガン大統領による最高裁の保守化政策と伴って、オコナーの判決の内容にどのような変化があったか注目をしていきたい。妊娠中絶の裁判において、オコナーは任命当初、最高裁判事の中で保守寄りの判決を下していたが、1990年以降からリベラル寄りの判決を下すようになったと見られている。論文ではその内容を具体的に明らかにし、何故1990年頃に変化が見られたのか、そしてオコナーの最高裁での位置には実際変化があったのかを追究し、最高裁でのオコナーの役割を明らかにしていく。
連邦最高裁判所におけるオコナーの役割を考察している先行研究としては、Robert W. Van SickelのNot a Particularly Different Voice: The Jurisprudence of Sandra Day O’Connor (New York: Peter Lang Publishing, Inc., 1998)やPeter HuberのSandra Day O'Connor: American Women of Achievement (New York: Chelsea House Publishers, 1990)なとがある。
Van Sickelは1995年までのオコナーの裁判判決を具体的に分析した上で、オコナー独自の法解釈を検証している。また、1981年に最高裁判事に任命されてから15年の間に最高裁が保守化する中でオコナーがどのような位置を占めているかを分析している。結論として、オコナーは最高裁判事の入れ替わりに影響されることなく、常に、右寄りから中道の保守的なスタイルと保ってきたとVan Sickelは言っている。そして、現在ある法律を基盤にして判決を導く自制した法への取り組み方がオコナーの方針であり、このオコナーの特有の法解釈が最高裁での役割であるとしている。
Huberは、最高裁判事に任命されるまでのオコナーの経歴が女性特有のものであるとしている。最高裁に任命される以前のアリゾナ州におけるオコナーの活動が最高裁での判決に影響があったと考えている。この特有の経歴がオコナーの州の権限を重要視する見解が形作られたと主張されている。オコナーによるこの解釈は人工妊娠中絶問題を取り上げている裁判の判決内容にもあらわれていると説明されており、この点をウェブスター事件に焦点をあてて、具体的に分析している。
前者は、オコナーは一女性としての感情を表すことなく、忠実に判決を下している、と論じているが、オコナーがどのような経験や考えから制限した範囲での意思決定や判例を考慮した上で結論を導くようになったか、その理由は説明されていない。また、レーガン大統領とオコナーとの関係や、レーガン大統領による最高裁での人事移動に伴うオコナーの位置の変化についても述べられていない。後者についても同じことを指摘することができ、最高裁の保守化が及ぼした影響は述べられておらず、オコナーの経歴と判決内容の紹介のみとなっている。
オコナーは共和党の保守的な判事としてレーガン大統領に任命され、任命当時は女性団体の期待を裏切ったとも言われていた。しかし、その後、オコナーは最高裁の中で右よりから中道の立場へと変化している。この原因をオコナーの法解釈のみからではなく、多角的に探り、より詳しく分析して行くことには意義があると考えられる。アメリカ史上初の女性最高裁判事の登場は非常に注目されたが、右よりの見解の持ち主であったため、女性の権利に対して判決には大幅な変化は見られなかった、というのがほとんどの研究の流れであるように見うけられる。女性の権利に対するオコナーの意見に関する研究は多数あるが、オコナーの法解釈に注目するものが多く、オコナーを取り巻く政治環境についてはあまり深く分析されていない。
そこで本論文では、レーガン大統領による最高裁人事政策と最高裁の保守化に伴うオコナーの役割の変化について着目していく。1980年大統領選挙でのレーガン大統領による女性政策や当時の女性運動に注目し、この状況の中で任命されたオコナーの判決内容を分析する。そして、80年代後半に入り、レーガン大統領による最高裁の保守化政策が行われる中で、オコナーの最高裁での役割がどのように変化するか、政治的・社会的状況を捉えながら分析していく。オコナーの法解釈に注目しながらも、包括的な視点を加えることが本論文のオリジナリティである。
第一章 最高裁判事に任命されるまでの経歴
第一節 アリゾナ州での経歴
オコナーの最高裁判所における任務を考察する前に、オコナーの生い立ち及びアリゾナ州での経歴について触れていく。
サンドラ・デイ(旧姓)は1930年にテキサス州エルパソに生まれた。両親はアリゾナ州とニューメキシコ州の州境で牧場を経営していたが、周囲に医療施設や学校がないため、サンドラはエルパソの叔父母の家から通学していた。休みになると牧場で両親と過ごした。10才の頃にはトラクターを運転でき、更に風車や棚の修理まで手掛けていたようなので、自立心や独立心が強かったのであろう。その一方で、何時間も本を読むのが好きで、父親が購読していた本を良く読んでいたという。
成績がよかったサンドラは16才で高校を卒業し、1946年に父親が果たせなかったスタンフォード大学進学の夢を実現した。学部では経済を専攻し、その後ロー・スクールに進んだ。ロー・スクールでは将来の方向に大きく影響を与える二人の男性と出会うことになる。一人は夫となる一年後輩のジョン・オコナー、もう一人は最高裁判事としてサンドラを推薦するレーンキストである。サンドラはロー・スクールでも成績はよく、3番で卒業した。首席で卒業したのはクラスメートのレーンキストだった。
1952年の卒業と同時に結婚し、すぐさま就職活動に入った。自立心の強いサンドラは生活のためにも、また法律家としての道を歩むためにも専門を生かせる職場が欲しかった。しかし、当時は女性が働くこと自体それほど一般的でなかったので、ましてや法律家として女性を雇うところは皆無と言えるほどであった。就職先に困っていたこの時に、サンドラはロサンゼルスの法律事務所であるギブソン・ダン・アンド・クラッチャー社の門をたたき、弁護士としてではなく秘書としてなら採用すると言われた。そして、この法律事務所のパートナーの一人であるウィリアム・フレンチ・スミスが、後にレーガン政権の司法長官になり、最高裁判事の候補者としてオコナーを大統領に推薦することになる。
民間の法律事務所では女性法律家に対する偏見があまりにも強く、専門家としては採用してくれないので、役所に目をつけたところ、カリフォルニア州サンマテオで郡副検事の職に就くことができた。夫のジョンはロースクールを終えると、陸軍の法律関係の職務に就き、オコナー夫妻は西ドイツのフランクフルトで1954年から57年の3年間生活することになった。そして、サンドラも民間人として軍の弁護士の仕事を得た。
1957年に帰国すると、オコナー夫妻はアリゾナ州フェニックスに移った。サンドラは3人の子供を次々にもうける一方、しばらくは自分の法律事務所をもったこともあった。その後、専業主婦として5年間を過ごしたが、その間にも法律家としての専門を生かせるいろいろなボランティア活動に参加した。この頃、夫のジョンは共和党の政治活動に参加しており、その影響を受けてサンドラも共和党の活動に加わるようになった。こうした活動を通してサンドラは共和党の党員としても頭角を現すことになる。フェニックスで法律事務所を開業していたレーンキストとも再会して旧交を温め、また1964年の大統領選挙に出馬することになるゴールドウォーター上院議員との親交を得た。
1965年になるとサンドラは本業にもどる決心をする。各界に知己を持つようになったとはいえ、いまだ女性が法律専門家としての職を得ることは簡単なことではなかったが、アリゾナ州司法次官補という要職に就く機会に恵まれた。アリゾナ州では女性でこの職についた人はこれまでいなかった。4年後には州上院に欠員が生じたためオコナーは臨時に残りの任期をつとめるよう推薦され、議員活動に入ることになった。そして、司法委員会で敏腕をふるった。臨時に任期を終えると、次は正式に州上院議員に共和党から立候補し、1970年と1972年に連続当選を果たし、共和党上院院内総務に選ばれた。これはまた、女性では全米で初の快挙である。上院議員としては女性を差別している法律、たとえば財産権や就労制限、子供の養育権などに関する法律を改正した。上院議員として初めの年には、アリゾナ州の中絶禁止法を廃止するよう司法委員会で投票した。オコナーは法律家らしく、細かいことにまで神経を配っていた。オコナーは独立主義者であり、法案を検討する際にはその善し悪しを見極め、独自の判断を導いていた。
政治家として才能を大いに発揮したオコナーであるが、やはり本業の法律家にもどる決心をした。1974年に2期目の任期が終わると今度はマリコパ郡裁判所判事に立候補して当選を果たした。1979年の知事選が近づくと、アリゾナ州の共和党幹部やゴールドウォーターはオコナーに知事に立候補するよう要請した。対抗馬は民主党のブルース・バビットだった。しかし、オコナーは法曹界に残りたいとしてこれを固辞した。その翌年、知事になったバビットはオコナーに対して選挙不出馬に感謝してか、または将来の強敵にならないように先手を打ったのか、オコナーをアリゾナ州地裁判事に任命したのである。この任命が結果的にオコナーを連邦最高裁判所へと導いたので、政界に進まなかったのが賢明な選択だったといえる。
オコナーのアリゾナ州での経歴は女性ならではのものであった。性差別のため、なかなか連邦政府の役職に就くことができなかったが、その結果、州の司法次官、上院議員、地裁判事を経験し、政府の統治機関である行政、立法、司法の三部門を経験することができた。そして、オコナーは司法部の主観的に捉えるだけではなく、様々な局面から司法部を客観的に捉えることができたと言える。また、オコナーは後に最高裁判事の中でも、州の権利を強く尊重する判事の一人となる。その理由として、アリゾナ州の牧場で育ったこと、そして州政府の一員として長期に渡って活躍していたことが挙げられる。オコナーは連邦政府が支配しがちな制度に対しては、州の権利を取り上げ、各州が独自で様々な制度を導入し統治することを促している。このオコナーの独特の考え方は中絶問題に関しても見られている。
第二節 レーガンによる任命と公聴会での発言
オコナーが最高裁判事に任命されるきっかけとなったのは、1980年の大統領選挙である。この選挙でニュー・ライトの支持を受けていた共和党のロナルド・レーガンは新保守主義の台頭を選挙戦でかかげていた。特にロー対ウェイド事件の判決で認可された人工妊娠中絶に対してレーガンは真っ向から反対した。人工妊娠中絶に関して、レーガンは、胎児が生命体でないと科学的に証明されない限り、中絶は合衆国憲法の個人の生命、自由の保護に違反する行為であると主張していた。人間の生命がいつの時点から始まるのかを明確にするべきだと述べ、彼自身は受精の時点を生命の始まりと捉えていた。中絶は基本的に殺人行為であると非難し、唯一の例外は母体の生命が危険に曝されているときであり、自己防衛の観点からのみ中絶は正当化できると捉えていた。中絶に反対していたことによって、レーガンは伝統的な共和党支持者に加えて、宗教右派である「新しい共和党員(ニューライト)」の票も新たに獲得することができ、1980年の大統領選挙で勝利を収めた。
しかし、レーガン大統領は就任当初からジェンダーギャップに悩まされた。当選直後の支持率は、女性が46%、男性が54%であった。そこで、レーガン大統領は積極的な女性政策を採用し、大衆の目を引く政府の高い位置に女性を登用するようにした。そして、選挙公約として掲げていた最高裁判事に空席ができたら女性を任命することも実現しようと考えていた。
一方で、レーガン政権は最終的に最高裁判所を保守化させることで、ロー判決を覆そうとしていた。アメリカの中絶法は政治的闘争と妥協の末に導入されたものではなく、連邦最高裁判所のただ一つの判決によって導入されたものである。合衆国憲法のもとでは、連邦議会や州議会によって制定された法律と憲法が政府に課した諸規制が両立しない場合にはそのことを理由として最高裁は違憲であると宣言する権限を有している。一旦、最高裁がこうした判断を下した場合には、たとえ合衆国民大多数がそれに反対したとしても、他の政府諸機関はその判決に背くことが出来ない。確かに合衆国民は憲法改正を行い、最高裁が欠けている宣告をしたことを明示的に立法府に付与することで、最高裁の判決を覆すことが可能である。しかし、これは極めて困難なことであるため、実際のところ最高裁の決定を恨む政治家や人々にとっては、彼らの意見に賛同する最高裁判事が新たに任命され、いつの日か改組された最高裁が自らの権限を行使して過去の判決を覆すことを期待する以外ないのである。そのため、レーガン大統領はロー判決を覆すために、伝統的家族の価値と人間の生命の尊厳に対して敬意を払う裁判官を最高裁に任命することを目標とした。
以上の点から、1981年に最高裁判事であるポッター・スチュアートが辞任を発表した際に、多くの候補者の中から保守的な思想を持つ女性であるサンドラ・デイ・オコナーが選ばれたと考えられる。
オコナーがレーガン大統領から正式に最高裁判事として指名されたことが公表されると、道徳的多数派(モラル・マジョリティ)やニューライト、中絶反対派(プロライフ)は反対の声をあげた。それはオコナーがアリゾナ州議会で中絶を認める法案に賛成投票をしていたからである。レーガンの大統領当選に貢献したと自負しているニュー・ライトたちは、党大会の綱領には伝統的な家族の価値観と無垢な生命の尊厳を認める者のみが判事になるべきだと規定されており、オコナーはこの規定に合致しないと主張した。そして、州議会でオコナーが中絶を擁護する立場をとっていたことはオコナーの任命にあたって、一つの論争になった。この状況の中で、共和党超保守派のジェシー・ヘルムズ上院議員は、レーガン大統領から直接オコナーが個人的には中絶に反対であり、中絶は州の規制すべき問題として取り上げられるべきであると考えているということを聞き、ニューライトの反対運動にはあまり同調しなかった。その上、共和党保守派の大物であるゴールドウォーターの強力な支持、また議会での指名承認に大きな力を持つ上院司法委員会の委員長で、これまた共和党保守派の重鎮ストロム・サーモンドをはじめとする支持があったため、こうした右派からの反対派は対して影響力を持たなかった。8月にNBCが行った調査では合衆国民全体の65%がオコナーの任命を承認し、たった6%が反対していた。
9月に行われた司法委員会の公聴会でオコナーは、司法の役割は法を解釈することで法をつくることではない、という司法抑制主義の立場を明確にした。公聴会での発言はレーガン大統領や保守派を満足させるのに充分な内容であった。しかし、問題は人工妊娠中絶に関してであった。オコナーは、中絶を合法化した最高裁のロー対ウェイド事件判決(1973年)を覆すための憲法修正が1974年にアリゾナ州議会で提案された時、反対投票していることについて問われた。この質問に対してオコナーは、憲法修正は十分に調査して慎重に審議するべきことであるのに、この時はそれがなかったので反対したと答えた。そして彼女自身は中絶に反対であるが、ロー判決で最高裁は女性のプライバシーの権利を確立したと承認した。また、中絶をめぐる判決で今後どういう判決をするかは、その事件が実際に法廷で審理される前に公言するのは適当でないと述べた。また、プロライフ派のデントン上院議員(Denton)が中絶を不快に感じない域はどこであるか聞いた際に、オコナーは、「私はその線を厳しく引かなければならない。私はもう40歳を過ぎています。もう妊娠はしないので、私がこの事について意見を述べることは簡単かもしれません」と答えた。こうした毅然とした態度に好感を持ったのか、司法委員会は反対ゼロでオコナーの指名を承認した。次いで上院全体会議でも、99対0の満場一致(1人は欠席していた)で承認された。
保守派の判事が最高裁に入ることはリベラル派にとってはありがたいことではないはずだが、オコナーの場合は歓迎された。民主党リベラル派の代表であるエドワード・ケネディ上院議員は、大統領が女性を重要なポストに任命したことをアメリカの国民は誇りに思うべきであるという賛辞を送っている。フェミニスト・グループも女性の権利にとって勝利であると高く評価した。こうしてオコナーはアメリカ合衆国最高裁判所の191年の歴史において102人目の判事に任命されたのである。
第三節 オコナーの法解釈
一般的に厳格に憲法を解釈するという基準からすると、女性の判事はリベラルすぎると言われている。このような見解がある中で、レーガン大統領はオコナーとの政治的観点に似ている部分が多く、オコナーの司法消極主義あるいは司法抑制主義の立場を評価して、最高裁判事に任命した。
オコナーの法理論には5つの基本的な構成要素があると考えられる。その要素は、_保守的で、自制した法律への取り組み方、_「最高裁の正しい役割」に対する強い意識、_基本的な権利ではなく、明確な法律の優位性に対する信念、_政府の活動に対する敬意、_制定法を解釈する際の慎重で一貫した手順が非常に大切であるという強い信念、である。これらの要素はオコナーが最高裁判事に任命されるまでの過程で生まれたと考えられている。オコナーは女性ならではの特有の経歴を歩むことによって自制した法への取り組み方や州の権限を重要視する見解を形作られたと考えられている。また、オコナーは判決を導く際に、制限した範囲で意思決定することを重要視しており、関連してくる判例を充分考慮した上で、結論を導くことを大切にしている。つまり、オコナーは保守的な判決の下し方を支持しており、法が社会や経済に対して変化を引き起こすのではなく、社会や経済状況の進展が法の改正を導くのだと言っている。法の改正は確立された憲法と政治活動の中でゆっくり行われるべきだと考えている。オコナーは司法の役割は法を解釈する事で、法をつくる事ではないという見解を明らかにしている。このような見解は、オコナーが最高裁で関わった人工妊娠中絶に関する判決にも現れている。オコナーの法解釈は最高裁に任命されてから変化することはなく、最も堅実な判事の一人であると言われている。
また、中絶問題に関してオコナーの法理論は次の4つの事柄を考慮している。
_憲法上、中絶は認められているのだろうか。
_どのような政府による行為が女性の中絶への権利に侵害を与えているか。
_州の利益は妊娠期間のどこの時期に正当化され、中絶を選択する権利への侵害が許されるようになるのか。
_最後に、憲法上の生殖の自由は何を意味するのか。そして、連邦最高裁判所はその生殖の自由をどのように保障するべきか。
オコナーはこの四つの事柄を念頭に入れた上で、独自の法理論を基に中絶問題の裁判に取り組んでいる。オコナーが具体的にどのような判決を下しているかについて、第三章から考察していく。
第二章 ロー対ウェイド
オコナーによる中絶問題に関する裁判の判決内容を具体的に検討していく前に、人工妊娠中絶を大きな社会問題化にされる起源となったロー対ウェイド訴訟(Roe v. Wade)について触れていく。この訴訟は、女性の中絶権の合憲性を初めて正面から問う裁判であり、1971年と72年に連邦最高裁で公判が開かれたものである。争点になったのは、母親の生命を救う目的以外の人工中絶を禁止していたテキサス州法である。原告となった未婚の妊婦は、人工妊娠中絶を希望し、テキサス州法が違憲である旨の判決を求めた。そして、弁護人はテキサス州法は女性の医療を受ける権利及び医師や看護婦が医療を行う権利を奪っているから、修正第十四条に保障されている自由の侵害にあたると主張したのである。
そして1973年の判決で、全員男性である連邦最高裁の判事たちは7対2の大差で、女性が中絶を選ぶ権利を憲法に保障されたプライバシーの権利として認めるという判決を下した。この判決で法廷意見を執筆したのはブラックマン判事である。ブラックマン判事は、妊娠中の女性は憲法修正第十四条のデュー・プロセス条項によるプライバシーの権利を有していると宣言した。
第一節 憲法修正第十四条
ロー判決でプライバシーの権利は妊娠を終わらせるかどうかを決定する女性の権利も十分に含むものであるとブラックマン判事は述べた。そして、このプライバシーの権利は憲法上明白に規定されてはいないが、憲法修正第十四条のデュー・プロセス条項により保障されているとした。合衆国憲法の修正第十四条のデュー・プロセス条項は、いかなる州も、適正なる法の手続きを経ることなくしては、人の生命、自由、及び財産を奪うことはできないと規定している。そして、デュー・プロセス条項はその機能として、憲法上明文で規定されていない権利を保障するための機能だけではなく、経済的・財産的権利といった実態的利益を保証する際に、それらを保障するために用いられる権利章典の諸規定を、州に適用する際にも用いられていた。アメリカにおいて生殖、避妊、中絶、結婚に関して、法を非常に特殊な方法で適用することによりそれを保障してきた。これらの権利を保障するに際して、どのような根拠に基づいて保障すべきか、はっきりとした根拠がなかったが、そこで用いられたのがデュー・プロセス条項であり、それらをプライバシーの権利に含まれる権利と解している。
ブラックマン判事はこれまでの判例に照らして、中絶を選択する権利は憲法が保障をする基本的の権利の中に含まれるとし、その根拠を憲法修正第十四条に求めたのである。そしてプライバシーの権利は、妊娠を終わらせるか否かを決定する女性の権利を十分含むものであるとの判断を示した。したがって、母体の生命保護を目的とする以外の中絶を犯罪としていたテキサス州の中絶法、そして合衆国内の既存のほとんど全ての中絶法は、女性の権利を侵害しているため一挙に違憲とされたのである。
しかし、この権利は絶対的なものとされたわけではなかった。その理由は中絶の権利は基本的な権利であり、それゆえに、この権利はやむにやまれない州の利益(compelling state interest)に基づいてのみ、規制されうるからである。州が健康の擁護、医療水準の維持、および潜在的生命の保護に対する重要な利害関係を主張することは正当と認められている。そのため妊娠中のある時点で、これらそれぞれの利害は中絶の決定を支配する諸要因への規制が正当と認められるだけの十分に強力なものとなる。したがって、ここで問題となっているプライバシーの権利は絶対的なものとは言えない。プライバシーの権利には中絶の決定権が含まれるが、この権利は無条件ではなく、規制における州の重要な利害に照らして考慮されるべきであると結論づけられている。そのため、ブラックマン判事は妊娠期間を三つに分け、女性の中絶を選ぶ権利と胎児の潜在的生命を守ろうとするやむにやまれない州の利益のバランスをとろうと考えた。
第二節 妊娠期間の三半期制
ブラックマン判事は妊娠期間を三つに分け、それぞれに異なる対応を行うという解決法を導入した。三半期制における州の介入権限をまとめたのが(表1)である。
表1:三半期制における州の介入権限
州による規制 |
州による禁止 |
|
第一期 |
不可 |
不可 |
第二期 |
可 |
不可 |
第三期 |
可 |
可 |
三分割された妊娠期間の初めの第一期及び第二期の期間内である7ヵ月以前の期間内においては、やむにやまれないものではないと付言し、その期間、州は中絶を禁止することが出来ないという結論を下した。つまり、ブラックマン判事は第一期及び第二期の間に中絶をする否かを決定する女性の権利は十分に含むとし、最高裁は妊娠中絶を合憲と認める判決を下したのである。しかし、中絶の決定とその実施は、妊娠女性を担当している医師の医学的判断に委ねられた。第1三半期の終わりに続く段階においては、州は母体の健康に対する州の利益を増進するために、母体の健康に合理的な関連を持つようなやり方で中絶の処理を規制することが出来る。そして、第三期に入って胎児の母体外での生存可能性が生じた後の段階においては、州は人の生命の潜在的可能性に対する州の利益を増進するために、中絶を規制、もしくは禁止することさえ出来るとした。ただし、適切な医学的判断によって、母体の生命または健康を守るために中絶が必要とされる場合は除かれている。また最高裁は、州は最後の第三期の期間内のみ、胎児の生命保護を目的とした中絶を禁止することが出来ると述べたのである。
州が妊娠初期に女性の中絶の権利に介入できないのは、この時期の中絶は合法的に行われれば安全で、それによる死亡率は通常の出産と同程度、あるいはそれ以下にすぎず、中絶が女性の利益に反するとは考えられないからであった。同様に、妊娠中期に中絶への州の介入を認めるとしても、それはあくまでの女性の健康を守るためであり、中絶を行う人物の資格や施設の認可など、安全性を確保するための規制のみが認められる。それに対して、妊娠後期では、州が保護すべき対象として胎児が登場してくる。テキサス州は、生命は受胎の瞬間から始まるから、胎児は憲法修正第十四条がいうところの人であり、したがって州は妊娠全期間を通じて生命を保護することにやむにやまれない利害関係を持つと主張していた。これに対して判決は、憲法に見るかぎり、人は出生後のことを意味しており、したがって修正第十四条のいう人には生まれる前の胎児は含まれないとの判断を示した。
しかし、同時に判決は、妊娠24週から28週頃に胎児は母体外に出ても人工的な助けがあれば生存できる可能性が高まることを述べた。この母体外でも生存可能なこの時期を境に潜在的生命の保護に対する州の合法的な利害関係の存在を認めたのである。
ロー裁判に対しては、レーンキストとホワイトの二人の判事が反対意見を述べた。レーンキスト判事は反対意見の中で、女性は自分自身の生殖を支配するいかなる憲法上の特別な権利をも有しないと言った。彼は、プライバシーの権利はこのケースと無関係であり、更に判決が法的根拠がないにもかかわらず、妊娠をはっきりと三期に分け、それぞれの時期に州がどのような制限を科しうるかの枠組みを示したことは、本来憲法が適用されるべき厳密な事実の範囲を越えて「司法による立法化」を行ったものであるとして、判決を非難した。また、中絶を禁止することによって州がかなえる目的は、たとえ妊娠の極めて初期の時点であっても正当であり、中絶を禁止するこ とによってその目的を推進しようとする州の決定は不合理ではないと言明した。
いずれにしろ、1973年1月22日の連邦最高裁判決は、アメリカ史上初めて男性とは独立して女性に生殖上の自己決定権を認めた点で画期的なものであった。
第三章 1989年までの判決とオコナーの見解
ロー判決後は、プロライフ派による州のレベルでの最高裁判決に対する抵抗が続いた。また1981年には、ヘルムズ上院議員が議会の立法権限を用いての受胎の瞬間から「人間の生命」が存在すると規定しようとする連邦法案を提出した。しかし、この法案は議会を通過することに失敗し、プロライフ派が期待していた変化は見られなかった。一方、プロチョイス派は女性活動家やNARAL(National Abortion Rights Action League)という利益団体を中心にその活動を続けた。
このような状況の中で、レーガン大統領に任命されたオコナーが中絶問題に関する裁判に、今後どのような判決を下すか注目された。
第一節 アクロン判決
オコナーが最高裁に任命されてから初めて中絶問題を取り扱った裁判が1983年6月に行われたアクロン市対アクロン・リプロダクティブ・ヘルス・センター(Akron v. Akron Center for Reproductive Health)の裁判である。そのため、オコナーのロー判決に対する見解、及びオコナーの判決の内容に注意が向けられた。
この裁判で連邦最高裁は、オハイオ州アクロン市が制定した人工妊娠中絶規制条例の合憲性について争った。この条例は、第2三半期の中絶は病院で行うという要件、未成年者の中絶への両親の同意、インフォームド・コンセント、24時間待機の義務付け、中絶した胎児の「人間的・衛生的」処理などを内容としていた。これに対して中絶支持派から違憲訴訟が提起されたのが始まりである。この裁判の判決において最高裁は、6対3で、中絶へのアクセスの障害になるような6つの規定のすべてについて、違憲の判断を下し、ロー判決の基本線を再確認して見せた。
パウエル裁判官の法廷意見は、1973年のロー判決を回顧して、憲法上のプライバシー権が人工妊娠中絶の自由を含むということを確認し、また次の2点についても確認が行われた。第一は、人工妊娠中絶は医学上の手術なので、女性の基本的権利が完全に擁護されるには、彼女の医師に最善の医学的判断を下すのに必要な裁量の余地が与えられなければならない点である。そして、第二は、人工妊娠中絶を選択する権利に対する州の規制は、やむにやまれぬ州の利益によって支持されるものでなければならない点である。
合憲性が争われた規定では、まず第2三半期の人工妊娠中絶は病院で行わなければならないという要件である。法廷意見は、病院での中絶はクリニックに比べて倍以上の費用がかかることやアクロン市の病院では第2三半期の中絶が実際にはほとんど行われていない事などを挙げて、女性の中絶へのアクセスに関する実質的な負担となっていることを指摘している。未成年者についての両親の同意要件ではオハイオ州法に未成年者の人工妊娠中絶に関する言及がないので、この規定を違憲と判断した。次のインフォームド・コンセントの要件では、中絶の手術の情報を与えるのではなく、中絶を撤回するよう説得することを意図したものであると判断した。医師が、その女性の妊娠の個別的な危険性や行う中絶の術法などについて情報提供・カウンセリングを行うという要件については、情報提供者を医師に限定している点が問題とされ、違憲と判断された。重要な事柄は、女性が資格ある者から重要な情報を得ているか否かであり、彼女が情報を得る人物が誰かではないと言われている。24時間待機要件についても何らかの州の正当な利益がもたらされることが立証されていないとし、違憲と判断された。最後の人工妊娠中絶した胎児の人間的・衛生的処理要件についても違憲と判断された。アクロン市は、この規定の趣旨は、中絶した胎児の心無い廃棄を禁ずるものと主張したが、法廷意見はどのような行為が禁止されているかについての、医師に対する公正な告知を欠いており、刑事法としては致命的なレベルの不快さであるとしている。
オコナーは始め、インフォームド・コンセントと胎児の処理について、多数派と同じ意見であった。しかし、パウエル判事が最高裁に彼の見解の初稿を提出したたった4日後にオコナーの見解はパウエル判事とのものとは変わり、メモを通じて別の意見を提出することを発表した。その後、オコナーは反対意見を提示し、中絶規制法の合憲性に対して独特なアプローチをとった。中絶に対する規制を中絶を選択する権利への「不当な負担」(undue burden)となるか否かによって分析する考え方を提唱し、すべての規定を違憲とした法廷意見に反対している。このオコナーの反対意見にホワイト判事とレーンキスト首席判事は同調している。
オコナーはまずロー判決の三半期のアプローチは、法にも論理にも正当性がなく、機能しないと批判した。女性の権利と州の利益を調整する枠組みとして正当なものではないとしている。オコナーはロー判決について二つの基本的な欠陥を非難した。第一に、最新の医療技術が発達して行くと共に、母体外での生存可能な時期がより第2三半期の前半へと早まり、出産はより安全になっていく。そして、胎児の潜在的生命を守るという州の利益が適用される期間も一層長くなるので、胎児が母体外でも生存可能な時期をあらかじめ設定してある三期制のアプローチは不適当であると言った。第二に、三期制の仕組みは、いつ州の利益が適用されるようになるか明確に指摘されていない。オコナーは、中絶を選択する基本的権利が時にあるとされても、潜在的生命を守ろうとする州の利益は妊娠期間中ずっとあると言った。更に、オコナーは憲法が州に対して最新の医学を継続的かつ入念に研究することを求めたり、最高裁判所が科学者のように審査する権限を与えられているとは信じられないと述べている。
そこでオコナーは「不当の負担」という新たな法理論を詳しく説明した。彼女は中絶に関する規制は人工妊娠中絶の権利への不当な負担にあてはまることがあるとしている。何が不当の負担にあたるかは中絶の選択に対する絶対的な障害または厳しい制約であると述べている。オコナーは不当な負担があると見られ、絶対的な障害や厳しい制約を与えている中絶規制法の具体例を二つ挙げた。一つ目は、ロー判決で取り上げられたテキサス州法であり、この規制法では母体の命を守るための中絶以外はすべて犯罪であるとしていた。二つ目は、1976年のダンフォース裁判(Planned Parenthood of Central Missouri v. Danforth)で取り上げられた州法で、胎児の性別や遺伝的欠陥が判定されて行われる中絶や親や夫からの同意を得ずに行われる中絶を禁じたものである。
アクロン裁判の反対意見において、オコナーは第2三半期の中絶は病院で行わなければならないという要件については、アクロン市及びその周辺では第2三半期の中絶は事実上不可能になるという法廷意見に反対した。オコナーは規制に費用の増加はつきものであるとして、不当な負担を課すものではないから、州民の健康及び福祉の確保という州の正当な目的に合理的関連性を有するとしている。
未成年者についての両親の同意要件については、州法の解釈が不確定である事から違憲判断を控えている。インフォームド・コンセントの要件については、法廷意見のようにこの要件を一体として違憲と判断するのではなく、妊娠が第何週目かなど、法廷意見も問題ないとしている部分を分離して検討すべきであるとしている。そして、情報提供・カウンセリングを行う者を医師に限定している点については、不当な負担を課すものではなく合憲であると判断している。また、24時間待機の要件についても不当な負担にはあたらないとする。そして、仮に不当な負担になるとしても、母親の身体的・精神的健康と胎児の生命の保護という州のやむにやまれない利益はこの要件を正当化すると考えている。最後に、中絶した胎児の人間的・衛生的処理要件については、漠然性ゆえに無効とはいえないと、法廷意見に反対している。
アクロン裁判はオコナーが中絶問題を初めて扱った裁判であったので、非常に多くの注目を浴びた裁判であった。判決の中で、オコナーはロー判決の三半期のアプローチを否定した。そして、「不当な負担」を提唱し、その上で問題になったオハイオ州アクロン市が制定した人工妊娠中絶規制条例が合憲であると判断した。オコナーが提唱した「不当な負担」の分析は、ロー判決での女性の権利に対する基本的な考えを受け入れていた。しかし、生殖への自由を期待していた多くの女性にとって、このオコナーの法廷意見は残念な結果であったと言える。
第二節 ソーンバーグ判決
1984年の大統領選挙ではレーガン大統領が地滑り的な勝利で再選された。こうした中で下されたのが、1986年のソーンバーグ判決である。1986年のソーンバーグ対アメリカ産科医婦人医協会判決(Thornburgh v. American College of Obstetricians and Gynecologists)において、最高裁は1982年に制定されたペンシルベニア州の人工妊娠中絶規制法の合憲性が争われた。その具体的な内容として、インフォームド・コンセントの要件、一定の情報を記載した書面の交付、公衆への公開を前提とする報告義務、独立生存時以降の治療の基準、二人目の医師の要件といった6つの規定があり、これらが問題となった。
最高裁判所は、5対4のわずか一票差で、全ての規定について、違憲と判断した。法廷意見はこの中絶規制法は選択の自由に対して不当な負担を与えているとした。法廷意見を述べたブラックマン判事は、州などによって繰り返されているロー判決に対する抵抗へ不快感をあらわにして、次のように述べている。
「ロー判決以降、州や地方公共団体は、一見して、女性が医師の助言によって選択の自由を行使することを妨げることを意図する数々の手段を採ってきた。しかし、1973年に当裁判所をロー判決に導いた憲法上の原則は、今なお、妊娠を終了させるか否か決定する女性の権利の憲法上の特質を承認する強力な根拠となっている。こうした憲法上の原則の生命力は、それに対する不賛成のみを持って曲げられてはならないことはいうまでもない。母親の健康や生命の可能性の保護という口実で、妊娠を継続するよう女性を脅かす自由は州にはない。」
一方、オコナーはバーガー首席判事、レーンキスト判事、ホワイト判事と共に、反対意見を述べている。オコナーは本案に関しては、アクロン判決のオコナー反対意見にしたがって、合憲であるとしている。つまり、オコナーはペンシルベニア州法が中絶に不当な負担を与えているとは感じなかったのである。オコナーによると、妊娠中の女性の健康に危険が及ぶと言われているバイアビリティ・ポイント以後の中絶における必要条件も、選択の自由に対する不当な負担に相当しないと言っている。
第四章 1989年以降の判決
第一節 レーガンによる人事政策
レーガン大統領は二期目に入ると連邦最高裁判所に保守派判事を任命し、その勢力関係を保守派多数へと逆転させる幸運のチャンスがまわってくる。まず、1986年にソーンバーグ判決が下された後、保守派の最高裁判事の代表であり、当時首席判事であったウォーレン・バーガーが辞任した。この時レーガン大統領は、最も保守的なレーンキスト判事を首席判事に昇格させた。そして、保守的なアントニン・スカリアを後任として任命した。彼は1982年にレーガン大統領によってコロンビア特別区合衆国控訴裁判所の裁判官に任命され、保守派裁判官としての地位を既に確立していた。
その後1987年に中道穏健派のルイス・パウエル判事が辞任したので、レーガン大統領はアンソニー・ケネディを任命した。ケネディは保守的であり、任命される前にはカリフォルニア連邦高裁の判事を務めていた。妊娠中絶に関して、ケネディはパウエルと異なって、反対の立場をとると見られていた。つまり、ソーンバーグ判決で中絶を支持していた5人の裁判官のうち1人が減ることになった。その結果、中絶反対派が多数派になり、ロー判決を覆す可能性が高くなったのである。
第二節 ウェブスター判決
スカリア判事とケネディ判事を迎えてから、初めての中絶問題に関する裁判がウェブスター事件であった。1989年ウェブスター対ミズリー・リプロダクティブ・へルス・サービスの裁判(Webster v. Reproductive Health Services Incorporated of Missouri)はロー判決と並んで時代を画した判決である。最高裁は、憲法を根拠に認めた女性の中絶の権利を事実上否定し、中絶に対する極めて厳格な規制を支持したのである。多くの法律学者達は、ウェブスター判決は部分的にロー判決を覆した、と言っている。
この裁判はミズーリ州法が対象で、公立の施設及びその被雇用者による中絶を禁止し、中絶相談に公的資金を使うことを禁じ、医師には中絶を行う前に胎児の生存可能性テストを義務付け、さらに序文に「それぞれの人間の生命は受胎の瞬間に始まる」とうたったことが、違憲か否かが争点となっていた。
7月3日に出された判決は5対4の僅差で、争点となっていたミズーリ州法の規定はすべて憲法違反にはあたらないと判断し、州がそうした規制を設けることを是認した。人間の生命は受胎の瞬間に始まると規定した序文も、単に立法者達の価値判断を示したもので、法的影響は持たないとされた。更に判決は、ロー判決でブラックマン判事が示した妊娠期間の三半期制や胎児の生存可能性の時点に関する概念の妥当性を批判し、5人のうち4人の判事がロー判決を覆したいという意向を表明した。しかし、残る1人であるオコナーは今回の裁判はそれを再考する場ではないと主張したために、ロー判決の全面否定には至らなかった。オコナーはこれまで連邦最高裁にて常に保守派の裁判官(レインキスト、ホワイト、ケネディ、スカリア)と共に州の中絶規制法を支持する立場をとってきた。しかし、1989年のウェブスター判決でオコナーは、最高裁の人事政策が行われた影響もあってか、保守派とは別の意見を法廷に提出した。ロー判決を覆すと意見表明をしていた保守派判事とは異なって、オコナーは司法抑制主義をとるため、ロー判決の合憲性を問う必要はないと言明し、今後の再審査は慎重に行われるようにと申し出た。
そして、オコナーは妊娠期間のどの時点においても、潜在的生命を守ろうとする州の利益はあると考えているが、州の利益は女性に与えられた選択の自由の権利を上回ることが出来るというレーンキスト判事の見解に反対した。レーンキスト判事はミズーリ州の中絶規制法は合憲であると判断している。その理由は、この規制法が潜在的生命を守ろうとする州の利益を認めているからだとしており、極めて保守的な意見である。オコナーが用いている不当な負担の法理論は他の保守派の判事と異なる独自の見解をもたらすので、結果的にウェブスター判決では女性に与えられている生殖の自由を「極度の負担」から守る事が可能であることが分かった。
こうしてウェブスター判決は、あと一歩でロー判決を覆すところまでいった。かたちの上ではロー判決を残しながらも、実質的には各州に対し、それまでなら最高裁が違憲判決を下していたような様々な中絶規定法を制定し、それによってロー判決を有名無実化することへのゴーサインを出した。最高裁は女性のプライバシーの権利をかろうじて残し、具体的なプライバシーに関する決定権は州立法府に手渡したのである。つまり、それぞれの州に中絶の合法判断を委ねたのである。オコナーのウェブスター判決での意見は女性の中絶を選ぶ権利が憲法で保護され続けるために極めて重要であったと言える。
ウェブスター判決後、1989年のうちに早くも25の新しい規制法案が州議会に提出され、その数は90年には全国で400、91年前半には200にのぼることになる。その中にはグアムやルイジアナ州のように、女性の生命の危機以外の理由全ての中絶を禁じ、中絶を行った者と当の女性に対し禁固刑を科そうとする、極めて厳しいものもあれば、中絶の合法性そのものは否定せずに、多くのハードルを設けることで実質的に中絶へのアクセスを封じようとするものもあった。NOW(National Association for Women)はこれらのハードルについて、親の同意要件とは「十代を危険にさらすこと」、インフォームド・コンセントとは「反中絶カウンセリング」、再考期間とは「強制的遅延」、配偶者の同意は成人女性の決定権の侵害、そして患者の名前や妊娠期間、中絶理由その他の公開を求める報告義務とは「守秘義務の違反」とするのが正しい名称であり、これらは女性を再び非合法堕胎に追い込もうとする「裏切りの中絶法」と呼ぶのがふさわしいと非難した。
第三節 ケーシー判決
1992年、最高裁はペンシルベニア州南東部家族計画連盟対ケーシーの裁判(Planned Parenthood of Southeastern Pennsylvania v. Casey)で、1982年に制定され、88年と89年に修正されたペンシルベニア州の中絶規制法の合憲性について争った。中絶規制の内容は、_中絶を望む女性に対するインフォームド・コンセント、_24時間の義務的待機及び最高時間、_未成年者についての親の同意、_夫に対する告知、_中絶施設による報告義務を課すこと、などである。
最高裁は5対4でこのペンシルベニアの中絶規制法の大部分を支持する判決を下した。6月29日の判決は、ロー判決を踏襲して、_女性は、胎児が母体外での生存可能となる時点より前には、中絶を選択する権利を有する、_その時点以後は、中絶を規制する州の権限を認める、_中絶を選択する女性の権利は、修正第十四条のデュー・プロセス条項から導き出される、と述べている。しかしながら、ロー判決が提示した妊娠期間の三半期制は、不当な負担という新しい基準に従って、夫に対する告知要件以外のその他の中絶規制を全て合憲としたのである。
ケーシー判決において、オコナーはレーガンが任命したケネディとスーターと共に共同意見を書いた。三人の裁判官はロー判決あるいは少なくともロー判決の「中心的判断(central holding)」を支持すると述べた。胎児が生存可能となる以前の時期に、女性が中絶を選択することに対し、州はその選択に対して不当な介入をすることはできないとした。なぜなら、「自由の中心は、存在や意味、宇宙、そして人間の生命の神秘について、それぞれが独自の概念を定義する権利である」と述べている。そして、中絶は、当の女性ばかりでなく、他の人々や社会にとっても重要な意味を持つ独特な行為ではあるが、最終的決定権は女性になければならないと主張した。なぜならば、「このような事柄に関する信念は、もしそれが州の強制の下で形成されるなら、人であることの属性を定義することはできない」からであると言っている。このように、共同意見では、中絶問題がまさに自由という思想にとっていかに重要であるかを、それ以前より明瞭にしたのである。
しかし、彼らの共同意見は、州は中絶を禁止することはできないというロー判決の決定を支持するが、責任を奨励することに関する州の正当な利益をも支持している。州は、女性がこのような永続的な意味を持つ決定を下すための理にかなった枠組みを提供するような法律を自由に制定できると、共同意見では記されている。州は中絶をしようと思う女性が社会の中で中絶に反対している人の主張も十分承知するべきであると言っている。そこで、妊娠の最も初期の段階においても、州は中絶をしようと思う女性が、妊娠を継続する大切さを主張する目的で策定される諸規則を制定することが出来るとしている。しかし、この州による規制がたとえ中絶の禁止を目的とするものとしてなくても、その規制が中絶という選択に対する「事実的な障害」を設けることによって、中絶を選択する女性に「不当な負担」を課することになるのなら、その規制は憲法に違反するとしている。
ケーシー判決において、最高裁のある多数意見は既婚女性に対して、中絶をする前に夫に告知せよと命じることは、まさに、彼女達の決断に対して過度の負担をかけることになる。なぜなら、多くの女性たちは、身体的、心理的、経済的な脅しを恐れるからである。しかしながら、ペンシルベニア州の定める24時間の義務的待機期間、医者が指定された情報を患者に提供する時点と中絶の時点の間の待機期間、が過度の負担を課していることは証明されなかったと判示した。
他に最高裁の二人の裁判官であるブラックマン判事とジョン・ポール・スティーブンズ判事もロー判決に対する持続的で確固とした支持を表明したので、9人の裁判官のうち5人が、中絶に関する憲法上の権利を支持した。残りの4人の裁判官達のレーンキスト、ホワイト、スカリア、トーマスは、次に同様の事件があればロー判決に対して反対することを明らかにした。そして、この4人の判事はロー判決は誤りであるという立場から共同意見に反対した。
ケーシー判決でオコナーは、ウェブスター判決と同じようにロー判決の中心的判断を支持し、不当な負担の法理論を強調した。そして、これまでの中絶問題に関する判決とは違って、オコナーは保守派に代表されるレーンキストやホワイトとは異なった意見を表明したことが印象的であった。
終章: おわりに
これまで、オコナーのアリゾナ州における経歴から最高裁での人工妊娠中絶に関する裁判の判決の内容を検証してきた。そして、オコナーによる人工妊娠中絶に関する裁判での投票行動を見ると、レーガン大統領による最高裁の人事保守化政策を機に右寄りから中道へと移ったかのように見える。1989年までの判決では保守派判事として有名であるホワイト判事やレーンキスト判事と同様の意見を提出しているが、1989年以降の判決では保守派判事とは異なった意見を提出している。しかし、実際はどうであろうか。
ここで、これまで見てきた裁判におけるオコナーの意見を振り返りたい。1983年のアクロン判決で、オコナーは女性に生殖上の自己決定権を与えたロー判決の基本的路線を認めたが、三半期制のアプローチには正当制がないと批判した。特に三半期制の仕組みにおける州の介入権限は、最新の医療技術が発達していくと共に、胎児の母体外での生存可能な時期が早まるので、適切ではないと言った。そして、不当な負担の法理論を紹介し、州が女性の中絶の選択に対して絶対的な障害を与えることは許されないという考えを明らかにした。オコナーはロー判決の内容を全面的に支持しておらず、アクロン裁判で問題になった中絶規制法は合憲であるという意見を提出したことから、保守的に見えたのである。ソーンバーグ判決では、アクロン判決で主張したオコナー自身の意見に同調している。
そして、レーガン大統領による人事政策後に行われたウェブスター判決で、オコナーはこれまで最高裁の保守派と同じ票を投じていたが、この判決では別の意見を法廷に提出した。保守派判事はミズーリ州の中絶規制法は合憲であり、ロー判決を覆すという意見表明をしていたが、オコナー保守派判事とは異なって、ロー判決の合憲性を問う必要はないと述べた。オコナーは司法抑制主義を尊重した上で、独自の不当な負担の法理論を基に、州の利益と女性の権利の境を明らかにすることが重要であると主張した。その結果、女性に与えられている生殖の自由を極度の負担から守ることができたのである。ケーシー判決では、保守派の意見とは反対の意見を提出し、夫に対する告知要件は女性に対して不当な負担をかけることになると判示した。そして、ここでもオコナーは共同意見で、州の中絶を禁止することはできないというロー判決の決定を支持している。また、州による規制が女性に不当な負担を課するのなら、憲法に違反するとしている。
このように、オコナーはロー判決の基本路線と女性が中絶を選ぶ基本的権利を持つことを終始認めており、常に不当な負担の法理論を基に独自の意見を導いている。中絶に関する裁判の判決内容に関してオコナーの意見にはあまり変化が見られないことが分かる。オコナーは非常に忠実で、事実関係に敏感であり、司法抑制主義の立場から、常に判例との前後関係を尊重してきたと言える。そのため、オコナーは一女性としての考えや感情を表すことなく、関連する判例を基に保守的な分析を行っていると言える。実際に、女性運動の後押しとなるような判決を下すことは少なく、女性運動の活動家たちの期待にそえない結果が多く見られた。
オコナーはこのように、独自の法理論を基に忠実に判決を下しているので、レーガンの人事保守化政策に影響を受けたとは言いがたい。オコナーの最高裁での位置が右寄りから中道へ移動したように見受けられるのは、レーガン大統領による右派の判事の増員がより右寄りの判決を生み出したからであると考えられる。オコナーは最高裁判事の入れ替わりに影響されることなく、常に独自の道を歩む姿勢を保ってきたのである。現在ある法律を基盤にして判決を導くことがオコナーの方針であり、このオコナーの特有の法解釈が彼女の最高裁での役割だと言えるのではないだろうか。
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