Press Council

_ミネソタ報道評議会を中心に_

 4年 牛田光一

序章:はじめに

第一章:報道評議会の光と影

第一節:なぜ評議会は成功しなかったのか

第ニ節:評議会が優れている理由

第三節:評議会の問題点

第ニ章:ミネソタ報道評議会ができるまで

第一節:功績者ロバート・ショウ

第ニ節:報道評議会の設立へ向けて

第三節:ミネソタ新聞協会のサポート

第四節:評議会のメンバーの選出

第五節:ミネソタ新聞協会から独立

第三章:ミネソタ報道評議会の活動内容

第一節:苦情処理の手続き

第ニ節:評議会のメンバー

第三節:評議会の財源

第四節:苦情審理の基準

第五節:苦情審理の進められ方

終章:おわりに

序章:はじめに

かつてアメリカにも全国のメディアを対象とした全米報道評議会という自主規制機関が存在した。1973年に設立され、イギリスやスウェーデンのそれと同様のものだった。しかしニューヨーク・タイムズ紙など、有力メディアの支持を得ることができず、活動を無視され続けた結果1983年に解散となった。

 そうした中で例外ともいえる成功を収めているのが、ミネソタ新聞協会が中心となって1971年に設立されたミネソタ報道評議会である。当初から州内の各新聞社に支持され、数年後には放送メディアも参加し、資金も年々増加して活動はますます活発になった。

報道評議会は現在世界40ヶ国以上に存在していると言われている。ヨーロッパ諸国の他、カナダ、オーストラリア、インドなど、イギリスの影響が強い国や地域では、この制度が定着しているところが多い。ここで数えられているのは全国規模や州規模の比較的大きなものである。これらの報道評議会の数も変動しており、しかも事実上機能していないものなども含まれている可能性があるため正確な数字は出せない。

 報道評議会として認識されていても、その形態や規模は一定ではない。つまりイギリスやスウェーデンのもののように長い伝統を持つ全国規模の組織である場合もあれば、町民の寄り合いに近いレベルの小規模のものもある。また、一般的に報道評議会はマスコミ自身が自助努力として設けているものではあるが、政府によってコントロールされている場合や、ほとんど機能していないものもあるようだ。そのため、共通の定義を持って報道評議会とは何かを述べる必要があると考える。そこで、本論文で述べる報道評議会とは、

「メディアの自主的な責任制度(Accountability System)の一形態であり、報道の自由に対する権力の介入を防ぐためにも、市民に対するメディアの責任を保障する制度をメディア自ら設け、具体的には報道された記事の正確さやその他について市民の苦情を受け付け、審査し、その結果を公表することを活動の中心とする」とする。

つまり報道評議会は市民のメディアに対する苦情を受け付け、その苦情に正当性があると思われる場合、問題となるメディアの報道内容や態度に対して話し合い、報道評議会としての判断を示す。そして、その苦情を審査する委員会は市民の代表とメディアの代表で構成されるのが一般的である。

 アメリカでは報道評議会についての研究は決して盛んとは言えないだろう。しかしたいへん優れた研究もある。これらの研究には、例えば、名誉毀損訴訟と報道評議会の関係、実際に利用した側は報道評議会をどう評価しているか、メディアの人たちの報道評議会に対する反応、などがあり、学術論文らしく特定のテーマに焦点を当てて研究されたものが多い。さらに、これらの先行研究は焦点が絞られているので統計的なデータも含め、具体的で説得力がある。日本では、これらの研究のように、アメリカの報道評議会について論理的で説得力を持った学術的な研究が少ないようである。代表的な研究として、ロバート・シェイファー氏がミネソタ大学ジャーナリズム学科の修士論文として書かれた“The Minnesota Press Council”がある。この論文はミネソタ報道評議会の歴史から具体的なケースまで詳しく書かれている。

 アメリカで本格的な活動を維持しているミネソタ報道評議会や、1973年から1984年まで存在した全米報道評議会について書かれた日本語の文献は少ないようだ。先行研究例として、ミネソタ報道評議会については同志社大学教授の浅野健一氏が「ミネソタ報道評議会訪問記」を『法学セミナー増刊総合特集シリーズ』で発表している。アメリカのジャーナリズムに詳しい前沢猛氏は『マスコミ報道の責任』などで報道評議会も含めたアメリカにおけるマスコミ倫理の状況をまとめている。その他日本語でアメリカの報道評議会について書かれたものには、アメリカの消費者運動家ラルフ・ネーダーの研究機関によって行われた研究の翻訳、『ネーダー機関米国新聞に挑戦する:読者による新聞改革』、『新聞研究』掲載の伊藤慎一「新聞評議会の旅」、『法学セミナー増刊』に収録の内田剛弘「着実に活動するミネソタ報道評議会」、などがある。

 アメリカの報道評議会について日本で書かれたものは、視察結果の報告、というものが多い。そのため、報道評議会の外観については簡潔に分かりやすく書かれているが、最も重要で興味深い部分であるはずの、なぜ報道評議会はアメリカで成功しなかったのか、報道評議会に反対する理由は何か、アメリカの報道評議会の特長は、などといった報道評議会をめぐる背景についてまでは触れられていないものが多い。さらに、アメリカで書かれたものについては、英語でしか読めないというのがある。また、テーマが細分化されているので、報道評議会の問題点やアメリカで成功しなかった理由など、背景も含めた全体像が見えにくいという声もある。これらを明確にすることが、本論分のオリジナリティーである。一章では報道評議会がなぜ成功しなかったか、評議会の優れている点とそうでない点を明らかにし、二章と三章ではアメリカで唯一本格的な活動を維持しているミネソタ報道評議会の歴史や活動を論じ、それらを通じて報道評議会とはどのようなものかを見ていく。本論文を通じて、報道評議会に関してアメリカでは何が問題となっているのか、なぜ成功しなかったのか、報道評議会に反対する理由は何かなどを明らかにし、なぜ報道評議会が必要なのかを明らかにしたい。これを、成功を収めているミネソタ報道評議会を中心に論じる。

第一章:報道評議会の光と影

第一節:なぜ評議会は成功しなかったのか

 1973年にはイギリスやスウェーデンの報道評議会のように全国のメディアを対象とした、全米報道評議会が設立されたが、当初より報道各社の全面的な支持を得ることができず、その11年にわたる活動を有力メディアから無視され続けた結果、1983年に解散となった。全米報道評議会がなぜ失敗したか、なぜ報道評議会設立へ向けて数々の試みがあったにもかかわらずアメリカに報道評議会という制度が根づかなかったのか、これらにはいくつかの理由がある。

 報道評議会の活動が比較的活発である北欧諸国やイギリス、イギリスの影響が強い国々などと比較してもアメリカは国土や人口が大きすぎるという点が挙げられる。さらに、全国紙と呼べる新聞が少なく、地方紙が中心で、日刊紙だけでもその数は全国で1500を超えるなど、地理的や物理的な要因もある。また、アメリカは面積が広いだけでなく、それぞれ独特な文化を持った地域や州で構成されていて、宗教や民族も多様である。

 広大で多様なアメリカのメディアを一つの評議会が監視するのは難しいということで、州単位や地域単位の報道評議会を設立する試みは、全米報道評議会が設立されるよりも前から現在に至るまで、一部の熱意あるジャーナリストらによって続けられているが、ほとんどの試みは地域のメディア業界全体の支持を得るまでには至らなかったようである。 全米規模の報道評議会を創設し、維持することが困難なのはアメリカでも早くから指摘されていて、そのため全米報道評議会がスタートする前から、そして全米報道評議会が失敗して消滅した後にもコミュニティレベルや州レベルの報道評議会を設立しようとする試みは続けられている。それにもかかわらずミネソタ報道評議会以外の大きな成功はない。

第ニ節:評議会が優れている理由

 報道評議会は、市民に対するメディアの責任を高めようとする手段である。その理由はメディアによって基本的人権を不当に奪われた市民に対する救済や、正確で公正なジャーナリズムを促進し、政府の報道の自由に対する介入を防ぐという基本的な役割以外にも_メディア側と市民の間にはメディア一般に対する現状認識や信頼度の点で大きなギャップがあるが、市民のほうから意見を表明する手段がなければ、社会はメディアの一方的な視点ばかりで認識されていることになる。多様な視点がより自由に議論されることで多元主義的な社会を促進する。_同時に市民がメディアの役割、報道の自由の重要性、ジャーナリズムの倫理に対するジャーナリストたちの考え、現場での判断に至る過程などを理解する機会を与えることにより、報道の自由に対する市民の理解と支持をより高める。_訴訟にともなう様々なメディア側の負担を軽減して調査報道を奨励するなど、より報道の自由を高める。_それぞれ良心的なジャーナリスト個人は実際の現場の中で、必ずしもすべての行動や判断に自信を持っておらず苦悩している。そうしたジャーナリストや編集者たち個人が、自分たちがとるべき行動や決断について考え学び、実践する自由を尊重する。などがある。そうした報道評議会のメリットをより効果的にするためにも、世界の報道評議会を研究しているベルトラン(Claude-Jean Bertrand)の「報道評議会は単なる苦情処理機関に止まるべきではない」という提言は重要である。ミネソタ報道評議会では苦情の受け付けと処理のほかにも、その活動報告などによると、機関誌Newsworthyの発行、機関紙NewsNotes(不定期)の発行、メディア問題に関する公開フォーラムの開催、各種市民団体での講演、高校・大学での講演、新聞協会・放送協会の大会でのメディア倫理に関するセミナーの開催、テレビ出演、人種問題に関して、市民団体および報道機関の幹部と共同作業、などを定期的に行っており、また1996年の春からはケーブルテレビでニュースワージー(Newsworthy)という番組の放送を始めた。これは機関誌『ニュースワージー』のテレビ版で、報道評議会の苦情審理と併せて、メディアの倫理に関する様々な問題をギルソン局長が中心となってゲストとともに議論する。現在のところ番組は月に1本制作され、州内の各地で毎週繰り返し放送されている。これにより評議会は、より多くの市民の注目を集め、より多くの苦情が来ることを期待している。

 ミネソタ報道評議会はインターネットのホームページも設けているので、苦情のケースも含め、評議会の活動に関することの多くはインターネットを通しても知ることができる。もちろん電子メールで苦情を持ち込むことも可能である。ネットを通じて、誰もが自由に参加してメディアの倫理について議論するという試みも考えられている。報道評議会はその目的上、市民に存在を知られるということがきわめて重要である。市民に広く知られなくては、報道評議会の意義も半減してしまう。そのためには、ミネソタ報道評議会のように、広報活動も含めた、幅広い活動を行うことが大切である。

第三節:評議会の問題点

 報道評議会にも問題がないわけではない。本来それほどニュース・バリューがないはずの一般市民によるささいな犯罪の報道が不当な社会的制裁を加えているといった問題や、犯罪被害者なども含め事件にかかわった人のプライバシー問題にはしばしば無力である。報道内容が真実であるかぎり、すでに報道されてしまったことについては取り返しがつかない。また微罪やプライバシーを必要以上に報道されて傷ついた人が、そのことを報道評議会に申し立てて再び自らを公の場にさらそうとする可能性も低い。

海外に住んでいたときに感じたことだが、アメリカの新聞は日本のそれと比較して犯罪報道が少ない。またアメリカでは好奇心を集めるような事件が過剰に報道されていることもある。このような問題については苦情の審理とは別に対応していかなくてはならないだろう。また、全米報道評議会が消滅した時、ピューリッツアー賞受賞記者でもあるロサンゼルス・タイムズ紙のデヴィット・ショウ(David Shaw)は報道評議会の活動を評価しながらも、「報道評議会は新聞の市場独占、メディアの保有の集中、メディアの利害関係といった今日のプレスが直前する根本的な問題をあまりに放任しすぎている」と批判した。

 ショウ氏が言うように、報道評議会がメディアをとりまく社会構造といった根本的な問題に関して積極的にかかわっていくことは難しいだろう。

第二章:ミネソタ報道評議会ができるまで

第一節:功績者ロバート・ショウ

ミネソタ報道評議会はもともと新聞に対する苦情だけを対象としていたため、ミネソタ・プレス・カウンセル(Minnesota Press Council)と呼ばれていた。放送メディアはすでに、FCC(連邦通信委員会)によって規制されていることなどから報道評議会への参加には当初は消極的だったのである。しかし放送メディアの報道評議会に対する理解が徐々に深まり、1978年に報道評議会は正式に放送メディアに対する苦情の審理を開始した。そこで、プレス・カウンセルという名称では印刷メディアだけを対象としているかのようなので、1980年にその名称をミネソタ・ニュース・カウンセル(Minnesota News Council)へと変更した。

 ミネソタ報道評議会は1971年8月にスタートしたが、ミネソタ報道評議会の創設をロバート・ショウ(Robert Shaw)という人物なくしては語ることはできない。ミネソタ報道評議会の生い立ちを知る人は誰もが彼の功績を認め、一様に彼をエネルギッシュで才能とリーダーシップに長けた人物だと賞賛する。

 ショウはヨーロッパでスターズ・アンド・ストライプス紙(星条旗新聞)記者として働いた後アメリカに帰国し、AP通信に勤め、ワシントン州新聞発行者協会の理事長も務めた。ショウはかねてよりジャーナリズムの倫理に関心を抱いていたのだが、彼が携わってきた当時のワシントン州新聞発行者協会には、ジャーナリズムの倫理についてまじめに議論をするような雰囲気はまったくなかったそうである。「ジャーナリストの倫理とは」などと口にしても同僚に笑われるだけだったと彼は言う。

 ところが1950年代にワシントン州最高裁判事が音頭をとって始めた「公正な裁判と報道の自由に関する委員会」にショウは影響を与えられる。その後1965年にショウはミネソタ州新聞協会の理事に就任するが、そこでショウは彼に共感する新聞経営者とワシントンでの経験を生かして「公正な裁判と報道の自由に関する委員会(the Fair Trial-Free Press Council of Minnesota)」をミネソタで始める。ミネソタは、政治的にも進歩的で、革新的な社会制度を取り入れる風土で知られる州である。それに加えてミネソタ州新聞協会は加盟社も多く大きな組織であり、役員は比較的若く、営利目的の業界団体としてのみならず何か新しい創造的なことでも力を発揮しそうな雰囲気であった。

 ショウは持ち前の行動力で積極的に活動を広げていった。さらにこの委員会は新聞経営者らとは関係のない独立した研究会であったため、より自由にジャーナリズム一般の問題について議論することができたようだ。この時点ですでに同委員会は後のミネソタ報道評議会設立への大きなステップとなっていた。委員会はまず犯罪と裁判の報道に関するガイドラインを、新聞協会が用意した案をもとに練り上げることから始めた。これを新聞関係者はもとより警察や法曹界に配り、特に報道関係者以外から良い反響を得る。ショウは徐々に報道評議会設立の構想を膨らませていった。

第二節:報道評議会の設立へ向けて

 ミネソタ州新聞協会には当時「目標委員会(Goals and Purposes Committee)」というのがあったが、ショウはある日この委員会のメンバーである2人の新聞経営者と、報道倫理の向上のために自分たちは何ができるかということを話し合い、ミネソタ州新聞協会の理事会はこの委員会の名前を「目標と倫理委員会(Goals and Ethics Committee)」に変えて、そこで州内の新聞に対する苦情を受け付け、議論することを決めた。1969年の終わりから1970年にかけてのことである。

 同委員会の当初の構想では苦情の範囲を新聞協会内のある新聞から別のある新聞に対するもの、つまり新聞協会内で互いの新聞を批判しあうということに限定することになっていた。しかし業界部の市民が参加することが重要であるというショウの考えに賛成する仲間もいて、一般からの苦情も受け付けることになった。

もう一つ重要な問題は、苦情について話し合う倫理委員会にもメディア関係者のみでなく一般の人を参加させるべきかどうかである。これについてもショウが望んでいたとおり、市民代表のメンバーを委員会に参加させることが認められる。そして「目標と倫理委員会」は何度か草案を書き換えながら、苦情処理手続き規則を練り上げた。委員会に苦情を文書で提出する前に、苦情申立人はメディアと直接話し合うことや、委員会は一切の強制力を持たないことなど、現在の報道評議会にとっても重要かつ基本的なルールがそこで決められた。その中でも特に強調されたことは、委員会はあくまでの話し合いの場を提供することが目的であって、白か黒かという評決を出すためにあるのではないということである。カジュアルな雰囲気の中でジャーナリストが法律家らと自由に話し合う「公正な裁判と報道の自由に関する委員会」での経験から、異なる立場の様々な意見にお互い耳を傾け、とことん話し合うということがいかに有意義であるかをショウは学んでいた。

1970年10月にミネソタ大学でエリー・エーベル(Elie Abel)コロンビア大学新聞学教授『崖っぷちのプレス(Press at Bay)』と題する講演で、「アメリカの他のどの州でもできない報道評議会をこのツイン・シティ(隣接するミネアポリス市とセント・ポール市を合わせた言い方)に創ろう」と呼びかけ、ミネソタ州の各紙はこの講演の記録を大きく報じた。これをうけてツイン・シティのニュースペーパー・ギルドも労働条件の改善や、ジャーナリストの権利といった組織本来の目的を超えて、この新しい試みに感心を寄せた。また、ちょうどこの時期にミネソタ州やその他の州で、政府の側から報道評議会を設立しようとする動きがあったこともメディア自身による報道評議会の設立に拍車をかけた。ミネソタ州のある議員は法令による報道評議会設立に向けて準備を整えつつあることを表明した。この法案では、裁判官と二大政党の代表からなる評議会によって新聞が譴責されると、その新聞は1年間弁護士事務所など司法関係の広告を掲載することが一切禁止されるという厳しい処分を課せられることになる。ワシントン州でも政府の資金と州知事によって任命されたメンバーからなる報道評議会を設立する法案が提出された。アイオワ州でも政治家による同様な動きがあった。こうした法案が実現する見込みはほとんどなかったものの、メディアにとっては大きなプレッシャーとなった。こうして問題は協会の内外に波紋を広げ、より本格的な苦情処理機関の設立に向けた動きが緊急に始まったのである。

第ニ節:ミネソタ新聞協会のサポート

 1970年の12月にミネソタ州新聞協会の理事会は報道評議会の設立を承認する。そして年が明けた1971年の1月、ショウはミネソタ州新聞協会の代表と外部からのゲストを招いて昼食会を開き、そこで報道評議会の設立について具体的に話し合った。新聞協会はミネソタで最も有力なミネアポイス・トリビューン紙を代表してバウワー・ホーソーン(Bower Hawthorne)も参加した。

このトリビューン紙と、同じくミネソタ州を代表するスター紙(現在この二つの新聞はスター・アンド・トリビューンとなっている)はともに、かねてよりオンブズマンを採用して読者からの苦情を調査したり、「編集者への手紙」をできるだけ多く紙面に掲載したりするなど、読者と地域に対する良き伝統を持った新聞であった。それだけにこれらの新聞は報道評議会の設立に対して、「苦情を受け付けたらそれで終わり」という形式的な、むしろ読者の不満に対する安全弁的なものになるのではという危惧を抱いていた。しかし、結果的にはショウやその支持者たちの熱心な姿に動かされ、トリビューン紙の発行者、オットー・シーラは報道評議会設立を全面的に支持することになる。

 この昼食会では参加者が自由に、報道評議会に対する意見を交換したが、一部の出席者はミネソタ新聞協会が報道評議会に深く関わりすぎていることに批判的だった。つまり基本的に経営者たちの団体である新聞協会が、メンバーの選定から財政までのすべてを仕切るのは好ましくないということである。そこでメンバーの選定に関しては、いわゆる現場のジャーナリストたちで構成される職業ジャーナリスト協会やニュースペーパー・ギルド、ミネソタ大学などプレスに関する様々な組織と協議することとなった。

では、経営者の集まりである新聞協会の方が、はじめから一致団結してショウたちの運動を積極的に支持したかというと、そうではない。協会内部の大多数はどちらかというと無関心というのが実際のところであった。しかし幸いにもショウは彼に賛同してくれる有力な仲間を得ることができた。

 また、ミネソタ州最大の新聞であるミネアポリス・トリビューン紙とスター紙がショウの考えを支持したことは大きかった。ミネソタ報道評議会が設立したのは、この地域最大メディアの協力に尽きると言っても過言でないだろう。ミネアポリス・トリビューン紙とスター紙が参加する以上、新聞協会の会員各社は自分たちだけが孤立した悪者になりたくなかったのである。

 アメリカの他の州でも、ショウと同じような考えを持って報道評議会に向けて努力した人は少なくなかった。しかし、ショウ自身も語るように、「リーダーシップ」を欠いていたようである。さらに評議会設立までのスピードも重要だったとショウ自身は考えていたようだ。つまり面倒なことを嫌がる者も決して少なくない新聞協会のメンバーたちに、何が起こっているのかほとんど気がつかれないうちに事を進めてしまうという、一見フェアーでない方法を彼らは選択した。

 「もし私たちが民主的なやり方で、メンバー全員の投票で判断を仰ぎながらことを進めていたら、評議会はきっと実現しなかっただろう。私たちはとにかくことを進め、設立を発表し、スタートさせたのだ」とショウは後に語っている。

第四節:評議会のメンバーの選出

 具体的な報道評議会の設立にあたり、ミネソタ州新聞協会はショウを中心とした設立委員会を設け、メンバーの選定から着手した。評議会のメンバーには一般市民代表が含まれることがすでに新聞協会によって認められていたが、問題は市民代表をどういった基準で選ぶかということである。つまりどの組織やグループを誰が代表するのかということが問題となりがちであるが、結局のところ市民代表メンバーはそれぞれの組織やグループの代表として選ばれるのではなく、個人としての資質によって選ばれるということになった。もしこのメンバーたちがそれぞれ、ある人種やジェンダー、政治集団や様々な社会的組織などを代表そして報道評議会に出席して意見を述べるのであれば、この報道評議会という存在はかなりいかがわしいものとなっていたかもしれない。

 他のメンバーに先立ち、設立委員会は議長としてミネソタ州最高裁の陪席判事、ドナルド・ピーターソンを選出した。ピーターソン自身はショウたちからはじめてこのことを聞いたとき、一対なぜ自分が議長なのかと驚いたが、設立委員会は裁判官を議長にということをはじめから頭に描いていた。裁判官なら、こうした言い争いごとを扱うのは慣れているし、議事の進行なども心得たものである。しかも裁判官なら、評議会のメンバーたちや市民からの信頼も厚い。また、ショウには報道評議会の設立運動を始めるきっかけとなった、ワシントン州最高裁判事を中心とする「公正な裁判と報道の自由に関する委員会」の経験がしみついていた。裁判官を議長に置くのは、英国の報道評議会に倣ったことである。ショウを中心とする設立委員会にはミネソタ大学教授のエドワード・ジェラルドも参加していたが、ジェラルドは英国報道評議会にかつて研究員として携わった経験もあり、こうしたこともあってミネソタ報道評議会は多くの点で英国報道評議会の性格を受け継いだ。

 その他の市民代表メンバーはミネソタ大学学長であり、かつてアイゼンハワー大統領のスピーチ・ライターも務めたマルコム・ムース、新聞のキャリアもある弁護士のウォーレン・スパノス、女性有権者連合のアネット・ホワイティング、元上院議員の弁護士ゴードン・ローゼンメアー、ジャーナリズム教授のエドワード・ジェラルド、ミネソタ大学教授(アフリカ系アメリカ人研究)のアール・グレイブ・ジュニア、元ミネソタ大学の法学教授で今は都市開発の仕事をしているジェームズ・ボアマン(報道評議会は当初、新聞だけを対象としていたので彼は市民側のメンバーとなった)。

 一方、市民代表と同数である9人のプレス側のメンバーは、ミネソタ州新聞協会の幹部から選ばれた。ショウはもちろん、トリビューン紙のバウワー・ホーソーン、フィリップ・ダフ・ジュニアなど「目標と倫理委員会」で報道評議会設立に向けて中心的な役割を果たした人物もメンバーになった。唯一の例外が新聞ギルドを代表したバーニー・シェラムである。彼だけが現役の記者で、いわゆる現場の人間だった。現場の人間がメンバーに加えられたことは、やや経営者側の色彩が強い評議会にとって重要であるが、新聞ギルドは自分たちの理想に基いた報道評議会の構想を打ち建てたりもしたが、結局シュラムは新聞協会で選ばれたメンバーや市民代表メンバーたちの姿勢がギルドの考えと基本的に共通していることがわかり、共感するようになった。

第五節:ミネソタ新聞協会から独立

 1971年2月19日、ミネソタ報道評議会の設立メンバーが以上のメンバーとともに正式に発表された。メンバーは翌月にはじめての会合を開き、ショウたちが「目標と倫理委員会」で作成した新聞協会の「苦情処理手続き」を廃止して、新しく独自の「手続き」を構築することを決めた。議長のピーターソンはヘットランド(副議長)を長とした苦情手続き作成のための委員会を指名して、作業に取りかかるような依頼をする。

 苦情処理の手続きの作成にはイギリスの報道評議会に詳しいエドワード・ジェラルドも加わり、英国報道評議会の手続きをモデルにしながら8月には完成した。本物の裁判では、法律のプロフェッショナルたちがあらゆるテクニックを駆使して、自分たちに有利になるよう法律を解釈させるが、この苦情処理手続きは、もっとカジュアルな公聴会で苦情申立人が思いのままを自由に話し合えるよう、できるだけシンプルなものにした。この1971年の苦情処理手続きはかなり完成度だったようで、その後ほとんど改定されていない。

 またこの頃までに、ミネソタ報道評議会の組織機構も固まってきた。評議会は苦情の審議などを行う「苦情委員会」と、財政や事務的な運営を担当する「総務委員会」の二つを常設委員会とすることになる。

 そして1971年9月9日、議長のピーターソンは記者会見を開き、ミネソタ州の新聞に対する苦情の受付けを始めることを宣言した。その9日後には早くもはじめての苦情が評議会によって受け付けられた。苦情申立人は酒造業界のロビーイストとの関係を報じられたミネソタ州下院議員。そして苦情の被告となったのは皮肉にも、ユニオン・アドボケイト紙の編集長でショウたちとともに報道評議会設立に貢献し続け、評議会のメディア代表メンバーでもあるゴードン・スピールマンだった。

第三章:ミネソタ報道評議会の活動内容

第一節:苦情処理の手続き

ミネソタ報道評議会が英国報道評議会から採用した重要な点は、苦情処理手続きにある。一つは苦情申立人が報道評議会へ苦情を持ち込む前に、当該メディアと直接、問題の解決へ向けて可能な限りの努力を尽くさなくてはならないという決まりである。

 ミネソタ報道評議会の第一の目的はメディアと一般市民の間の相互理解を促すことである。そして相互理解のために最も有効な手段となれば、直接ひざを突き合わせて話し合うことに優る方法はないだろう。当人同士の話し合いによってメディアの側に明らかな誤りがあると認められれば、訂正の記事を出すなどメディアが即座に対応する場合もあるだろうし、その逆に話し合いの中でメディアが苦情申立人に対してメディアの立場を十分に説明して、申立人を納得させることができるかもしれない。単に報道の自由は憲法で保障された権利というだけでは、誰も納得がいかない。しかし顔と顔を向き合って、個別のケースとともに報道の自由という権利が社会的にどのような意味を持つか、メディアは社会に対してどのような意味を持つか、メディアは社会に対してどのような責任を果たそうとしているのかといったことを説明することによって怒れる市民を納得させることができるケースはあるだろう。問題は勝ち負けではなく、双方が納得したうえでそれなりの対応をすることである。

 また、苦情が報道評議会に正式に受理されるためには、問題解決に向けた当事者同士の努力が要求されるだけでなく、苦情のケースが公聴会で取り上げられるか否かは報道評議会の苦情委員会によって慎重に判断されるため、単に報道評議会に取り上げられることによって注目を浴びたいがためや、メディアの評判を貶めることを目的とした苦情の申し立てはできない。アメリカに限ったことではないが、自分たちの主張を政治に影響させようとする組織はメディアを利用する機会を常にねらっている。報道評議会は基本的に、権利を侵害された市民のためにあるのであって、政治的な主義主張の問題に関わることは目的としていない。そのため苦情の申し立てができるのは基本的に「苦痛を与えたとする報道の中で、名指しもしくはそれ以外で言及された個人・団体」「苦情申立人により指名された第三者」と規定されている。しかし、苦情委員会の裁量によって第三者である「市民一般と基本的に利益を同じくする個人・団体」の苦情も受け付けることが認められており、こうした苦情を公聴会で審議するべきかはどういった基準で判断されるのかということがしばしば問題となることもまた事実である。

 英国報道評議会に倣った重要な点のもう一つは、報道評議会に苦情を申し立てる場合、名誉毀損などの訴訟を起こさないという誓約を要求される点である。もちろん裁判で係争中の問題も受け付けない。評議会が苦情を審議する際に提供された情報や、評議会の報告、裁定文などの中で公表された事実に関しても、苦情申立人はこれらを名誉毀損や誹謗などのかどで裁判に訴えることはできない。これは報道評議会での裁定結果やそこでのやりとりが、公判で利用されることをかねてよりメディアが懸念していたためだ。ミネソタ報道評議会のギルソン事務局長は、「もし訴訟する権利を放棄する必要がなく、しかも報道評議会が苦情申立人の主張を認める判断を示せば申立人はその結果を裁判所に持ち込んで訴訟を起こすだろう。そうなればメディアは二度と報道評議会の審理に参加しなくなるだろう。訴訟の権利を放棄してこそ、メディアは安心して公聴会に出席し、苦情申立人と同じテーブルに座ってじっくりと話し合うことができるのだ」と語る。とかく訴訟社会として知られるアメリカ社会であるが、ギルソンは「申立人は喜んで訴訟の権利を放棄する」「彼らは金が欲しいのではなく、自分たちの主張が正しいと認められることだけを望んでいるのが私たちはわかった」とも語る。

第二節:評議会のメンバー

 評議会の議長は設立当初より現在まで、常に現職のミネソタ州最高裁の裁判官が務めている。これも英国報道評議会に倣ったことの一つである。市民や弁護士からの信頼において、あるいは論争を取りまとめる能力においても裁判官は議長に適任であると報道評議会は考えている。

 ミネソタ報道評議会で苦情を審理させる場合には、苦情を申し立てた者はその件について訴訟を起こすことはできないが、それでも苦情の対象となっている報道が、公判中あるいは公判前の事件に関係することは起こりうる。例えばある犯罪については犯罪そのものの裁判が行われるのであって、その犯罪についての報道を裁判に訴えていない限り、報道評議会に犯罪報道に対する苦情を申し立てることは当然可能である。そのような場合、裁判官でもある評議会の議長は、裁判の公正のために法廷外で事件についての話を聞かないよう、評議会の公聴会への参加を辞退する。 

 ミネソタ評議会のメンバーは同じ人数の市民代表とメディア代表によって構成される。現在は市民代表とメディア代表がそれぞれ12人の合計24人からなる。市民代表には様々な職業の人が選ばれているが、ミネソタ報道評議会設立までの過程のところでも見たように、特に各分野を代表して選ばれるというわけではない。1995年の市民代表メンバーの職業は、宗教家、弁護士、元会社役員、ミネソタ州教職員連盟の代表、会社社長、コンサルタント、ミネソタ州交通局職員、ボランティア活動家である。これら市民代表のメンバーの中にはジャーナリズムを大学で学んだ人や、かつてメディアで働いていた人などジャーナリズムを大学で学んだ人や、かつてメディアで働いていた人などジャーナリズムに関連した経験を持つ人も少なくない。確かに厳しい現場で職業としてジャーナリズムと接している人とは異なる一般市民の視点も重要であるが、報道評議会で審議する苦情はたいへん重要かつ微妙で繊細な問題なので、ジャーナリストとしての経験や大学で学んだ新聞学の知識も十分役に立つだろう。

 これまで常に最高裁の裁判官が務めてきた議長は市民代表に含まれる。新しいメンバーは評議会の投票によって決定される。評議会メンバーの任期は3年で、任期を二度連続して務めるメンバーもいるが、メンバーが基本的には3年ごとに入れ替わることがミネソタ報道評議会の抱える問題の一つであるとギルソン局長は言う。ギルソンは「公聴会においてどうすれば苦情申立人やメディアに対して効果的な質問ができるかということを覚えるには時間がかかります。けんか腰になる必要はありませんが、メンバーは時としてたいへん厳しい質問を投げかけなくてはならない時があるのです」と語る。

 市民代表・メディア代表を問わず、あるメンバーが苦情に直接関係しているメディアを代表している場合は、裁定の偏向を避けるため、裁判官の議長と同じように公聴会への参加を辞退するか、裁定への投票を控える。

 評議会のメンバーは全員無報酬だが、ミネソタ報道評議会には専門の職員がいる。同報道評議会が専門の職員を雇うようになったのは1997年からであるが、それまでは資金不足でとても職員に給料を支払うことなど不可能だった。ミネソタ報道評議会が発足してしばらくの間は一部のメディアから寄付される、わずか1000ドル程度で年間の雑費をカバーしており、すべての仕事はメンバーたちの完全なボランティアによってこなされていた。事務所もなく、ミーティングや公聴会はミネソタ大学の教室を借りて行っていたのである。

 ミネソタ報道評議会の事務所は現在、ミネアポリス市街の中心にある大きなビルの中の11階に入っている。同じフロアーの隣にはミネソタ新聞協会があり、その横にはミネソタ新聞財団の事務所がある。現在は事務局長のギルソンほか2名の職員が非常勤で働いている。ゲイリー・ギルソンは1961年からミネアポリス・スター紙の記者を3年間務めた後、ニューヨークやロサンゼルスのテレビ局で長い間報道やドキュメンタリーの仕事に携わる。そして1981年にミネソタに再び戻ってきてテレビで働いている間にミネソタ報道評議会へ評議会メンバーとして参加するようになった。ニューヨークやミネソタでは大学の教員としてジャーナリズムを教えた経験もあり、1992年にミネソタ報道評議会の事務局長として雇われてから現在に至っている。

 ギルソンら職員は報道評議会の活動全般にかかわるが、なかでも重要なのは活動資金の調達である。設立当初はしばらく、活動に必要な資金にメンバーの私費をあてるような状態であったのが、1996年の総収入は29万ドル以上にまで増加している。これは、単発的に大きな寄付があったりと、年によって収支額は異なる。

第三節:評議会の財源

 ミネソタ報道評議会の歳入の財源は主にメディア各社、財団・協会、企業からの寄付である。PCC(英国報道苦情委員会)の場合、年間およそ100万ポンドの運営費用はすべて新聞雑誌業界でつくる報道基準財務委員会から提供される。スウェーデンの報道評議会もやはり新聞雑誌発行者協会、記者組合、パブリシストクラブ(記者の団体)のメディア業界三団体の共同出資である。ミネソタ報道評議会の場合、もちろんミネソタ州新聞協会などメディア団体も出資している。毎年コンスタントに5千ドルを献金するが、基本的には300近い個人・団体の名が連なる献金者リストの中の一つにすぎない。

 1995年の場合、約17万ドルの財源のうち、新聞協会も含む財源・協会からの寄付が約5万7千ドル、一般企業からが約4万5千ドル、メディア各社からが約3万3千ドル、個人からが約9千ドルであった。大口のスポンサーは主に財団や基金である。アメリカでは事業などに成功し大きな利益を得た人が、奨学金や基金を設けて、自らを育ててくれた社会へ還元することがよくあるようだが、メディア業界の成功者たちも例外ではない。

 特に財政に関する規則はないが、ギルソンは報道評議会の財源について「理事会と評議会は、独立を保つためのポリシーを採用している」と説明する。つまり財団・協会から3割、企業から3割、メディアから3割、個人から1割という財源の割合が保たれるように努めているという。毎年まったく同じではないにしろ、ほぼこの均衡は保たれている。メディアの中では最有力紙のスター・トリビューン紙が毎年およそ1万2千ドルと、最も多く出資している。

第四節:苦情審理の基準

 それでは次に、苦情審理の基準について述べたい。報道評議会をめぐる議論において最も重要な点の一つは、何をもって良い報道か、悪い報道か、を判断するということである。そして、一体誰にそのような判断するのかということである。そして、一体誰にそのような判断を下す権利があるものかということをアメリカの有力なメディアは常に主張してきた。PCC(英国報道苦情委員会)には、すべてのメディア共通のPCC報道倫理網領があるが、これら倫理網領が報道評議会における判断の基準となっている。このようなメディア業界自らが作成した業界共通の網領が守られているかどうかをチェックするのがイギリスやスウェーデンの報道評議会である。

アメリカにも米国新聞編集者やミネソタ州新聞協会などの立派な倫理網領がある。こうした報道倫理網領は日本新聞協会のものも含め、内容には基本的な部分で大きな違いはない。しかしミネソタ報道評議会の場合はイギリスやスウェーデンの報道評議会のように、ある特定の倫理網領に照らし合わせてメディアが網領に違反していないかどうかを判断するのとは少し違う。

 実際にはイギリスの場合もミネソタの場合も、過去の経験の中で築き上げられてきたジャーナリストとして守るべき倫理の基本はほとんど共通しているのだが、ミネソタの場合は善し悪しを判断するというよりも、市民とジャーナリストが同じテーブルを囲んで話し合う、ということに重きを置いているようだ。

 ミネソタ報道評議会は四半世紀以上の歴史を持つが、イギリスの報道評議会は1953年創立、スウェーデンは1916年の創立と、さらに長い歴史を持つ。そういう意味では比較的歴史の浅いミネソタ報道評議会の場合は報道倫理の基準を、ジャーナリストと市民が論議しながら、評議会を通した実践の中で築き上げていこうとしているとも言えるのではないだろうか。もっともミネソタ報道評議会の創立者のひとり、ロバート・ショウは、

「ミネソタ報道評議会の目的はもともと、ジャーナリズムの倫理に関して判例法を発展させることではなかった。ただ傷ついているかわいそうな市民に、その人たちの苦情がちゃんと取り上げられるチャンスをあげようというものだった」と語っている。

 苦情は電話・ファックス・手紙・電子メール、あるいは直接報道評議会の事務所を訪れてスタッフにその場で話を聞いてもらってでも、方法は何でもよい。評議会が公聴会を開催し、裁定を出すのは評議会へ持ち込まれる苦情全体のごくわずか、毎年1割にも満たない。ほとんどの苦情は公聴会へ進むまでに、当人同士によって解決されたり、報道評議会が取り扱うべき問題ではないと評議会によって判断されている。これはスウェーデンやイギリスの場合もほぼ同様である。

第五節:苦情審理の進められ方

 それではここで、ミネソタ報道評議会に苦情を持ち込んで、その後どうなるかをもう少し具体的に説明する。まず苦情は先ほど述べたように、あらゆる形態で報道評議会へ届く。この時点では苦情はまだ公式なものではない。そこで、ギルソン事務局長を中心に、評議会のスタッフが、苦情がミネソタ報道評議会の基準に満たすものかどうかを判断する。必要があれば局長は苦情委員会に、苦情を受理するべきかどうかを相談する。評議会の基準を満たす苦情というのは苦情処理手続きで述べられているように、ニュースまたは論説の公正さ、正確さ、倫理にかかわるジャーナリズムの慣行を対象とした苦情である。基本的にはメディアの報道に直接関係しているものが申立人となれるが、直接記事に名指しで報道されたわけではない第三者の苦情も、それが市民の利益に関係するものであれば苦情委員会の判断で受理されることがある。しかしこれでは具体的にどういった苦情が受け入れられて、どういった苦情が排除されるのかということはわからない。局長や苦情委員会が好き勝手に判断できるではないか、という疑問も持たれかねない。これに対してギルソン局長は「我々はいかなる苦情であっても、苦情は苦情だと考えている。傷つけられたと感じたからこそ、人は苦情を持ち込んでくる。その感情を我々が否定することはできない。そしてメディアは自分たちのビジネスのためにも、どんな苦情があるのかを知りたい。自分たちはパーフェクトな仕事をしているから、苦情など知る必要ないと考えるジャーナリストなど、ほとんどいない。そこで、こんな苦情があるよ、と教えてあげるサービスをやっているのだ」と説明した。つまりミネソタ報道評議会は裁判所ではないし、メディアをやっつけるための団体でもない。だから公正なジャーナリズムのために、お互いに有意義な話し合いができるのなら、できる限り話し合おうということである。さらに苦情委員会が、この時点で苦情を受け付けないと判断しても、苦情は理事会に上訴することもできる。

 さて、ここで評議会が苦情を受けることが決まれば、苦情の申立人にはミネソタ報道評議会の苦情処理手続きに関する書類が送られる。この件に関して裁判を起こす権利を放棄することを約束する書類も含まれる。こうして苦情を、必要があればスタッフも手伝って、明確な文書のかたちにして届け、苦情は正式にミネソタ報道評議会によって受理される。もし報道評議会が、苦情を審理するのにふさわしくないと判断したならば、その理由を書いた手紙が申立人に送られる。この場合先ほども述べたように、理事会へ上訴することもできる。ミネソタ報道評議会は苦情を正式に受け付けると、まず申立人と苦情の対象となったメディアの双方に手紙を送る。その際メディアには苦情が文書のかたちで届けられる。報道評議会の様々な規則や、30日間の間に双方が自分たちで問題を解決すべく努力すること、30日間で解決できなかった場合に報道評議会は公聴会を開くなどが、この手紙で双方に説明される。報道評議会は30日間の期限までに、何度か双方に電話をして事態の進行状況を尋ねるとともに、お互いがさらに努力を続けて問題を自分たちで解決するよう促す。そして30日後までに双方が納得する結論に至らなかった場合、双方はこれまでの交渉内容も含め自分たちの意見を文書にして、それぞれ報道評議会に提出する。そして双方には公聴会の日程や場所などが知らされる。報道評議会のスタッフは公聴会に向けて、申立人とともに苦情の焦点をあらためてはっきりさせる作業を行う。その後、報道評議会の全メンバーには、問題の焦点が明確にされた苦情の文書がメディア側の回答文書や参考となる資料とともに送られ、メンバーはそれぞれが基本的な事情を把握した状態で公聴会に望む。

 公聴会では最大の場合で12人の市民代表メンバー、12人のメディア代表のメンバー、報道評議会スタッフ、苦情申立人、苦情の対象となったメディアの代表者が出席する。必要な場合、専門家などの証言者が出席することもある。多くの場合、公聴会は市民の傍聴が認められる。また、事情によっては代理人が苦情申立人の代わりに出席、発言することを苦情委員会が認めることもある。ただし弁護士が申立人の代わりに発言することはできない。苦情の対象となったメディアが出席を拒むこともあるが、それでも公聴会は開かれる。これは好ましい状況であるとはいえないが、苦情の裁定文にはメディアが出席を拒んだ理由も書き込まれ、市民に公表される。公聴会への出席を拒んだ場合でも、ほとんどのミネソタの新聞は「本紙はかく理由で出席しなかった」と書いて評議会の裁定文を掲載しているようだ。公聴会の一部をテレビが中継することも基本的には認められている。

 公聴会はメンバーの自己紹介で始まり、苦情申立人と「被告」メディアがそれぞれ5分から10分で、自分たちの立場を述べる。その後、評議会メンバーが双方に質問を行い、事実関係や問題点を明らかにしていく。それからメンバーは順番に、苦情が投げかけた問題に対してそれぞれの意見を述べ、最後に苦情を支持するか、反対するかを記名で評決する。公聴会の結果はすぐに報道評議会のスタッフによって書かれたプレス・リリースによって、ミネソタ全州のメディアおよびAP通信に送られる。「被告」となったメディアを含む州内各メディアはこれをもとに、ミネソタ報道評議会で話し合われた結果を報道することが求められるが、強制力はまったくない。

  公聴会の結果をプレス・リリースとは別に、スタッフは最終的な「裁定文」をあらためて詳しく書き、保管する。ミネソタ報道評議会の事務所の一室は、これらの資料を保存するために使われている。これらはミネソタ報道評議会を訪ねれば、誰でも手に入れることができる。またミネソタ大学ジャーナリズム学科のシーラ・センターでも過去のケースをすべてまとめたものが入手でき、ジャーナリズムを学ぶ学生たちはもちろん、誰もが利用できるようになっている。

終章:おわりに

 全米的な報道評議会を再建しようという動きもある。しかし、州レベル、地域レベルでの評議会の設立をめざす方が現実的であると言われている。ニューヨーク・タイムズ紙およびワシントン・ポスト紙が、全国レベルの報道評議会設立に強い反発を示していることで事実上、不可能に近いだろう。テレビ・ネットワーク局は以前よりも前向きになっており、全く不可能というわけではないが、設立に向け傾けることのできるエネルギーも資金も限られている。

ミネソタ報道評議会のゲイリー・ギルソン事務局長のもとには、全米の半分以上州から「自分たちの州にも報道評議会を設立したいのだが、どうすればよいか」という問い合わせが来ている。これには報道関係者だけではなく、市民活動家や政府関係からの問い合わせも含まれている。たいへんな反響だといえるだろう。

ミネソタ報道評議会は年に100件以上の苦情を受け付けており、また、苦情という形では現れなかった重要課題を話し合うための公聴会も開いている。例えば、ニュース組織はいかに宗教を報道すべきか、いかに身体障害者・知的障害者を報道すべきかなどで、メディアで働く記者達が集まり、意見を述べ合い、相互に学び、それに基づいて活動を行うことができる意義深いものになっている。

 機関誌も季刊で発行し、テレビ番組も週1回放映している。予算の関係で内容が変わるのは月1回である。この番組の目的は報道評議会の存在を人々に知ってもらい、もっと利用してもらうためと、こうした問題について話し合ってもらうことによって、ニュース・メディアが高水準を保つように監視してもらうためのようだ。

地域社会、ビジネス組織、学校のための様々な教育プログラムも手がけ、一般市民がニュース組織で決定権を握る人達と会話をする権利があるのだということを理解してもらうことを主眼としている。この10年間で、スタッフは2人から4人に拡充され、予算も3倍になった。

アメリカでは現在、ジャーナリズムの中枢で働いていた人物でも報道評議会を支持する人は決して少なくない。ミネソタではスター・トリビューン紙のような有力紙が最も積極的に報道評議会を支持している。それは報道評議会がプラスだと考えているからである。ミネソタ報道評議会に、全米から、報道評議会を始めたいがどうすればよいか、という問い合わせが来ていることは、27年を越えたミネソタ報道評議会の活動が意義深いものであること表れではないだろうか。国内外を問わず言えることは、日本はもちろん、アメリカでも報道評議会に対して誤解が多いことである。これは、あるいは意図的に誤解を招く雰囲気が作り出されていることによるのかもしれない。まずは、報道評議会とはいかなるものか、という議論がもっと盛り上がらなくてはならないと考える。そして報道評議会について、より積極的に議論し理解を深めることによって、現在反対している側の多くも異なった見解を抱くことになるのではないだろうか。

報道評議会という制度は、人権侵害など報道によって不当に扱われた人を救うための措置であることが第一の目的であるが、報道評議会にはそれ以上の可能性があるのではないだろうか。新聞やテレビ報道の信頼性をもっと高めると同時に、新聞やテレビがもっと面白く、読者や視聴者により親しみを持たせられるのではないだろうか。報道評議会が実際に創設され、報道評議会の活動を知るにつれ意見が変わったという例がアメリカでは多くある。報道評議会に関してアメリカでは何が問題となっているのか、なぜ成功しなかったのか、報道評議会に反対する理由は何か、などをこの論文でどれだけ明らかにするができたかは分からないが、本論文の内容がそのような効果を得られるものであると願っている。

参考文献

・『BRO年次報告書_1997年度_』

・Bertrand, Claude-Jean. Media Accountability: The Case For Press Councils.

・浅野健一「ミネソタ報道評議会訪問記」『法学セミナー増刊 総合特集シリーズ』(日本評論社、1988)

・前沢猛『マスコミ報道の責任』(三省堂、1985)

・酒井幸雄編・訳『ネーダー機関米国新聞に挑戦する:読者による新聞改革』(学書房出版、1981)

・Robert W. Schafer. The Minnesota Press Council. (MA Thesis, University of Minnesota, 1982)

・ジョアンナ・ヌーマン 『情報革命という神話』 (柏書房、1998)

・ロジャー・カラカー 『アメリカ情報革命の真実』 (ボダイデザイン企画、1995)

・アレックス・ベン・ブロック 『米国メディア戦争』 (角川春樹、1991)

・Asard, Erik., and W. Lance Bennett. 1997. Democracy and the Marketplace of Ideas: Communication and Government in Sweden and the United States. Cambridge: University Press.

・Rogers, Everett M., and Francis Balle. 1985. The Media Revolution in America & Western Europe. New Jersey: Ablex Publishing Corporation.

・Dennis, Everette E. 1978. The Media Society: evidence about mass communication in America. Iowa: Wm. C. Brown Company Publishers