(悪)夢のヴァーチャル・リアリティ


反時代的考察

萩 原 能 久

1 「ヴァーチャル・リアリティ」とは何か

 北米最初のヴァーチャル・リアリティ・テクノロジー研究開発機関であったワシントン大学ヒューマン・インターフェイス・テクノロジー研究所(通称HITラボ)副所長をつとめ、現在はワールドデザイン社の社長として、この分野の商業化に余念のないロバート・ジェイコブソンは、ヴァーチャル・リアリティ・テクノロジーの持つ意義を、まばゆいばかりのオプティミズムとともに次のように述べている。

将来、コンピュータで生成される仮想世界は「外側」の物質世界と、人間が「内側」の頭やからだの中に持つ世界との橋渡しをするのに役立つでしょう。このような超越的なプロセス、つまり内側と外側の統合によって、現代人の生き方は変わってくるはずです。・・・現代人は「世の中に住む」ことのほんとうの意味をやっとこれから知ろうとしているのです。(カール・E.・ロフラー 編 『ヴァーチャル・リアリティーズ』 技術評論社 26頁)

 無知なわれわれに「世の中に住む」ことの「ほんとうの意味」を教えてやるとする彼の尊大なまでの自負は、このテクノロジーが「経験」という概念を一変させてしまうということに由来する。
 通常、人間は外部世界と視覚、聴覚、触覚を通してつながっている。人間はそこから得られた情報を頭の中の「意味」に翻訳するだけではなく、逆に頭の中の「意味」(先入見)が邪魔をして、事実そこに存在しないものまでも知覚してしまうことがある。このように人間の知覚は気まぐれで曖昧であるが、ヴァーチャル・リアリティとは、ジェイコブソンによれば、この人間の知覚の「曖昧なルールを見つけ出し、そのルールを用いてプレーする」ものであり、通常の、面白味や感激に欠ける不確かな経験に代わって、「カラフルで、エキサイティングで、理解を深めるような」経験を、「人間と外部の環境との間に交わされるほかのタイプの知覚的コミュニケーションを真似るようにコンピュータをプログラムする」ことで得られるものなのである。
 確かにジェイコブソンのいうように、人間の認識メカニズムが退屈な、できの悪い「夢」と大差がないのなら、通常の知覚には許されない、自然法則をも社会規範をも超越したエキサイティングで心地よい、壮大な夢に酔いしれるのも悪くはないかも知れない。
 もちろん彼とて、テクノロジーというものが時には悪用される危険性を持つものであることを知っている。しかし、バーチャル・リアリティのテクノロジーは、一貫性を持たぬまま盲目に実用化をひたはしってきた旧来型のテクノロジーとはちがい、経験を拡充するものであるからその危険性はないと彼は主張する。「人間を本質的に悪であるとし、このテクノロジーの使い方を誤るような描き方」をしたSF映画『バーチャル・ウォーズ』は、彼にいわせれば安手のセンセーショナリズムにすぎない。「巧みにデザイン・配置された仮想世界テクノロジーは、異文化間の相互理解と国際平和に貢献する」ものなのであるから、ヴァーチャル・リアリティのエンジニア(すなわち彼自身)は危険なマッド・サイエンティストとして悪役扱いにされるべきではなく、むしろ「通常の状況下ではわれわれの目に触れないところにあるプロセスや関係」を見えるようにしてくれる「テクノロジー・ヒーロー」と呼ばれるべきだとまで彼は主張するのであるから、これ以上の自画自賛はない。
 ジェイコブソンの議論をここでやや詳しく紹介したのは、彼の見解がおそらくこのテクノロジーを支持し、それに期待をかける人たちの最大公約数的な見解であることを確認するとともに、そこに重大な落し穴があることを指摘したいがためである。最初に誤解を避けるためにことわっておきたいが、私は科学技術が現代社会の諸悪の根源であるとする、現代版のラッダイト(機械打ち壊し)運動のお先棒かつぎをするつもりはない。またそれとは反対に、テクノロジーはそれ自身価値中立的なものであって、ただ時に権力者によって悪用される危険性があるだけであるとする道具主義的科学技術観(ジェイコブソンもその一人である)に荷担するものでもない。問題はジェイコブソンが誇らしげに、それだからこそ危険性がないとする「経験の拡充」にある。以下で私が試みる批判の結論を先取りして述べれば、ヴァーチャル・リアリティのテクノロジーは「経験の拡充」ではなく、逆に「経験の貧困化」をもたらすものであること、したがってそれは在来型のテクノロジーよりもはるかに高い危険性を内包しているという点につきる。

2ハイパー・イデアリズムとしてのヴァーチャル・リアリティ

 そもそも、ヴァーチャル・リアリティとは奇妙な言葉である。「ヴァーチャル」という単語をためしに英和辞典で引いてみると、「(名目上はそうではないが、力・効果・効力の点で)実質上の、事実上の」という説明が第一にあがっている。だとするならば、ヴァーチャル・リアリティとは「見た目はそうは見えないが、本当はそうだという現実」を意味していなければならない。ところが実際は、「仮想現実」という日本語訳にもうかがえるように、その逆であって、「本当はそうではないのだが、見た目はそう見える非現実」を意味しているのである。それは一言でいうならば、「ニセモノのホンモノ化」である。

 もちろんヴァーチャルという言葉には特殊な光学的意味として、例えば<ヴァーチャル・イメージ>=<虚像>という用語にも見られる「虚像の」という意味もある。しかしその意味での「ヴァーチャル」という概念は、「リアル」の対概念となり、「ヴァーチャル・リアリティ」という造語は「虚像の実像」というますます矛盾した分かりにくいものとなる。
 ニセモノのホノモノ化、これ自身は消費社会において不可避の現象であり、否定的にのみとらえてはならない問題でもある。ボードリヤールも指摘するように、そもそも人間の文化というものが、最高のオリジナリティを持つ実在である自然、まさに「ホンモノ中のホンモノ」をシュミレーションすることに成立するのである。その意味では文化そのものが彼の用語でいう「シュミラークル」、すなわち模造、コピー、ニセモノとみなされなければならないが、高度の複製技術を有する現代の消費社会では、すべてがオリジナルの対応物を持たないシュミラークルと化す。そこではいわばすべてがニセモノなのであり、その中でホンモノを探し求め、ホンモノにこだわる方がフェテッシュ(物神崇拝的)であるとすら言えるのである。かつてワルター・ベンヤミンは、ホンモノという概念が「いま」「ここに」しかないという作品の持つアウラによって成り立つとしたが、今日、アウラをありがたがるのは金持ちの好事家か、霊能力者くらいのものであろう。いずれにせよ現代社会はホンモノとともにアウラをも喪失した。
 そもそもホンモノがかならずしも現実的であるわけではない。ホンモノよりも現実的な「ニセモノ」もある。そのいい例が先の湾岸戦争ではなかっただろうか。連日テレビの前にくぎづけにされていたわれわれが「ホンモノ」の戦争として見せられたのは、アメリカ軍のピンポイント攻撃の精密さであり、壮大な打ち上げ花火さながらのバグダード空襲劇であり、哀れさをかきたてる油まみれの水鳥たちであった。これがあの戦争の「現実」だったのだろうか。テレビに映し出された「現実」なるものの映像には徹底して人間の姿がなかった。不条理なかたちで大量殺戮される市民の姿も、ふだんなら犯罪行為として厳しく弾劾される殺人を誇らしげに遂行する兵士の姿も、ほとんど見せられることはなかったのである。それに比べれば「ニセモノ」の映像作品や文学作品のほうがはるかに戦争の本質を垣間見せてくれる。すぐれたフィクションは月並みなノン・フィクションよりも現実的なのだ。そうしてみると「ニセモノ」であるということそのものに問題があるのではない。問題は、それが現実とどういう関係にあるかである。
 ここでわれわれは「理性的なるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」というヘーゲルの有名な言葉を想起すべきだろう。ヘーゲルがこの言葉で強調しようとしたのは、理性的なものとは、単にわれわれの頭の中にある思いつきを指すのではなく、現実を支配し、現実のうちに実現しているものだけであるということであり、その理性的法則を概念的に把握することの重要性であった。しかし、この言葉が思惟と存在の一致を主張した観念論的なものにとどまるかぎり、結局、すべて「考えたこと」がそのまま「現実」、「存在」になるという哲学的トリックを生み出すことになるし、現実に存在しているあらゆるものを受け入れるべきであるとする無批判な現状肯定主義につながってしまう。確かにヘーゲルは現実のうちに存する理性的なものを肯定し、現実に対する否定的批判を定式化しえなかった。しかしわれわれが問題にしているヴァーチャル・リアリティはこうしたヘーゲルばりの観念論のさらに上手をいく。
 頭の中で考えたこと、心の中の願望が、そのまま具体的かつリアルなものとして再現される、これこそヴァーチャル・リアリティ・テクノロジーが約束するものである。そこにはヘーゲルに見られる理性という足かせは存在しない。いや、あらゆる制約が存在しないのである。このテクノロジーの助けを借りれば、峻厳な自然法則に従う必要はない。重力を無視した空中散歩はお手のものである。自分が考えたことがすべてなのであるから、倫理や法といったあらゆる社会規範も、どのような論理矛盾も無視することができる。無差別殺人ゲームであれ、アイドルとのセックスであれ、すべてが許される。すべての「思い」があらゆる制約から解き放たれ、現実的になるという、ハイパー・イデアリズムの世界は、ある意味で「究極の自由」の世界であるが、すべてが夢とも現実ともいえないカオスの支配する世界でもある。

3身体性を喪失した<経験>

 最近ヒットした近未来SF映画に「トータル・リコール」という作品がある。この映画は様々な意味でヴァーチャル・リアリティ・テクノロジーの行く末を暗示させるものがある。この映画の中では、本当に火星に行くよりもずっと安価に火星旅行の記憶を人工移植してくれる「リコール社」が登場する。日頃から火星がらみの悪夢に悩まされていた主人公は、このリコール社に行くことで悪夢の解消を図るのだが、この映画のオチは自分で火星に行った事がないと思い込んでいた主人公が、実は秘密捜査員として火星での極秘任務についていたこと、そして平凡な労働者であると思っていた自分の記憶の方が、秘密漏洩の防止のために後から植えつけられたニセの記憶であったことが判明することにある。だがこの映画を見終わった観客には、映画のハッピーエンドにもかかわらずカタルシスはない。第一には、主人公が紆余曲折の末に発見した事実もまた、記憶をいじられることで植えつけられた幻想かもしれないという当惑が拭いされないからである。それはいわば「夢を見ている夢」だったのではなく、「夢を見ている夢」をみている夢・・・と無限に続く循環の中に閉じ込められた自分の居心地の悪さである。現実と夢との区別がもはや意味をなさないこの映画の世界は、テクノロジーによってわれわれの記憶が撹乱され、<経験>がまったく無意味なものと化す近未来バージョンの悪夢を予感させる。元来、経験という概念は、17世紀頃に「見かけ」と「現実」との間の認識論上のギャップを埋めるために発明された(A. マッキンタイア 『美徳なき時代』 みすず書房 99頁)文化的装置であるが、虚と実、夢と現実がメタ・レベルにまでさかのぼってすら決定不可能となれば、<経験>という文化装置はもはや作動しえないのである。しかし、この映画が暗示している近未来テクノロジーによる経験の破壊はそれにとどまらない。
 経験とは本質的に私秘的なものである。私に「そう見えた」ものは、少なくとも私にとって「そうであった」のと同義なのである。われわれは、ある景色を見て「美しい」と感動するが、他人にはそう見えなくても、また事実として月並みな風景であっても、その景色はそれを見て感動した人の中に「美しい景色」という事実として残りつづける。唯一それが覆りうるのは、再びその場所を再訪し、幻滅を自分自身で味わう時のみであろう。ありていに言えば「あばたもえくぼ」が「経験」の本質なのである。しかし記憶に蓄積されるその経験が他者によって操作されるとしたらどうか。たとえ夢としての経験であれ、その夢を見ているのは自分自身なのであるから、かりにその夢がだれか他人によって造られた夢であっても、それが本当に自分の経験であると思えてしまうところが恐ろしい。近代の初頭にあって、徹底した懐疑のすえに、いまこの懐疑の瞬間に疑いつつあるその私の存在は疑うことができないとして「われ思う、故にわれあり」という確実性の不動の一点を発見したのはデカルトであった。しかし記憶と経験が他者によってすりかえられるテクノロジーの完成は、最もプライベートな確信性の拠点である「私」の存在をも破壊するものとなるだろう。
 これは確かに、ヴァーチャル・リアリティが、最近批判されることの多い近代的世界観とデカルト的な自我を解体させるポスト・モダン的なテクノロジーになりうることの証拠として、むしろ肯定的に評価すべき点なのかもしれない。しかし私にはそうした<ポスト・モダン的な人間>が、自我も経験も現実も超越したあげくに、いまなお「人間」として自動機械とどのような相違があるのかわからない。また<人間は自分の願望や利害に都合の悪い真理よりも、自分に迎合してくれる欺瞞の方を好む>という、古来から真理とされてきた命題が、なぜポスト・モダンの人間に反証されるのかもわからない。
 そもそもヴァーチャル・リアリティにかぎらず、あらゆるテクノロジーは人間の肉体と精神の作用をシュミレートし、その一部を代替させるものとして成立したものであると言える。カメラは目と記憶をシュミレートしたものであるし、工業ロボットは人間の肉体労働のプロセスをシュミレートしたものである。機械とは、いわば人間の肉体の外側に拡張された脳と筋肉の代用品なのであり、そのかぎりですべてのテクノロジーは有用性を持つ。問題は身体の外に向かって拡張されたはずのテクノロジーが、逆に内に向かって拡張され、主人たる脳と筋肉を奴隷化してしまう状況にある。私は何も、ロボットが人間を支配するという映画『ターミネーター』の状況を念頭においているのではない。例えば今日でも、多くの人はすばらしい景色や、自分のこどもの成長という感動の一瞬を、その場で、自分の身体で受け止めるかわりに、カメラやビデオで撮影することにやっきになっている。そしてそこで撮られたフィルムやテープは、二度と取り出されることなく引出しの奥に放置されている。感動は、はじめから終わりまで、人間の身体にまで届くことはなく、機械の中で風化するにまかされているのである。
 経験というものは、繰り返し述べてきたように、本質的に一回かぎりのものであり、あいまいなものたらざるをえないし、そうした不確実なものとして受けとめられなければならない。ところが人間はそのことにおびえ、不安を感じてしまい、自分自身よりも、テクノロジーが約束する確実性に依存してしまうのである。かくして手段が目的に転化し、現代人は自らのシュミレーションであったはずの機械をシュミレートすることにちまなこになってしまう。これは近未来SFではなく、現在進行形の姿なのである。
 このような現状を前にしてヴァーチャル・リアリティ・テクノロジーを「経験の拡充」と手放しで礼賛することがどうしてできようか。身体の外側にではなく、内側に向けて拡充されるテクノロジーは、必然的に「経験」の画一化と統制にたどりつき、ただでさえ弱体化されつつあるわれわれの経験を徹底的なまでに貧困化させる危険性に満ちているのである。

 この私の反時代的なヴァーチャル・リアリティ・テクノロジー批判を取り越し苦労だと笑う人もいるだろう。思ったことが現実となると言っても、それは単にディスプレイ上のことにすぎないし、記憶の操作までこのテクノロジーは意図していないとの反論も当然予想される。しかし、人間の目とは人体の外部に突き出した脳の一部であること、またテクノロジーの進歩とは、それ固有の論理に従って突き進むものであることを今一度われわれははっきりとみすえなければならない。というのも、二次元映像から三次元映像に進化しつつあるディスプレイの究極の姿とは、「コンピュータがそこにある物の存在を制御できる部屋」だからである。

その部屋の中で提示された椅子は、座ることができる。その部屋の中で提示された手錠はかけられるだろうし、その部屋に提示された弾丸は致命傷をおわすことになろう。適切にプログラミングされることで、そういったディスプレイは文字どおりアリスが歩いたワンダーランドになることができる。(I. Sutherland, "The ultimate display" 浜野保樹『イデオロギーとしてのメディア』94頁より引用)

 ワンダーランドは、外からたまに垣間見るかぎりは楽しい世界かも知れない。しかし忘れてはならないのは、アリス当人にとって、それは悪夢の世界以外のなにものでもなかったということである。



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