目次



4/13 第一講 政治哲学は可能か?< (予定)

1) 学問としての政治哲学?
  政治哲学は「われわれは何をなすべきか」という問題に答えるものか。また、それを教えることは可能か。

ウェーバー的意味で不可能である。

トルストイはいう、「学問は無意味な存在である、なぜならそれはわれわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとも答えないからである」と。学問がこの点に答えないということ、これはそれ自身として争う余地のない事実である。…中略…ある研究の成果が重要であるかどうかは、学問上の手段によっては論証しえない。それはただ、人々が各自その生活上の究極の立場から、その研究の成果が持つ究極の意味を拒否するか、あるいは承認するかによって解釈されるだけである。
   マックス・ウェーバー『職業としての学問』、岩波文庫42〜4頁


カント的意味でならそれは矛盾である。(教育と洗脳、あるいは「他律」による「自律」の形成?)
 啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは、彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから、「敢えて賢こかれ!」(Sapere aude)、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」−−これがすなわち啓蒙の標語である。
  カント『啓蒙とは何か』、岩波文庫7頁

*教師(他律)による学生の「自律」形成は他律でしかない。「知による自己解放」(ポパー)、上からの啓蒙ではなく、下(あるいは内側)からの啓蒙にしか期待できない。

そもそもアレント的意味で政治哲学は(全体主義という20世紀の経験の後で)可能か。

政治哲学は政治に対する哲学者の態度を必ず示す。すなわち政治哲学の伝統は、哲学者がいったんは政治に背を向けながらも、自分の尺度を人間の事柄に押しつけようと政治に立ち戻ったときに始まった。その終焉は、哲学者が政治のうちに哲学を『実現』しようと哲学に背を向けたとき到来した。
  アレント「伝統と近代」

政治を廃棄する哲学、哲学を廃棄する政治
プラトンとマルクス:「哲学」と「政治」の「イデオロギー」と「デカダンス」への変貌
知(学問)と力(暴力)・・・20世紀の全体主義の経験(暴力と知の結託)のあとで、それでもまだ「政治哲学」は可能か?
アドルノの問い:「アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮である」(『プリズム』)
あるいは「アウシュビッツのあとで人間はまだ生きることができるか」(『否定弁証法』)

2) 事実と価値
実証主義の科学観:科学とは厳密な観察データに基づく「事実」の説明と予測のみを扱うものであり、世界を客観的に記述した「真理の体系」である。経験的な事実によって検証不可能な命題、端的には「価値」の問題は無意味であり、科学外のものとして、学問の対象にはなりえない。
 -->政治学からの政治哲学の追放  -->「自然科学」と「社会科学の区別」と「厳密さ」、「客観性」に欠ける社会科学
没価値的科学と「科学の危機」

社会科学と価値問題 1)社会科学の対象としての価値: 価値の存在自体は社会科学の重要な対象
2)社会科学の価値前提: これを禁じることは望ましくもない。
3)社会科学における価値自由: どの価値を信じるかは学問の対象外

価値自由
 20世紀の初頭に、ドイツで価値判断論争が行われた。歴史主義学派の経済学者シュモラーが倫理的理想を歴史的に把握し、この理想によって社会問題に実践的・政策的提言を行うべきであると主張したのに対して、マックス・ウェーバーは社会科学的認識において、認識の客観性を保つためにはそこに実践的な価値判断を持ち込んではならないと力説した。ウェーバーのこの要請は、しばしば科学から一切の価値の排除を求めたものと誤解されてきた。しかしたとえば、キリスト教の信仰や、ある政党への忠誠心といった<価値>を社会科学は当然、研究対象とすることができるし、また問題設定や、題材の選択の際に働く研究者の価値判断もウェーバーはむしろ積極的に認めていた。否、こうした価値判断の禁止を研究者に要請することは、人間であることをやめよという要求に等しい。ウェーバーが問題にしたのは、社会科学の命題自体が、どの程度まで価値判断的な性格を持つか、持つことが許されるかということであり、社会科学の議論が、どこまで事実の学問的論究であり、どこからが読者や聴衆の感情に訴えかけようとしている価値判断的推論なのかを、読者や自分自身に対して峻別せよという要請だった。彼は社会科学者がある価値にドグマチックに固執することで社会科学がイデオロギー化することを何よりも避けたかったのであろう。こうした彼の主張の根底には、価値の妥当性を評価することは究極的には信仰の問題であり、それは異なる価値観どうしのあいだでの神々の戦いをもたらすものであって、科学がそれに決着をつけることはできないとの考えがあったと推測される。
 ウェーバーは客観性なるものを主観の外側に、それと無縁に存在するものとはとらえず、「価値判断」と「知的禁欲」の緊張関係の所産として、認識者によって主体的に形成されるものととらえ、この価値自由の要請を、研究者に対する「知的廉直さ」を求める道徳的要請として定式化した。この道徳的要求はたしかに重要ではあるが、解決策としては拘束力が弱すぎる。また彼は学問をあまりにもモノローグ的にとらえすぎている。その意味で、この価値自由の原理をどう担保していくかは今日でも未解決の問題と言えよう。

相対主義?
「究極の価値」間の対立=「神々の戦い」という相対主義?
われわれの生における決断的・価値的領域には、かなりの多くの部分、事実的要素が価値的要素と絡み合って存在する。それを学問は明らかにできる。また究極の価値対立ですら、議論を行い、対立する双方の「違い」を発見、確認することができる。
もし君がある特定の価値による方向づけを信じているならば、君には正義はこの秩序にしたがって、不変で<標準化>されたものに見えるだろう。だが別の秩序を信じている他の人間にとって、正義は別の外観を呈しよう。選択したまえ。そしてぼくに、君の言う正義がどのようなものであるか言ってみたまえ。ただし正直に、まじめにだよ。
君がそれをぼくに言うまでは、ぼくは他のものがどうか言うことができない。だけど君がそれをぼくに言ったら、多分、ぼくは君に言えるだろう。君の選択がどんな帰結をもたらすことになるか、どんな危険を君が冒すことになるのか。そうしたら君は君の選択を変えるかもしれない。また何が至上の価値かということについての君の考えが結局まちがいだったと君にわかるようになるかもしれない。
  A Brecht, Politische Theorie. 1961

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4/20 第二講 「知」とは何か

ソクラテスの「不知の知」
ソクラテスの「無知の知」をめぐる誤解
       (参照:『思想』2003年4月号、納富信留論文)
クザーヌス的なdocta ignorantiaとの混同


「ソクラテスの不知」と近代の知性

ここでソクラテス的な「不知の知」、自分が知らないということを自覚することが必要となるが近代科学はこれを許さない。
 -->「全知全能」の神になりかわろうとする近代科学の決定論の神話
 -->「自由とは必然性の洞察である」(エンゲルス)という名(迷)言
Wiisenschaft macht uns frei (?)

非決定論と可謬論
誰が「すべてを知る」ことなどできよう(cf. 経済学の「完全情報」、「完全予見」などの仮定)。
非決定論(必ずしもすべての出来事がそのあらゆる極微の細部に渡って絶対的正確さをもってあらかじめ決められているわけではないという教説)的な、あてにならない「知」を前提にせざるをえない。この前提から何ができるか。

アインシュタインとアメーバー
「アメーバーとアインシュタインは同じことを行っている」(ポパー)
試行錯誤の方法: P1 --> TT --> EE --> P2
P1:問題状況 TT:暫定的仮説 EE:誤りの除去 P2:新たな問題状況

アメーバーとアインシュタインの違い
失敗: アメーバーの場合は個体の死
人間は自覚的な批判によって仮説(期待)をつぶし、個体死のかわりに理論に死んでもらうことができる。

認識論と政治


 知識の「バケツ理論」と「サーチライト理論」(ポパー)

*「目でものを見る」のではなく、「頭」でものをみる人間
フィッシャーマン・モデル: 科学は現実という対象に網を投げかける行為に似ている。
(どの方向に、何を狙って、どういう網を、投げかけるか)
   関心   目的    方法     実践
*学問はこれらのあり方によってその姿をまったく異にする。

認識主体なき認識論 <世界3>論

相互の批判的討論によって世界を共有することのできる<われわれ>

政治科学と政治理論(政治哲学)
最古の学問である政治学
20世紀における「科学」と「哲学」の分裂と哲学の非学問化

政治「理論」の課題
政治科学 political scienceに対する政治理論political theory
theoriaのもともとの意味・・・解放的行為としてのtheoria

  1. 観察
  2. 経験の集積
  3. 新たな展望の獲得
  4. 観察された事象の評価
政治科学と政治理論
political sciencepolitical theory
予測警告
「客観的」選択的、意図的誇張
確実知実践的方向付け、
未来への展望
episteme/phronesis/techne
政治科学  政治理論
 記述・説明
↑法則的知識epsteme↓
   予測

 批判・警告
↑実践的賢慮phronesis↓
方向付け・展望


 政策科学
技術知↑techne
「批判(Kritik)」と「危機(Krise)」の連関
「危機」とは常に二重の危機である。すなわち、現実の危機と、その現実を捉えることのできなくなった旧来の理論の危機である。批判によって学者仲間のうちに古・新の対立が形づくられ、それによって未来と過去をひきさく時代理解が形づくられる。その意味で危機と歴史哲学は相互依存関係にある、というより同一のものである。
     参照: R. コゼレック『批判と危機』、未来社
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4/27 第三講 言葉と学問

【補足説明】規範的理論と経験的理論
これは私の言うpolitical scienceとpolitical theoryの区別とは異なる。

『現代政治学小辞典』における「規範的理論」の記述
社会科学において一定の価値評価や理想を含んだ理論。法解釈学や政治制度論、政策科学や平和研究などは、この例である。さまざまな政治理念の吟味もごれに属する。経験的理論と対照させて用いる。
しかし、私は、価値評価はすべての科学に必要であると考える。
理想、あるいは規範は「非現実的」か?
 →「現実」を測定するために必要な「規範」
  ex.憲法の「規範力」・・・constitution=国のあり方
これは私の言うpolitical scienceとpolitical theoryの区別とは異なる。
「歴史の渦」への適応をリアリズムの名の下に正当化し、原理への執着をドグマティズムとして切り捨てる傾向がますます強まっているように思われる。・・・特定の価値にあえて与し続ける思想のモラルの解体が異論の不在を生むことによって思想の翼賛体制と結びつくとすれば、われわれは、現在、その危険性の極めて高い時代に生きていると言わなければならない。
               加藤節『政治と知識人』

言葉と学問・・・道具としての言葉?
言語によって「創造」される人間‥‥ヨハネ福音書とジャック・ラカン

言語=「多機能響導システムdas plurifunktionale Fhuerungssystem」のひとつ

┌・情報伝達
├・行動制御(他者操作)
└・情緒的反応喚起
           参照: E.トーピッチュ『認識と幻想』、木鐸社

 *学問が「人工言語」を使うことで「情報伝達」に機能特化できるか?

古典的レトリック

┌・ロゴス:聞き手の理性への訴えかけ
├・パトス:聞き手の感性への訴えかけ
└・エートス:話者の誠実さの訴えかけ

「詩」と「学問」
詩:イメージの異化作用、「意味」の解体と撹乱
学問:言語の意味の一義性、意味の連鎖の体系
    -->「定義」の重要性
「冷ややかに対象化され、あたかも昆虫の標本をつくるときに、殺された昆虫がピンでとめられた」(中村雄二郎、『術語集』、岩波新書v頁)ような味気ない学問の用語

  ┌意味内容・・・論理学用語で「内包」
概念┤
  └適用範囲・・・論理学用語で「外延」、「クラス」

「定義」のあり方
  ・内包的定義と外延的定義
  ・「定義」(言葉・記号)と「定義されたもの」(事物、対象たる現象)の関係は?
   例:「慶應ボーイとは独立自尊の人である」
  1 経験的分析として:真偽あり
  2 意味分析として:真偽あり
  3 規範命題として:真偽なし、ただ正当か不当か
  4 定義として:真偽なし、ただ適切か不適切か、あるいは首尾一貫して使っているか

*この四者は「命題」として同一形式をとっていても、ステータスが異なる。

不適切な定義
  1 否定のみからなる定義
2 狭すぎる定義(水もれがある)
3 広すぎる定義(違うものも含まれる)
4 まず定義されるべき事物によってなされる定義(循環論法)
5 内容ではなくその定義の適用範囲を挙げたもの(これは定義ではなく定義の検証)
6 不明確、両義的な定義(他の概念と区別できない)
7 常識外れの定義

定義の無効
1 矛盾が生じる
2 説明できない事態が生じる

概念実在論争(定義はモノの本質の見極めか、単なる約束事か cf.プラトンの「イデア論」)

参照:碧海純一『法哲学概論』(弘文堂)
実在(実念)論唯名論
本質論(essentialism)操作的(operational)概念
実質定義(real definition)名目(唯名)定義(nominal definition)
事物の本質を定める。判断表現の意味を定める。非判断
本質把握(真か偽か)約束事。真偽なし(情報含まず)

実際に果たしている役割による定義の区分
        ↑       ┌ 言葉の置き換え
   ┌唯名論(名目定義)   │ tautology
   │            ├ 記号説明
定義 ┤           ─┤
   │            ├ 辞書的定義
   └実念論(実質定義)   │ lexicographical def.
        ↓       └ 約定定義
                  stipulative def.
                       └─ 説得定義
                          persuasive def.
「説得定義」とは何か
例としての「自由」の観念
自由(英)liberty; freedom 最も一般的な定義を下すとすれば、それは個人が他の個人や集団から制約されることなく自己の意志に従って行動しうる状態といえよう。それは強制「からの」自由である。しかし近代以降においては、それはより積極的な行動「への」自由としても展開される。すなわち、個人の行為が社会的行為として展開されるようになると、各社会領域ごとの自由が要求されることになるのである。いわゆる自由権ないしは市民的自由と呼ばれるものがそれである。
説得定義
 1) 事実記述の形をとった説得・強制
 2) 都合のいい定義変更(「真の…」あるいは「より本質な…」)

もし自由を欲するならば、囚人にならなければならない。これこそ自由 の−−真の自由の−−状態なのである。(オールダス・ハクスリー)

われわれがつねに「世論」といっているものは、自分でえた経験や個々人の認識にもとづくものはごく小部分だけで、大部分はこれに対して、往々にしてまったく際限なく、徹底的にそして持続的にいわゆる「啓蒙」という種類のものによって呼びおこされるものである。信仰上の態度決定が教育の結果であり、宗教上の要求それ自体が人間の内心にまどろんでいるに過ぎないのと同様に、大衆の政治的意見もまた往々にしてまったく信じられないほど強靭で徹底的な加工を、心と理性にほどこした究極の結果であるにすぎない。
ヒトラー『わが闘争』より

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5/11 第四講 言葉と政治・・・われわれこそ道具たる言葉に使われている?

説得定義と政治学
「デモクラシー」という用語
19世紀にはまだ、衆愚制に転化する危険をはらんだ政体のイメージ
   ex.トクヴィル『アメリカにおける民主政』
第二次世界大戦後:すべての政治体制がそれを自称するプラスイメージ
・・・ダールが「ポリアーキー」なる新造語を必要としたゆえん

信用できない「政治学辞典」:その正しい使用法
『現代政治学小辞典』新版、有斐閣『新編 社会科学辞典』、新日本出版社
デモクラシー democracy ド Demokratie フ democratie 民主制、民主主義。厳密に理念的に見るならば、デモクラシーとは、全人民の主体的な政治参加ないし全人民による自発的な秩序形成にほかならない。しかしあらゆる政治制度は、全人民による自発的な秩序形成が現実には不可能であり、その徹底的な追求はむしろ無政府状態を招くという前提に基づく。したがってデモクラシーの理念は、現実政治にとっては超越的理念たらざるをえない。他方、デモクラシーには、社会の統合への要請にも続く別の側面がある。すなわち、社会の統合のためには、社会状況に関する情報の伝達とそれに基づくフィードバック作用とが必須条件であり、国民の政治参加は、こうした条件を充たすものとしても要請されざるをえない。ただこうした社会統合の立場から要請されるデモクラシーは、統治の必要性と両立する範囲内でその具体化を求められるにすぎず、その意味では部分的なデモクラシーである。こうしたデモクラシーは容易に支配のシンボルとして支配する。これに対して、理念としてのデモクラシーは、むしろ抵抗のシンボルとして機能するといえよう。[内山] 民主主義 国民主権を基本とする政治形態、および成員の意思決定への参加がじゅうぶんに保障されている組織のあり方や、それをめざす思想、運動をさす。
  <中略>
近代民主主義は、搾取の自由を絶対視するなど、本質的にはブルジョアジーの支配に役立つ範囲内にかぎられていた。19世紀、プロレタリアート解放の思想、運動としてうまれた科学的社会主義は、近代民主主義を継承、発展させ、搾取の廃止、階級対立の廃絶を実現することによって、その限界を克服する実質的うらづけをあたえ、真の民主主義実現のための道すじをあきらかにした。とくに民族自決権の完全な保障を民主主義に不可欠な原理としてはっきりと提起した。科学的社会主義は、国家権力そのものが死滅し、民主主義そのものが不要となるようないっさいの強制と隷属のない「真に平等で自由な人間関係の社会」である共産主義社会の建設を展望している。

民主主義理論は、現代国民国家体系の道徳的エスペラント、諸国民を間違いなく連合する言語、現代世界の公的標語である。だがそれは実にいかがわしい通貨でもある。文字通りの間抜けでもなければ、それを額面どおり、言葉どおりに受けとる者はいないであろう。
   J.ダン『政治思想の未来』
Meyer‐Konversationslexikon:その1924年版と1936年版の比較
出典:Claus Mueller, Politik und Kommunikation. Muenchen 1975
Abstammungsnachweis
「血統証明」
1 家畜飼育
2 ドイツ系、ないしは近類血統であることの系図学的証明
Arbeitsdienst
「労働奉仕」
1 労働の強制
2 国家社会主義的民族共同体の為の一大教育授業
Blutschande
「血の恥じ」
1 近親相姦
2 非アーリア人との肉体関係
Blutvergiftung
「血液汚染」
1 敗血症
2 民族、人種の頽廃現象
fanatisch
「狂信的な」、「熱狂的な」
1 否定的意味をこめた形容詞
2 肯定的意味をこめた形容詞
hart
「断固たる」
1 否定的意味をこめた形容詞
2 肯定的意味をこめた形容詞
Intellekt
「知性」
1 創造的能力
2 本能とは異なり・・・批判的、反体制的、破壊的性格を特徴づける為の概念
Konzentrationslager
「強制収容所」
1 南阿戦争(1892−1902)当時に、イギリスによってブール人民間人を収容するために設置された施設。そこでは大量の女性、子どもが死亡した。
2 より正確には管理・教育収容所。1933年以後は、1)公序良俗犯を収容する、2)共産主義者やその他のナチス国家の敵対者を一時的に無害化し、有用な国民に教育する事をその目的としている。
organisch
「有機的な」
1 有機的な
2 肯定的評価の形容詞。・・・血と土から自然に成長してきたものをさす。例:悟性的図式の専制を免れた有機的哲学(ローゼンベルク「20世紀の神話」)
ruecksichtslos
「情け容赦のない」、「傍若無人な」
1 おもいやりのない、相手のことを顧慮しない
2 国家社会主義の言語では、きわめて肯定的意味を持つ。目標一途、工ネルギッシュとほぼ同義。敵にたいして言われる場合には、この語は従来どおり、否定的意味となる。
Hass
「憎悪」
1 憎しみ
2 正しい側から使われた場合には肯定的意味。例:「北方人種の英雄的憎悪は「ユダヤ人の臆病な憎悪」に真っ向から対立する。」
Zuechtung
「育種」
l 飼育
2 例:新しい人間の意識的育種によって、一国家の再生が現実のものとなった。(ヒトラーの1937年演説より)

サピーア=ウォーフの仮説あるいは「定義ファシズム」(田中克彦)・・・道具たる言葉に使われている私たち
弱い仮説:ある社会に住む人の世界観は、その社会で用いられている言語の構造から何らかの影響を受ける。
強い仮説:ある社会に住む人の世界観は、その社会で用いられている言語の構造に完全に支配・決定される。

どこか変?エンゲルハート・シューレ
虹は5色? 6色?
虹は3色
虹は7色
・すべての色は、三原色(青、黄、赤)から作られるし、またカラーテレビなどの光の場合、三つの発光色(青、緑、赤)からカラー画像を作っているのだから、虹も三色(あるいはグラデュエーションを含めても六色)と言うべきではないか?
虹の場合はグラデュエーションをまだ一色と数えることができても、政治の世界は「中間色」を許容しない!

サピーア=ウォーフの仮説、観察の理論負荷性、三世界論
 虹は7色だとわれわれは思いこんでいる。しかし、本当に7色見えているかだろうか。そこに7色を探してはいないだろうか。
 前回の講義でサピーア=ウォーフの仮説に言及したが、実は虹が何色かは言語・文化圏によって異なるのである。古代ギリシァのアリストテレスは4色としているし、現代のドイツ語世界では5色という人がふつうのようである。
 同様の事態を示す用語として、科学哲学の世界では「観察の理論負荷性」という言葉が使われている。いわゆる「生の事実」などというものは存在せず、ものを見るという行為、いわゆる観察はすべて、すでにそれ以前に習得した知識の観点からする解釈だという主張がそれである。虹は観察によって7色が確認されたから7色なのではなく、7色だと言語的に教えられているから、そこに7色が見えるのである。そうだとすると、個別的観察事例を積み重ね、そこから一般化して普遍命題を導き出すという、科学方法論で「帰納法」と呼ばれている方法は疑わしいものとなる。なぜならホーキングという物理学者も言うように「人間は、認識したいと思っていることをそこに認識する」からである。
 ここで興味深いのがポパーによって提唱されている三世界論だろう。彼は三つの世界を区別する。世界1とは物理的事物、物理的状態の世界である。世界2とは、私たちの意識、心的状態の世界であり、世界3とは客観的思考、特に人間精神の知的・文化的産物の世界である。世界3は世界1たる自然が生み出した人間の、そのまた意識、つまり世界2が作り出したものだが、一度生み出されれば、世界1からも世界2からも自律した実在となる。この3つの世界の関係は、進化の産物である脳が言語を作りだしたのだが、その言語が今度は脳をつくっているという例によって理解することもできよう。われわれの認識とは、世界2である意識が、それが精緻な理論であれ、とるにたりない偏見や漠然とした期待のようなものであれ、世界3を通して世界1に接触することだと考えるのが三世界論である。この知識論の応用範囲は非常に豊かな広がりを持つ。

ことばは、人間としての生活を可能にしている基本的な用具であると同時に、またそれゆえにこそ、人間のあり方そのものを、すみずみまで限定し、拘束する機構である。
田中克彦『国家語をこえて』、筑摩書房169頁(同著者『ことばと国家』岩波新書も併せて参照)

*サピア=ウォーフの仮説は一種の循環論法であり、検証も反証も不能な仮説ではあるが、それでも重要な指摘である。

*学問上の「定義」は、言葉をより使いやすい道具として洗練させると同時に、スポットライトからはずれたある特定の側面を見えないようにする、隠蔽機能も持つ。

言葉と国家
近代国家……西ヨーロッパで誕生(中世以前には「民族意識」などない)
人的結合概念(nation)と権力機構(state)の二元性の上に作られたフィクションとしての国民国家nation-state
習俗/習慣/言語の自然的・生物的結合体(Ethonos)という自然的境界と権力機構の人為的境界(国境)のギャップをどう埋めるか?

人民とマルチチュード
  人民・・・国民の本来的土台?
  事実は人民という近代的な概念はnation stateの産物

「人民は、自己の外部に留まり続けるものとの差異を呈示し、またそれを排除しながら、内的な同一性と均質性とをめざそうとする。・・・あらゆる国民はマルチチュードを人民へと仕立てあげなければならないのだ。」
        ネグリ/ハート『<帝国>』
  -->強力な言語(教育)政策(特にナポレオン以後のフランス)



最強のイデオロギーとしての言語
「言語」というあらゆる自明性の<自然的>供給源に<人為的に>介入する国家権力の作用は、もっとも「透明」であり、もっとも「効果的」である。

何が「方言」で何が「国家語」か?
  『最後の授業』(ドーデ作)の欺瞞
近代国民国家(nation-state)に固有のジレンマ
絶対君主という一人の人間に集中させられている限りは、まだ成り立ちえた「最高にして絶対、唯一、不可分であり譲渡されえない」という「主権」の属性を、「人民」という不特定多数の人間集団に帰属させようとしても、そのままの状態では維持不可能。
 -->多様な人間を一つのnationに束ね上げる神話的イデオロギー(言語による一元化はそのひとつに過ぎない)
現代国家の一元化神話
1)少数者の利益・意見の「公益」、「世論」化    (政治社会システム)
1)市場メカニズム(見えざる手)による不平等の是正   (経済システム)
2)「国民の意志」の表出装置としての「民主的」選挙 (政治過程システム)
3)大衆社会・消費社会の同質性神話             (生活世界)
4)「一民族、一言語、一国家」という二〇世紀の神話 (国際政治システム)

神話の露呈としてのユーゴスラビア、冷戦後の世界
 nation≠stateの実態

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政治的なものの概念

5/18 第五講 古代ギリシアにおける政治の発見
【質問に答えて】
マルチチュード、人民、国民
マルチチュード:多数多様性multiplicity、諸々の特異性singularitiesからなる平面、諸関係からなる開かれた集合体であり、均質なものでもなければ自分自身と同一のものでもなく、自己の外部にあるそれらの特異性や諸関係を別個のものとして区別せずに、それらと内包的な関係性を持つ。<--inconclusive constituent relation
人民people:自己の外部に留まり続けるものとの差異を呈示し、それを排除しながら、内的な同一性と均質性をめざそうとする。<--constituted synthesis that is prepared for sovereignty
Every nation must make the multitude into a people.
Thomas Hobbes, De Cive
「人民とは一つの意志を持ち、一つの行動がそこに帰されるような、一である何ものかなのである。・・・あらゆる統治において支配しているのは人民なのである。なぜなら君主制においてすら、命令を下すのは人民であるからだ。換言すれば、そこでは、ひとりの人間の意志にもとづいて人民が意志をいだくからだ・・・逆説的に見えるかもしれなが、王は人民なのである。」

近代民主主義の原型としてのポリス?
ポリスとは何だったか
ポリスは都市でも国家でもない。それは地理的・空間的観念ではなく、「現れの空間」である。
H.アレント『人間の条件』 p.320
「ポリスの真の空間は、共に行動し、共に語るということの目的のために共生する人々の間に生まれる。・・・「汝らのゆくところ汝らがポリスなり」」

一般に近代以前の政治共同体の観念はどれも人的結合体をさすもので、権力装置や統治機構という枠組みを表すstateの意味での国家の観念が登場するのは近代以降となる。

アテネの直接民主制
民会にはすべての市民が平等の参加資格を持ち、軍の司令官をのぞく公職は、通常一年という非常に短い任期で、それもくじ引きと輪番制によって選出されていた。


  デモス クラティア
最大のポリスアテネ
面積:佐賀県
人口:約30万
その中でデモス=市民(成人男子)は1/4
奴隷:言葉をしゃべる道具(アリストテレス
*近代的な意味(個人主義)の自由はない。全体から出発して市民を完全に服従させる。・・・ポリスへの抵抗権などありえぬ。ありうるのは他のポリスへ侵攻する自由

ここでの民主政とは支配形態の問題
君主政 暴君政 貴族政 寡頭政 民主政 衆愚政
「人民が一体となった多数者」である近代民主主義は「民主的」か?

私生活privacyとは、人間的能力が何か奪われたdeprived状態として、それを省みるのは卑しいこととされていた。
H・アーレント『人間の条件』、ちくま学芸文庫
デーモスにとって、「私的なもの」をなげうち、ポリスでの「公的なもの」に献身することが美徳と考えられていたが、それは生命の維持や種の保存という、「低次元の」労働が奴隷や女性に押しつけられていたからこそ可能になるものだった。近代民主主義の前提となる個人主義はいまだ存在していなかった。

ギリシァにおける「政治」の発見

ピュシス(自然)とノモス(作為、慣習、法、制度)をめぐるソフィストたちの問答が、自然現象から独立した、人間自身の手によってつくられる「政治的なもの」の意識を形成した。
猿山のボス猿支配に「政治」はない!

ギリシァにおける哲学の姿−−方法としての哲学

哲学と宗教

  1. 抽象的思考vs.物語(神話)
  2. 物語の共同体を越えた言語ゲーム-->普遍性(開かれた言語ゲーム)
     -->「閉じた社会」から「開かれた社会」へ
      参照K.R.ポパー『開かれた社会とその敵』、未来社
  3. 自由な意識(個)vs.宿命論(摂理)・・・前提を疑わない宗教<--政治的権威にとって好都合(政治神学)

「ソフィスト」とは誰か

  1. その方法:弁論術(レトリケー)
  2. その目的:徳(アレテー)の育成
  3. 「徳の教師」、ソフィストの両義性(教師か、詭弁を弄する詐欺師か)

ピュシスとノモス−−正義論の原型

  1. 二元論  アンティポン
          ピュシス:万人が平等にわけもつ真理
         ノモス:真理に反して制定された正義

  2. 真理=強者の利益説   カリクレス(プラトンのゴルギアスに登場)
          ピュシスの正義:より強いもの、より優れたものが多く得る
          ノモスの正義:より強いもの、より優れたものに型をはめる悪しきもの

  3. ノモス妥協説   グラウコン(プラトンのポリーティアー)
      ピユシス:闘争
      ノモス:弱者救済の便宜的契約
      「不正を働きながら罰を受けないという最善の事と、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がない最悪の事との間の中間的な妥協」としてのノモスの正義

  4. 正義=強者の利益説  トラシュマコス(ポリーティアー)
      法とは支配階級がみずからの利益のためにつくり、それを正しいと宣言してお人好しの人民を支配する道具。不正こそが得をもたらす。

    ソクラテス=プラトンの反論:支配者とは羊飼い、あるいは医者のごとき者である。すぐれた者が支配者になるのは、彼らが自分たちより劣ったものに支配されることを恐れるから。(これはプラトンがソクラテスをして語らしめたプラトン説の可能性が高い)正義とは徳とそれについての知恵である。

ソクラテス:最大にしてもっとも危険な「ソフィスト」
人間のピュシス:努力による獲得=徳・・・個々人の魂の卓越性
ピュシスとノモスの二元論ではなく、その相互依存性の認識
参考
「習慣は第二の天性である」(パスカル)・・・human nature(人間的自然=天性、つまり「人為(努力)」により形成される「人間の自然」)

   ソクラテスの知徳合一性(「正義とは何かの知を持つ者」=「有徳者」?)

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5/29 第六講 プラトンの呪縛
プラトンにおける認識論(イデア論)と政治論(哲人王思想)の結合
「普遍的なもの」の追求・・・プラトンの両義性(変化を嫌う反動思想家という側面)
変化するもの・・・現世、肉体
変化しないもの・・魂

 



<=魂の正しい調和


ポリスの正しい調和=>

ポリス神の創造
知恵統治者
勇気軍人
欲望手工業者・商人、農民銅・鉄



イデア論と洞窟の比喩
「哲人王」思想
統治者階級の指導者=全ポリスの統治者(政治力+真理(イデア)認識能力

「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり、あるいは現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが真実かつ十分に哲学するのでないかぎり、すなわち政治権力と哲学的精神とが一体化されて多くの人々の素質が現在のようにこの 二つのどちらかの方向に別々に進のが強制的に禁止されるのでないかぎり、国々にとって不幸の止むことはないし、また人類にとっても同様だと僕は思う」

公教育の重視・・・ソクラテスの刑死のショックから力で正しい秩序を作り出そうとするプラトン
教育=魂の訓練
詩はその妨害、ポリスから詩人を追放
循環する政体に終止符を打つ哲人王=民主主義批判

プラトンの反民主主義
自由と放任に終始し、資質のない、単なるクジで選ばれた指導者は国々にとってたいせつなことの判断能力を欠くまま民衆のごきげんとりに走るその結果人々の「魂の空洞化」が生じ、僭主(独裁者)が生まれる。

・支配者に許された「高貴な嘘」、共産思想
-->「全体主義思想の最初の提唱者」(ポパー)としてのプラトン?

*この問題は近代民主主義との文脈の相違(人権が政治の正統性根拠)を踏まえた上で考えなければならない。

「全体主義者」プラトン?
K.R.Popper『開かれた社会とその敵 第一巻 プラトンの呪縛』、未來社
歴史信仰(Historicism)の源にある集団中心主義(Collectivism)

流転・変化を阻止する社会工学(social engineering)・・・歴史信仰とイデア論の結合、歴史の始原にある理想国家
プラトンの政治プログラム
変化を止めよ
自然に帰れ
階級区別の重視とそれに応じた公教育の重視(牧人と羊)
教育=魂の訓練
「共産制」の理想
循環する政体に終止符を打つ哲人王=民主主義批判
「誰が支配すべきか」という誤った問い
     <-->流血なき解任可能性としての民主主義

Popperのプラトン解釈の問題点
「全体主義」の前提
   全体と個、普遍と個別の区別
   パターナリズム=悪
古代ギリシャにおけるCollectivismと人間の自由

友敵思考の拒絶と友敵思考 プラトンvs.ソクラテス

プラトンの呪縛とは何か
「魂への配慮」抜きにプラトンを解釈した「奇説の中の奇説(佐々木毅)」?

「プラトン哲学の真の恐ろしさは、<現実>から目を逸らす理想主義や彼岸主義などではなく、現実そのものを見据える破壊力にある。太陽そのものを見ようとする者は、視力を失う。しかしその光にあえて挑戦するこの<逆転>こそが、以後の西洋のあらゆる思索者が魅了され、戦慄し、反撥したプラトンの呪縛の正体であった。」(納富信留『プラトン』NHK)
「プラトンの呪縛」の正体
哲学(イデア論)と政治の 直結(真理と権力の結合)
暴力の正当化
   -->H. Arendt『人間の条件』(ちくま学芸文庫)におけるプラトン批判とアリストテレス解釈(アリストテレスは政治の領域を限定)

アレントのプラトン批判
(theoria-episteme)を知る哲人王によるpoiesis-techneとしての政治

「『国家』において哲人王は、職人が自分の尺度や物差しを使うようにイデアを用いている。彼は、彫刻家が像を作るように、自分の都市を<作る>のである」
          アレント『人間の条件』P.357

「そうするとまた、一人の人間のあり方に最も近い状態にある国家が、そう(最善の国家)だということにもなるわけだね。」
          プラトン『国家』上、P.374

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6/1 第七講 アリストテレスと現代
アリストテレス
非アテネ人による、アテネ没落を目前にしたギリシァ哲学の集大成


「ミネルヴァのフクロウは日暮れとともに飛び立つ」(ヘーゲル)
この言葉の含意するところ
1. 知的活動の「事後的なpost festum」性格
2. その歴史哲学的含意


<--三田山上にも生息する低空飛行の(!?)ミネルヴァのフクロウ
   そのソクラテス批判
        知徳合一説批判−−>テオリアvsプラクシス

   そのプラトン批判
       ・イデアの普遍性<−−これは実在たりえない

質量(ヒューレー)質量・基体
形相(エイドス)本質・「何であるか」
始動(アルケー)物事の生成、運動の始点
目的(テロス)物事の生成、運動の終着点
        人間の認識能力は実在するものの認識である。
アリストテレスの学問区分
学の形態知の形態具体的学科/特徴
theoriaepisteme数学、自然科学、形而上学
‥‥‥運動原理が対象そのものの中にある
praxisphronesis倫理学、政治学、家政学
‥‥‥運動原理が対象たる行為者の中にある
poiesistechne芸術、詩学、医学
‥‥‥運動原理が対象の外の行為者の中にある

政治学とそれを支えるプロネーシス(実践知・賢慮):
人間を人間たらしめているのがポリスである(「人間は本性上ポリス的動物である」)から、その人間の特性を最大限発揮し、ポリスにおける最高の善を実現すること、そのためにポリスという共同生活の場で、あるべき秩序をめぐって市民が対話を繰り広げ、 それによってポリスの秩序を形成していくという対話の実践が重要となるが、それを支える知の形態がプロネーシスである。それは変転きわまりない政治生活を確立・維持するのに必要な知であり、プラトンのそれと異なり、厳密な論証、確実性を必要としない。-->倫理学としての政治学

政治学が考察の対象とする「美しい事柄」や「正しい事柄」には、多くの相違と変動が見られるのであって、そうした事柄はただ慣習の上だけで存在しており、自然には存在していないかのように思われるほどである。・・・このような性質の事柄に関しては、このような性質の事柄から論じて、大まかに真実の輪郭を示すことができればよいのである。・・・数学者から単に相手を説得するだけの蓋然的な議論を受け取ることも、弁論家に厳密な論証を要求することも、どちらも同じくらいに誤っているのである。
京都大学学術出版会版『ニコマコス倫理学』1094b
アレントのアリストテレス解釈
アレントの区分アリストテレスの区分知の優位
theorievita contemplativa
行為(action)praxis vita acitiva
仕事(work)poiesis
労働(labor)
  Marx:労働の哲学者
  Platon:仕事の哲学者
 行為の世界の予見不可能性、不安定性へのPlaton の不満

近代政治学と知
自然支配(そこには人間の暴力が作動) と 人間支配
  人間の複数性
  techne型政治学:マキァヴェッリ
  episteme型政治学:ホッブズ〜現代

永遠eternityと不死immortality
真木悠介『時間の比較社会学』
円環の時間と矢の時間

近代におけるvita contemplativaとvita activaの逆転
ギリシア的な「不死の神々と自然・宇宙」 対 「可死的人間」 <--> 永遠(プラトン)

政治的にいえば、死ぬことが「人々の間にあることを止めること」と同じであるならば、永遠なるものの経験は一種の死である。それを本物の死から区別している唯一の事柄は、その死が最終的なものではないということだけである。最終的なものでないというのは、生きている被造物はとても長くはその経験に耐えられないからである。・・・永遠なるものの経験が、いかなる活動力とも交わらず、いかなる活動力にも転化できないことは決定的である。・・・theoriaは永遠なるものの経験に与えられた言葉であって、この経験は不死にこそふさわしいその他の態度とはまるで異なっている。
          アレント『人間の条件』、P.21

アリストテレスのもう一つの側面
アリストテレスのヒエラルヒー的宇宙観トマス・アキナスにおける宇宙と法の観念
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6/8 第八講 近代の「政治」・「哲学」へ 〜techneとしての政治学?
近代政治理論の前提:
  1. 自然の秩序からも、共同体の秩序からも解放され、運命や神の摂理、共同体の道徳とは異なる原理によって行動する人間
    …………………マキァヴェリ

  2. 「個人」という観念の成立
    …………………宗教改革

マキァヴェリ(1469?1527)
「権謀術数」の悪徳者?
 ・プロイセンのフリードリッヒ「反マキャベリ」(ヴォルテールが序文)
 ・ルソーのマキァヴェリ観:
 「王公に教えをたれるとみせかけて、人民に偉大な教訓を与えた。『君主論』は共和主義者の教科書である。」
ルソー『社会契約論』

「私は天国への道を理解するための真の方法とは、地獄への道を知って、それを避けようとすることだと信じる。」

*倫理の否定ではなく、倫理的欺瞞の否定(リアリストとしてのマキァヴェリ)
*マキァヴェリにおける「政治の自律」

マキァヴェリの人間観

「人の実際の生き方と人間いかに生きるべきかということとは、はなはだかけ離れている。だから、人間いかに生きるべきかということのために、現に人の生きている実態を見落としてしまうような者は、自分を保持するどころか、あっという間に破滅を思い知らされるのが落ちである。」
マキァヴェリ『君主論』、105頁

マキァヴェリのstato
古典的な人的結合原理(polis, civitas, res publica)から権力機構(stato)としての国家への転換
・ただマキァヴェリのstatoには「国家」ではなく、国王のstato(身分)という意味が強い。
stato:「ある個人、家、党派のde factoな優越性、権力」とそれに付随した意味(その者の支配の正当性、その権力の担い手、支配領域)

*権力の確立、存続、増大の知恵(分裂し、弱小な未統一のイタリアという現実)

マキァヴェリの方法

彼自身の政治的経験知+ローマ史(歴史的教訓)
virtuとfortuna
virtu: 倫理的色彩も持たない(古典理論の「徳」とは異なる)
人間の欲望に仕え、その発現をより効率的にコントロールする手段についての 能力 (人間の内面にある個人的力)

fortuna:運命。人間にとって外的な力。virtuにとっての制約要因

* キリスト教的な「摂理」の考え方とは異なり、運命(神)には逆らえないまでも、それを味方にすることはできる。

マキァヴェリのジェンダー・バイアス?

「運命の神は女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突き飛ばしたりすることが必要である。運命は、冷静な行き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである。」
『君主論』147頁
Cf. H. Pitkin, Fortune is a Woman. Gender and Politics in the Thought of Niccolo Machiavelli. The University of Chicago Press

余談:運命の女神フォルトゥナ:その目隠しの意味は?
男になってしまったフォルトゥナ(だけどギャンブルは好き!)

ユスティティアにも変身するフォルトゥナ
Jutitiaのモチーフ
それではこれは誰?

双子の姉妹だったJustitiaとFortuna
マキァヴェリの政治学
運命に翻弄されるのではなく、それをvirtuによって克服するという戦略的実務能力、人間操縦術
『君主論』:君主のvirtuを説く書物
君主にとって、信義を守り、奸策を弄せず、公明正大に生きることがいかに賞賛に値することかは、誰でも知っている。だが現代の経験の教えるところによると、信義などまるで意に介さず、奸策を用いて人々の頭脳を混乱させた君主が、かえって大事業をなしとげている。しかも、結局は、彼らのほうが信義に基づく君主たちを圧倒してきていることがわかる。・・・戦いに打ち勝つには二つの方法があることを知らなくてはならない。その一つは法律によるものであり、他は力によるものである。前者は人間本来のものであり、後者は本来野獣のものである。・・・君主は、野獣と人間とを巧みに使い分けることが必要である。・・・こうして君主は野獣の性質を適当に学ぶ必要があるのであるが、そのばあい、野獣のなかでは狐とライオンに習うようにすべきである。というのは、ライオンは策略の罠から身を守れず、狐は狼から身を守れないからである。
『君主論』112〜3頁

【参照】共和主義者マキァヴェリ?
『Discorsi』(ローマ史論、政略論、リウィウス論):市民のvirtuを説く書物

マキァヴェリは君主主義者なのか、共和主義者なのか?
   ・・・愛国者マキァヴェリ

Techneの政治学
  Kunst des Moeglichens? (ビスマルク)<br> これが支配者への指南になるのは必至

秩序は力によって作り出されるので、道徳や宗教によってではないとの認識

マキァヴェリの限界
体系性を持たない技術知
秩序が持つべき内容についてのヴィジョンはない。
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6/15 第九講 宗教改革:非政治思想の意図せざる政治的な帰結

Martin Luther (1485?1546)
教会制度の否定と義認説:「信仰のみsola fide」による近代的個人の萌芽
「神を自己の裡に体験する」という神秘主義的傾向
カルヴィニズムと異なり、世俗内禁欲という生活態度を形成し得なかった。

Jean Calvin (1509?1564)

  1. 神中心主義:人間と神とのあいだの無限大の距離
  2. 二重予定説:「救済」における人間の能動性は完全に否定される
  3. 長老主義
  4. 神権政治(厳格な倫理と規律に基づく生活)

カルヴィニズムの意図せざる帰結
  1. 二重予定説が生み出す宗教的エネルギー
  2. 資本制の起源としてのカルヴィニズム
  3. 全体主義の起源としてのカルヴィニズム

1)二重予定説が生み出す宗教的エネルギー
救済の能動性(悔改)の全面否定とそれにもかかわらない禁欲的生活
   <−−>親鸞:「善人猶以て往生を遂ぐ、況や悪人をや」

……宗教的エネルギーを理解するために
Leon Festinger, Theory of Cognitive Dissonance 1957 認知的不協和の理論
フェスティンガー他『予言がはずれるとき』
認知的不協和の理論
ある個人が持つ相互に関連した認知的要素間での矛盾・不一致
-->不快な緊張
-->不協和低減への動機付け

  1. 変えやすい方の認知・行動を変える
  2. 新たな協和的情報を付加する。
  3. 不協和な認知的要素を軽視する。
予言がはずれたときになぜ信者の信仰心は強まるのか。

認知的不協和の理論
 われわれはひとつの事象に関連して、様々な情報を持っているが、それらの情報がすべて整合的であるわけではない。中には相矛盾し、両立しえない情報もそこに含まれよう。たとえば愛煙家にとって、「喫煙はストレスの解消に役立つ」という情報と、「喫煙は癌の重要な原因のひとつであり、癌にかかると助かる可能性は低い」という不協和な情報がある。この不協和は、愛煙家のなかで不快な緊張を生み出すので、意識的・無意識的に彼の中にはこの不協和を低減させ、整合性を回復させる動機付けが生まれてくる。
 整合性回復の方法にはいくつかのパターンがある。第一に、変化させやすい方の認知情報、ないしは行動を変えるという方法がある。先の例を用いれば、たとえばタバコを止めるという方法が考えられようが、それが簡単にできないのが愛煙家の愛煙家たるゆえんでもある。第二の方法は、何らかの新たな協和的情報を付加するという方途である。たとえば「癌と喫煙の相関関係には科学的根拠がない」という新聞、雑誌記事を見て自分を安心させるという方策、「尊敬する人物が大の愛煙家で、しかも高齢にもかかわらず精力的に仕事を続けている」とかの情報を付加したくなる誘惑などもここに含まれよう。
第三の方法として、不協和な認知的要素の重要性を低く見積もるというやり方も考えられる。たとえば喫煙者が癌にかかる割合はそれほど高くないとたかをくくる方法などはそれである。
 しかし考えてみれば、第二、第三の方法では、いつまでたっても不協和そのものが解消されることにはならない。結局は第一の選択肢しかないのだが、その場合も「タバコを止めよ」と誰かから強制されたとするならば、それ自体が不快情報となるので、「実は私は昔からタバコが嫌いだったのだ」と人間は自分に言い聞かせる。

 フェスティンガーたちは、この理論を宗教社会学にも応用し、教祖の予言がはずれたときになぜ信者たちはその宗教を見捨てず、逆にその信仰心を強めるのか、しかもその予言のおかげで多大の犠牲を払った信者ほどその傾向が強いのはなぜかを分析しているが、カルト宗教の蔓延するわが国の現状を考えてみるとき、彼らの研究はきわめて示唆的であると言えよう。

参考:ダメ人間の認知的不協和:日本ダメ人間学会(@東京大学(?!))

2)資本制の起源としてのカルヴィニズム:
カルヴィニズムの歴史的パラドックス
……マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

  1. 宗教という「非合理的」信念による合理的システム(資本制)の形成
  2. 非営利的思想による営利追求システムの形成
資本主義の精神
ルターによってもたらされた天職(Beruf)の観念とカルヴィニズムの「予定説」の結合による資本主義の精神の形成

禁欲的で組織的な労働への没頭(労働者のエートス)
獲得された富を浪費せずまた蓄財せず、投下資本として生産拡大(資本家のエートス)
鉄の檻 Weber とNietsche

将来、この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そしてこの巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも・・・一種の異常なで粉飾された機械的化石となることになるのか、まだ誰にもわからない。それはそうとして、こうした文化発展の最後に現れる『末人たちletzte Menschen』にとっては、次の言葉が真理になるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』と。
大塚久雄vs山之内靖
『 ツァラトゥストラ』 序章に登場する「おしまいの人間」
近代啓蒙理性(不断の自己審査に基づく合理的生活態度)が奪う人間性への批判

3)全体主義の起源としてのカルヴィニズム
カルヴィニズムの心理的パラドックス
……参照:E. フロム『自由からの逃走』
Erich Fromm(1900?1980)
フランクフルト学派第一世代(29?39)
社会心理学:初期マルクスの「疎外論」+フロイト主義
上部構造(イデオロギー)と経済的土台をつなぐものとしてのエロス的衝動と自己保存衝動という精神分析学的枠組
エディプス・コンプレックスの超歴史的拡大適用の拒絶

エディプス・コンプレックスの構造:<超自我>に内面化される父親の権威





その社会理論的重要性:自己防衛機制としての投射(投影)
自由からの逃走Escape from Freedom 1941 (Fear of Freedom)
人類史 = 個人の完全な(権威からの)解放史

外的権威からの自由
  └→個性化
     ┌自我の成長
     └孤独の増大
        └→克服衝動
            ┌自由からの逃走
            └自発的行為
*独立と孤独・不安の二面性

宗教改革:自由からの逃走
権威を恐れ、しかし権威を愛したルター
教会権威からの解放とその「自由」にともなう孤独と無力
自己の完全放棄による神の愛の確信

権威主義的パーソナリティー
サディズム的傾向:他人を自己に依存させ支配しようとする。
マゾヒズム的傾向:自己の外側の力や秩序に依存し服従しようとする。

両者は正反対のもののようで、対象に依存することで不安の源である自己そのものから逃げだし、不安を解消しようとする点では同一の心理的逃避メカニズム

カルヴィニズムのサド・マゾ的権威主義
サド・マゾヒズム的人間は、「権威をたたえ、それに服従しようとする。しかし同時に彼はみずから権威であろうと願い、他の者を服従させたいと願っている」

近代へ
宗教改革は、ウェーバーも指摘するとおり、「人間に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけ」である。個人を宗教的権威から解放すると同時に、宗教と政治を根元的に切断し、近代政治理論の原型を生み出したのがホッブズと言えよう。

マルクーゼのフロム批判
H. マルクーゼ、『エロス的文明』
フロイトのリビドー概念の文化的修正(愛、あるいは創造的 行為、自発的生産活動の提唱)はそれが本来持っていた文明批判、社会批判の力を失い、道徳的説教と現代社会との妥協に堕落する。
現代社会において、「あるべき人間像」(疎外されていない本来的人間)を構想できるか?

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6/16 第十講 近代の「政治」・「哲学」へ 〜epistemeとしての政治学?
ホッブズの科学と政治学
       ┌量、運動の帰結   …第一哲学、数学、天文学
 ┌naturall philosophy        建築学、航海学
 │     └性質の帰結(物理学) …気象学、計時法
 │                  占星術、光学、音楽
 │                  倫理学、詩、雄弁術
 科学                 論理学、正義論
 │
 │           ┌主権者の権利・義務
 └政治学、civil philosopy
             └臣民の権利・義務
ホッブズの近代性
「科学」(理論知)への志向性
幾何学、古典力学(原因−結果の証明)
万人が認めざるをえない客観的真理
      (<-->opinion) と
           passionなきmore geometrico
「個別」(部分)から「普遍」(全体)へ

Leviathanの理論構成
人間の能力の検討
a)認識能力
1.生物としての人間 (human nature)
2.人間の独自性 = fore-sight
b)実践能力
1.生物としての人間 self-preservation
2.人間の独自性 = vanity、vain glory

自然状態
動物的なジャングルの掟=「弱肉強食」
         +
人間的なpowerへの渇望
          ll
bellum omnium contra omnesあるいは
   homo homini lupus

自然状態のパラドックス:その「至福」と「悲惨」
そこでの人生は「継続的な恐怖と暴力による死の危険が存在し、人間の生活は孤独で、貧しく、険悪で、残忍で、しかも短い。」
自然権という名の平等な自由

自然状態からの離脱:
情念・・・死の恐怖
理性・・・自然法

ホッブズの自然法
cf.ダントレーヴ:ホッブズにおける自然法の「コペルニクス的転換」
人間にとって外在的なものから内在的なものへ(人間中心主義)

自然法の内容

  1. 各人は平和を獲得する望みがあるかぎり、それに向かって努力すべきであり、それを獲得しえない時には戦争のあらゆる援助と利益を求め、用いてよい。
      ・・・平和への努力(基本的自然法)+自然権(自己保存)

  2. 人は、他の人々もまたそうである場合には、平和と自己防衛のためにそれが必要だと彼が思うかぎり、すべてのものに対する彼の権利をすすんで捨てるべきであり、彼が彼自身に対して許すのと同じだけの他の人々に対する自由で満足すべきである。
      ・・・自然権の放棄(留保条件=「抵抗権」?)

  3. 人々は彼らが結んだ信約を履行すべきである。
      ・・・2の帰結。この不履行=「不正義」
      自然状態には正義も不正義も存在しない。「共通権力が存在しないところには法はなく、法が存在しないところには不正はない」という言葉との不整合

コモンウェルスの設立
自然法だけでは足りない。 -->現世において罰を与える「国家」設立
「国家」:人々を恐れさせ、罰の恐怖によって人々の信約の履行と諸法の順守へと拘束する可視の権力

ホッブズの国家
人間的自然に逆らう人工的構築物。
その部品たる人間
「狼使い」としての国家:「鋼鉄の檻」
自然状態と社会状態の非対称性

放棄される自然権

  1. 統治形態変更の要求
  2. 主権の剥奪
  3. 主権設立への抗議
  4. 主権者の行為への批判
  5. 主権者の処罰

主権者の権利(「義務」ではない!)
  1. 平和と防衛
  2. 教育(検閲・思想統制)
  3. 行政
  4. 司法
  5. 交戦
  6. 官僚任命
  7. 執行(報償処罰)
  8. 栄誉・序列の決定

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6/29 第十一講 ホッブズ問題
1.狭義のホッブズ問題
方法論的個人主義の問題
社会的なものをあらかじめ個人のなかに埋め込まずに、いかにして社会が、そうした個人の合理的選択(自己の効用の極大化)の結果「創出」されるかという議論が持つジレンマ

ゲームの理論における囚人のジレンマ
A\B自白黙秘
自白-5,-5-1,-10
黙秘-10,-1-2,-2

もし相手が必ず黙秘することを知らない限り、相手が自白した場合の大きな損を考えてこれを避けるため双方が自白する。

方法論的個人主義と全体論
全体=部分の総和?
方法論的個人主義…「合成の誤謬(fallacy of composition)」?
他方で全体論が持つ「国益」「公益」等の擬人化された観念のもつイデオロギー性

・「狼としての人間」(エゴイズム仮説)を棄却する必要性
cf. Carl Schmitt問題

真の政治理論とは、すべて、人間を「悪なるもの」と前提する。・・・「万人の万人に対する戦争」こそ政治的な思想体系の基本的前提である。
現代社会科学(特に合理的選択論)の病
利己心仮説という亡霊におびえ、みずからの公正化志向をゆがめにゆがめて、不平等是正を世間で一番通用する利己的主張の体裁を通して実現しようとする。その結果、欲望の増大、地域エゴ、羨望の合理化へと社会が突き進むことになる。
佐伯胖『「決め方」の論理』265頁
「お前は狼だ」と(社会科学者から)言われ続けることによって本当の狼になってしまった現代人!

2.自己中心的人間
(その野心と孤独、肉体的衝突と没コミュニケーション)
個人主義=利己主義(エゴイズム)    全体論=利他主義??
  -->正義論

アリストテレスの正義論
アリストテレス:市民の討論による不正なノモスの理性的修正

┌全般的正義:「善き人」が果たすべき義務

│    ┌─配分的正義:比例的平等
└特殊的正義 justitia distributiva
     └─矯正的正義:算術的等価
       justitia commutativa
配分的正義>矯正的正義(正義の原形式)

ホッブズの目的論的自然法

正義=「約束を守る」…自然法の一項目
ホッブズの自然法は自然権に従属:究極的には「自己保存」のためのもの。
       (義務論的自然法の目的論的再定式化)

ホッブズの問題
「自己保存」は本当に「究極的な目的」たりうるか?
目的論的な道徳的命令はありうるか?(仮言命法的)科学的倫理学?
しかもホッブズの自然法は内容的にはローマ法以来の伝統的法観念と異なるものではない。

科学と倫理
個人主義的な利他主義の可能性は?
ホッブズの「仮言命法der hypotethsiche Imperativ」
  <-->カントの「定言命法der kategorische Imperativ」
「自然主義の誤謬」(G. E. Moore『倫理学原理』三和書房)
カントの定言命法
定言命法としての道徳的命令:無条件で、絶対的かつ普遍的に妥当する命令
カントのユニークさは、一方で伝統的な自然法や義務論を、他方で目的論的(功利主義的)道徳論を拒絶し(道徳とは欲得を離れた純粋な動機にこそある)、義務論の立場から、その義務の内容をあくまで思考の形式から獲得しようとする点にある。

自然法?
natural law・・・自然法か自然法則か
自然(ピュシス)の法(ノモス)
NaturrechtとNaturgesetz
「自然法」の衰退と「自然法則」の支配
全体主義:「歴史」(マルクス主義)「自然」(ナチズム)の法則を実定法の根拠として発動させ、貫徹させる「全体主義」
    ・・・H. Arendt『全体主義の起原』
         <=>人間の「自由」

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7/30 第十二講 ホッブズ問題(2) 神でなく、理性でもなく

3.ホッブズと隠れた神
<= 『リヴァイアサン』の口絵

個々の人間を部品として成立した
「人工的人間」としての大怪物
リヴァイアサン
平和と防衛とを人間に
保証する地上の神

リヴァイアサンをイコノロジーする  =>
参照:仲手川良雄『歴史のなかの自由』、中公新書

Leviathan:現世での神の代理、中継ぎ

*政治理論は「超越者」を必要とするか?
「神学」から離脱した「近代的」政治理論は自らが神になることを意味した。

「いま」と「ここ」にとどまることの意味。 「自然法」の性格
‥‥「法」ならぬ自然「法」の拘束力はどこから?
1.理性の命令
2.神の命令
*どちらの解釈をとっても矛盾が生じる
自然法論と法実証主義
問題は実定法の正しさの根拠&道徳と法の関係
Moralism vs Harm Princple (J.S. Mill)
道徳原理 vs 禁止・命令
内面の法廷 vs 外面の法廷

4)抵抗権

参照:P.C. マイヤー=タッシュ『ホッブズと抵抗権』、木鐸社
佐々木高雄『抵抗権論』、学陽書房
萩原能久
「反抗のヒューマニズム」、『法学研究』第70巻第2号
ホッブズにおける「抵抗権}(?)
 <-->ロックの革命権(Appeal to Heaven)
抵抗権(J Rawls):良心(道徳観)にもとづく、
      公的(<-->私的)かつ
      非暴力的な
     法律・政策変更を求める行動
         参照:John Rawls 『正義論』

抵抗権とはどのレベルで考えられ、認められるべきものか

誰の抵抗?(マイヤー=タッシュ)

  1. 原契約を締結していない者
  2. 自己防衛権 ← 国家に持ち込まれた「自然権」を基礎とする
  3. 原契約の効力を期待できない者
  4. 原契約を破棄した者
  2)以外に抵抗権の議論をすることは無用。ホッブズはこれを認めるものの、「逃亡」のみを許している。

抵抗権なるものは可能か?

個人の抵抗権は「真の基本権に欠くことのできないもの」であるが、それは「最後の保護手段であり、譲渡しえない、しかも組織化することのできない権利であり」、「国家内での基礎を断じてもちえない」。
     参照:カール・シュミット『憲法論』、みすず書房;『合法性と正当性』、未来社

「中世においてはまぎれもなく実定法上の権利であった《抵抗権》は、絶対主義に対する闘争のなかでは、当時の絶対主義実定法秩序をくつがえし、新たな秩序を要求する自然法上の革命権としてたちあらわれたが、市民革命による法体系の成立とともに、成立した実定法秩序を正当づける思想となると同時に、新たな法秩序を防衛するための実定法上の権利となり、さらに、近代立憲主義確立期には、国家からの諸自由が実定法上整備されることによって、抵抗というかたちで人権主張の必要が極小化すると考えられ、抵抗権は抵抗権というかたちでは実定法から姿を消し、またことさらに自然法上の権利として主張されることもなくなって、もっぱら、立憲主義実定法体系の全体を支える民衆のがわの権力批判的態度となって伏流する」
      樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』、剄草書房
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7/13 第十三講 ホッブズ問題(3) 政治学の戦争
抵抗権の否定と「祖国のために死ぬ義務」(ルソー)
社会契約は、契約当事者の保存を目的とする。目的を欲するものはまた手段をも欲する。そしてこれらの手段はいくらかの危険、さらには若干の損害と切り離しえない。他人の犠牲において自分の生命を保存しようとする人は、必要な場合には、また他人のためにその生命を投げ出さねばならない。そして統治者が市民に向かって「お前の死ぬことが国家の役に立つのだ」というとき、市民は死なねばならない。なぜなら、この条例によってのみ彼は今日まで安全に生きてきたのであり、また彼の生命は単に自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの贈物なのだから。
                J.J.ルソー『社会契約論』

契約説のアポリア

1) 政治社会の成立の論理的説明‥‥「社会契約」
2) 政治社会の正統性根拠の説明‥‥「服従契約」


ホッブズ: 1),2)を同時に行う(その結果主権者は契約当事者とならず、義務を負わない)
ロック: 1)を契約説で説明し、2)は執行権への人民の信託(≠契約)
ルソー: 1),2)同時だが、いまだ存在しないはずの「共同体」との契約

抵抗権の制度化
理論的に「主権」概念と矛盾する、「主権への歯止め」の原理を、中間者の創出によって克服しようとした議会制民主主義という発明(抵抗権の制度化)とその限界(民主的手続きを経た独裁の可能性)

5.戦争と平和
死の恐怖の絶対性と平等性(ホッブズ)
その唯一の約束を果たせぬホッブズの国家
市民社会にもちこされた「暴力」
国際社会は「自然状態」か?
Schmittテーゼ:「真の政治理論とは、すべての人間を『悪なるもの』と前提する。すなわち問題をはらまぬものとしてではなく、<危険な>かつ動的な存在としてみなすのである。・・・<万人の万人に対する戦争>こそ、・・・政治的な思想体系の基本前提である。」

国際社会と自然状態のアナロジー成立の条件
  参照:C.ベイツ『国際秩序と正義』、岩波書店

  1. 国際関係の行為主体は国家のみである。<
  2. 国家の力は相対的に等しい。
  3. 国家は国内問題を他の行為主体(国家)の国内政策を顧慮することなく処理できる。
  4. 違反に対する制裁がない。

War made the State and the State makes war
ホッブズ対ルソー?
性悪説 vs 性善説?
「自己の役に立つものを見てとるに十分な理性と、本人自身の幸せを求めるに十分な勇気」というルソーの想定。
それでも平和が実現しないとするならば、「それは人々に分別が足りないからだし、狂人たちの真中にあって思慮分別をもつことが、いわば狂気」だからである。
力と狂気、言葉と理性
政治理論の出発にある「人間の生への願望」

政治学と戦争
権力:「ある社会関係の中で相手の抵抗を排除してまで自己の意志を貫徹させる可能性」(マックス・ウェーバー)

戦争:「戦争は一種の強力行為であり、その旨とするところは相手に我が方の意志を強要するにある」(クラウゼヴィッツ)

カール・シュミット:政治的なものの指標: 友と敵の区別
戦争は政治の「例外状況」ではなく、まさに常態では覆い隠された政治の本性をかいまみせる政治の本質。
「国家」概念の前提になる「政治的なもの」に固有の標識としての「友と敵」の区別 (政治的なものの事実性、独立性、自律性)

政治   友  敵
道徳   善  悪
美学   美  醜
経済   利  害

語られぬ「友」、殺戮対象たる「敵」
敵:抗争中の相手たる人間の総体を示す公的な概念
「物理的殺戮の現実的可能性とかかわり、そのかかわりを持ち続けること」

国家にのみ認められた「交戦権」
「戦争というものは、敬虔なもの(宗教的なもの)でも、道徳的価値のあるものでも、(経済的に)採算のとれるものである必要もない。」こうした「政治的なものの自律性」の証左は、国家にのみ「交戦権」という途方もない権能が与えられていることに現れている。
相手国の国民(外敵)に対する殺人の容認と自国民(友)に対する死の覚悟の要求 ‥‥対外的
反国家的革命勢力(内敵)の弾圧                       ‥‥対内的
友と敵の区別のできない国民は「この地上から消え去るのみ」である。

平和のための戦略:異なる手段による戦争の継続
Schmitt:「戦争は政治の前提である。」
Arendt:「戦争は政治の破綻である。」
「戦争は異なる手段による政治の継続」(クラウゼヴィッツ)なのではなく、「政治が異なる手段(非暴力的手段)による戦争の継続」なのである。

20世紀の国家と戦争
戦争装置としての国家の変質

それにもかかわらない19世紀的でビスマルク的な国際秩序観・・・Balance of Power
「古い戦争」と「新しい戦争」

17、18世紀19世紀20世紀前半20世紀後半新しい戦争
政治体制
の種類
絶対王政国家国民国家多民族連合
多民族国家
帝国
ブロック脱国家的機関
国民国家
地方政府
戦争目的国家理性
王朝間の紛争
国境の確定
国家間紛争国家間紛争
イデオロギー闘争
イデオロギー闘争アイデンティティ・
ポリテックス
軍隊の形態傭兵
職業軍人
職業軍人
徴兵制
総動員化科学・軍事エリート
職業軍隊
準軍事組織
犯罪組織
警察部隊
傭兵集団
非正規軍
軍事技術小火器
防御作戦
包囲攻撃
鉄道・電信
迅速な兵力動員
大規模火力
戦車・戦闘機
核兵器先端技術利用の小型武器
現代通信技術
軍事経済徴税・戦時国債行政・官僚機構拡大総動員経済軍産複合体グローバル化された
戦争経済

        M.カルドー『新戦争論』(岩波書店)をもとに作成


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