国家が国家であるのは、それが国家だからである


                   国家という永久機関のカラクリ
萩 原 能 久

ソーキソバはソバか?
 沖縄は好きだが、沖縄料理はどうも苦手である。海蛇(イラブー)や苦瓜(ゴーヤ)をおいしいと思う人がいること自体、私には理解できない。それでも沖縄に行く度にどうしても食べずにはいられない不思議な食べ物がソーキソバである。
 どこが不思議なのか、食べたことのない人に説明するのは難しいが、いわゆる「ソバ」のイメージからかなりかけ離れているのである。スープはトンコツとかつおだしの、意外にあっさりした塩ラーメンに近い。麺は白くて太く、こしの弱いうどんときしめんの中間のようなものである。そこにソーキ、すなわちやわらかくなるまで煮込んだ豚の骨つきあばら肉と、薬味に刻み青ネギがのっているのが標準的なところだろう。ラーメンときしめんを合体させたような、いかにも琉球らしい、日本と中国という異文明のエッセンスを融合させた地にふさわしい料理だが、なぜこれが「ソバ」なのだろうか。
 この難問に対する私の答えは素気ないほど簡単である。ソーキソバはソバであって、うどんでもラーメンでもない。なぜならばそれが「ソバ」と呼ばれているからである。この私の答えは、哲学的には唯名論(nominalism)の立場からする名辞定義(nominal definition)という定義観、すなわち概念なるものは多くの同義語を総括するために便宜的に用いられる約束事にすぎないとの考えに裏打ちされたものである。ところが世の中にはこの素気なさに我慢できない人が多い。「蕎麦好き」を自称する人にはうるさ方が多く、やれ麺に含まれる蕎麦粉は何%以上でなければならないだとか、つゆはどうだ、食べ方はこうでなければならないとかの蘊蓄を垂れたがるものだが、そんな人にとってソーキソバを「ソバ」と認めることは言語道断であろう。理由は簡単で、それが、その実は彼らがめいめい勝手に想定しているソバの「本質」から逸脱しているからである。麺好きにはこういう「本質主義者」が多いのも確かである。本質主義者にとっては、「その事物をしてまさにその事物たらしめている」性質(1)の把握がまずもって重要となる。たとえばラーメンをラーメンたらしめているその本質とは油ギトギトの醤油味をベースとした豚骨スープに細麺であることとの立場を譲らない人がいる。こうした人にとって札幌味噌バターラーメンなど、断じてラーメンではない。ましてや私が留学中にヨーロッパの田舎町の中華料理屋で経験したような、味の方はともかく、明らかに麺に細めのスパゲッティーを流用したラーメンなどもっての他であろう。
 さすがにスパゲッティーラーメンまで行くと、それをラーメンと呼ぶことに対して私にも躊躇が生じるが、このような「本質主義」は、実生活はともかくとして、社会科学においてはしばしば不毛な論争を生む原因となってきた。その「本質」なるものが、現実経験と食い違う場合でも、現実の方を糾弾すればすむからである。「味噌ラーメン」などラーメンに非ず、と。「国家とは何か」という問いに対しても、このことはあてはまる。
 例えば若き日から古代ギリシァのポリスや共和制ローマに「真の共同社会」のお手本を夢見続けていたヘーゲル(1770~1831)にとって「国家」とは、現実のそれはさておき、「家族」と「市民社会」を止揚した倫理的理念の具体的表現形態として規定される(2)
 マルクス主義ならば原始共同体が崩壊し階級社会が成立する時に生じた、一階級の他の階級支配のための道具として成立したのが国家であり、したがってその実体は階級敵を抑圧するための暴力装置にあると見る(3)
ホッブズ(1588~ 1679)にとっての国家とは、人間がバラバラに生きていたのでは実現することのできない「安全」という利益のために人々が結託して設立したものである(4)
 たしかにそれぞれが、なるほどと思わせるもののある国家の本質規定ではあるが、歴史上存在した、あるいは現在存在する国家の多くがこうした規定からはみ出してしまうこともまた事実である。さらにはこれらの国家の本質規定が、国家の起源の問題から国家の機能や構造の問題をストレートに導き出すという問題のある論法を使う(5)という点で共通している点も見逃せない。
 これに対して私が支持したいのは、表題にも掲げたとおり、「国家が国家であるのは、それが国家であるからである」という、一見珍妙にも見えるテーゼである。これは先に説明した「国家とは国家と呼ばれているものである」との名辞定義をさらに踏み出した、無内容な循環論法に見えるかもしれない。居直るわけではないが、国家が「ある」ことと「ない」ことの間には、因果的な起源からの説明を受け付けないまでの根本的な断絶があるのである。なぜだろうか。

国家の循環論法
 国家ははじめから国家であるのではない。国家は国家になるのである。国家の創出には、いわば「権力なきところで権力を作り出す権力」が必要となる。この、「無から有を作り出す力」に因果的説明を与えようとしても、それはすでに力という「有」を前提にする論理矛盾たらざるをえない。無から有を作り出すこの特殊な「力」は「憲法制定権力」(verfassungsgebende Gewalt; pouvoir constituant)と呼ばれたりもする。国家の創出の場合には、憲法なきところで、国家を解体して作りなおす場合には既存の憲法を廃棄して新しい憲法を作るこの「力」には、当然のことながら一切の「合法性」はない。むしろこの力は、そのままでは「違憲」という意味で「不正義な」力である。この「不正義」を回避するために、何らかの正当化が必要となる。それなしではこの「力」が「正統性」を獲得し、権力になることはできない。例えば革命勢力は、「革命」に成功するまでは「テロリスト集団」呼ばわりされることに甘んじなければならないとしても、彼らが革命に成功し、新しい「国家」を樹立すれば、彼らの意思が「法」となり、不正義は正義に転化する。「テロリストの首領」は一挙に「建国の父」に格上げされる。革命勢力の不正義が「将来の正義」という、その時点で「非現実」のものであるフィクションを人々に信じさせることに成功した瞬間、無から有が生まれる。国家は国家になる(6)。国家とはまさにこうした循環論法を成立させてしまうものなのであり、この「命がけの飛躍」に比べれば、国家の起源をめぐるおとぎ話めいた議論など、日本の建国神話にせよ、ホッブズに代表される社会契約説にせよ、子どもだましの域を出るものではない。
 このことを理解すれば、現在、ほとんどすべての政治学の教科書や事典の類で「国家の定義」として紹介されている「国家三要素説」なるもののばかばかしさを見抜くこともできよう。それによるならば領土、主権(統治権)、人民が国家を構成する三要素なのだそうである。この規定の仕方は、確かに先に批判しておいた本質主義的規定を回避したものではある。しかし無意味なまでに形式的な定義であり、荒唐無稽な劇画にまで利用される格好の素材となってしまった。
 そのシーンをちょっと再現してみよう(7)。日米が秘密裏に建造した、最新の自衛隊原子力潜水艦「シーバット」は処女訓練中、いきなり名目上の所属であった米第7艦隊から離脱し、独立国家を宣言して「やまと」と名乗る。潜水艦である「やまと」が「国家」として容認されるか否か、舞台は国連の安全保障理事会に移される。一笑に賦そうとした各国国連大使を前に、日本代表は「やまと」が国家でありえないという決定的な条件は何かと反論する。そこで彼が持ち出すのが「国家三要素説」である。「国家とは一定の領土を持ち、そこに居住する永続的人民がおり、それに対して有効的な支配を及ぼしうる政府を持った政治的地域団体である。この3つの条件を備え、しかも他国との外交を行う能力があれば艦船といえど国家として存在し機能しえるのではないか!!」その辺でよしておけばいいものを「ハイウエーを走るバスの乗員が独立を宣言すればそれも国家になるのか」とのフランス大使の反論に対して、この日本代表は「その意思があり、機能を備えれば原則として可能である!!」とまで言い切るのである。皆さんはこの議論に納得されるだろうか。
 いくら日本の官僚がその形式主義を批判されることが多いとは言え、ここまで戯画化されてしまえば彼らに気の毒になってしまう。例えば三要素説からして形式的要件を満たしてあまりある台湾が「国家」扱いを受けず、「土地なき民」であるパレスティナが準国家扱いされている現実を知らない高級外務官僚などいるわけがない。「艦船だってバスだって、形式的要件を備え、その意思があるならば国家だ!!」との論法は「子ども銀行券も貨幣だ!!」との駄々っ子の主張に似たものがある。ダブル・エクスクラメーション付きで叫ばれればこちらも一瞬ひるんでしまうが、そういう人には「だったら使ってみたら」としか言えない。「貨幣とは貨幣として使われるものである」(8)ように、国家も、宣言したり、機能や形式的要件を備えているだけでは国家になれはしない。

国民国家の歴史的位相
 ところで、今日「国家」と呼ばれているのは、近代国民国家(nation-state)のことであるが、それはたかだか四〜五百年の歴史を持つものにすぎない。そもそも「国家」を意味するstateいう語はマキァヴェリ(1469~1527)によって初めて政治学的概念として導入された。政治学の歴史の長さを考えると、きわめて新しい概念である。近代以前の政治社会に対してそれを「国家」と呼ぶこと自体が問題なのもこの理由による。古代ギリシャのポリスにしても、ローマ時代のキヴィタスにしてもあるいは中世ヨーロッパで頻繁に使われたレス・プブリカという観念にしても、一言でいって人的団体、すなわちその政治社会に属する構成員の総体を指し示す観念であって、厳密に言えばstateではない。
 これに対してstateとは、近代以前において多元的で重層的であった政治社会を一元的、統一的にまとめあげる絶対君主の権力とその支配機構を指す観念として成立した。ヨーロッパ絶対主義の時代に整備される官僚制、常備軍、単一の国民経済(度量衡や貨幣鋳造権の統一)は、すべてこのstateという「外枠」を整備する作業に他ならなかったのである。そこではとりあえず古典古代の観念であった「人間の共同性」は視野の外に追いやられることになる。しかし絶対君主が打倒され、その手中に集中させられていた「主権」が「人民主権」に転換される必要が生じたとき、再び人民がつくる政治団体としての国家(nation)を理屈づける必要が生じた。その際に、「絶対主義が作り上げた領域的権力機構としてのstateを外枠とし、その内容を、人的共同体という古典古代に由来する国家概念の近代版として見いだされたnationという観念によって充たす」(9)という形で成立したのが国民国家の観念なのである。ここに国民国家に固有のジレンマが生じる秘密が隠されている。
 絶対君主という一人の人間に集中させられている限りは、まだ成り立ちえた「最高にして絶対、唯一、不可分であり譲渡されえない」という「主権」の属性は、その「主権」の担い手が「人民」という不特定多数の人間集合にすり替えられた状態では維持不可能となってしまうのである。それをどうしても維持しようとするならば様々な神話的イデオロギーの助けを借りて、多様な人間もnationとしてはひとつの意思になると理屈づけ、人々にそれを信用させなければならないない。
 例えば、たかだが少数者の利益や少数者の見解にすぎないものを、「公益」や「世論」と呼び、あたかも全体の利害、全体の意見であるかのように見せかけるしくみが必要になる。市場メカニズムの「見えざる手」や、民主的選挙を経た議会による「一般意志」の形成がその口実を与えるイデオロギーとして整備された。技術や産業の発達の結果、nationを支える人々の間の平等化は進展し、国民すべてが「中流」の生活をおくれるようになると信じさせることも効果的である。また多くの新興国家にとってお手本となったフランスがナポレオン以来行ってきたように、stateという外枠で囲われたnationの同一性を仮構するために強力な言語教育政策を断行して言語の一元化を図るのも、また戦争を利用して国内の一致団結を煽るのも効果的である。
 かくして生み出されたのが「一民族、一言語、一国家」という二十世紀の神話である。一つの民族はひとつの言語集団でもあり、一独立国家をなす権利を有するとする神話がそれであり、この神話が原動力となり、またマルクス主義の後押しもあって、20世紀に数多くの新興独立国が生み出されることになった。
 しかし周囲を海で囲まれ、その自然的条件が故にstateとnationの一致を(その実は少数民族の存在を無視し、「方言」の蔑視・根絶政策を行ってきたにもかかわらず)無自覚に自明視してきた日本のような国は実はきわめて例外的なのである。ヨーロッパにおいてすら、「一民族、一言語、一国家」を実現できているのはアンドラ、リヒテンシュタイン、モナコ、サン・マリノ、ヴァティカン、アイルランド、アイスランド、ルクセンブルク、マルタ、ポルトガルというヨーロッパの中でももっとも小さい10カ国(10)だけである。大半の国では旧ユーゴスラビアに典型的なように、ひとつのstateの中に複数の民族集団(11)や言語、宗教を抱え込んでいる。旧ユーゴスラビア人が誇らしげに、「われわれユーゴスラビアは7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つが国家は1つである」という表現を用いていた時代は、今は昔である。stateの締め付けるタガがまだ(ソ連の後ろ盾を得て)強かった時代には東側陣営の優等生的国家であったユーゴの今日の姿は、まさにnation-stateがきわどく成立するフィクションにすぎなかったという事実を雄弁に物語っている。
 それとは逆にnationの方がstateより大規模で包括的なのが、アメリカとアラブ世界であろう。アメリカでstateと言えば「州」を、nationといえば「合衆国」全体を指すが、これはアメリカという国が市民革命以後に生まれた「絶対君主」を知らない国であり、その国民のほぼすべてが(ここでもインディアンという先住民族は無視されて)すべてが世界中からの移民で構成された「人種のサラダボール」であるという事情や、独立時に諸州が連帯する必然性があったという特殊事情が働いていたのである。
 広大な地域に言語、宗教、民族を一にする集団が点在しておりながら、それにもかかわらず16のstateに分割されているアラブ世界の事情は、かつての列強による植民地分割の遺産という側面もあるが、石油利権をめぐる恣意的国境線引きという極めて人為的側面があるのも見逃せない。
 なによりも事情が複雑なのは、アフリカに多く見られる、定規で測ったような国境線が、民族や言語集団と何の脈絡も持たない地域かもしれない。


 このように見てくると、国民国家にはあまり明るい展望はなさそうである。ただひとつ言えるのは、アフリカ系アメリカ人、日系アメリカ人という概念を抵抗なく受け入れ、野茂投手の活躍を典型的なアメリカン・サクセス・ストーリーとして我がことのように喜ぶアメリカ人と、依然として野茂に「日本代表」として日の丸を背負わせ、ガイジンをきりきり舞いさせるその姿に狂喜する日本人の間にある深い溝である。最近急激に増加しつつある外国人労働者に対する日本社会の対応を見るにつけても、また日本に在住し、完璧な日本語を操り、日本文化をこよなく愛するガイジンをいつまでも「日本人」として受け入れようとしない日本社会の姿を見るにつけても、日本こそ消え去り行きつつある国民国家のラスト・ヒーローとして珍重される日が来るのかもしれない。


(1) 碧海純一『新版法哲学概論』(弘文堂)44頁。この書物で説明されている法の概念をめぐる定義の諸問題は、ひとり法学にとどまらずすべての社会科学にとって重要である。
(2) G.W.F. ヘーゲル『法の哲学』(中公バックス『世界の名著・ヘーゲル』)
(3) F. エンゲルス『家族・私有財産および国家の起源』(岩波文庫)およびN. レーニン『国家と革命』(岩波文庫)が代表的テキストであろう。
(4) T. ホッブズ『リヴァイアサン』(中公バックス『世界の名著・ホッブズ』)
(5) こうした論法は「発生論の誤謬」(genetic fallacy)と呼ばれる。例えばサンドウィッチはカードゲームを中断することなく食事ができるよう考案されたのがその起源であるから、味よりもなによりも、ゲームに集中できるよう材料を組み合わせるのが正しいサンドウィッチのあり方であるとする類の論法がその典型である。
(6) 昨今巷間をにぎわせているオーム真理教は、「なりそこなった国家」のカリカチュアである。
(7) かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』(講談社)第8巻
(8) 岩井克人『貨幣論』(筑摩書房)222頁。本稿での私の着想はこの岩井の書物に負うところが大きい。
(9) 加藤節「国民国家のゆらぎと政治学」(岩波講座『社会科学の方法1・ゆらぎのなかの社会科学』所収)63頁。また福田歓一『国家・民族・権力』(岩波書店)19頁の同様な指摘も参照。
(10) F. クルマス『言語と国家』(岩波書店)62頁参照
(11) 近年、このような民族集団を指す場合に「エスニシティ」という概念が用いられるようになってきている。旧来の「民族」概念と異なるのは、1)エスニシティ集団の一体性が、人種的特徴や言語などの自然的属性によるのではなく主観的なアイデンティテイに依拠すること、2)独立よりもその国家の中での対等な扱いを要求する運動であること、3)その意味でマイノリティーの逆襲という側面があることであろう。詳しくは関根政美『エスニシティの政治社会学』(名古屋大学出版界会)参照。


ご意見ご感想がありましたら、以下のアドレスにお送りください。