失敗するために論文を書こう

法学部助教授 萩 原 能 久

 日本人は何につけても「型」から入りたがる。かく言う私もご多分に漏れず例外ではない。テニスを始めようと思えば、まず書店に走り、数冊の入門書を買いあさっては、「コレクトな」入門の仕方とは何かから勉強を始めるしまつだし、最近はインターネットを「コレクトに」利用できるよう、まず書棚にインターネット関連の書籍を整える準備中である。そのやり方で本当にマスターできるなら、それもよかろう。ところが私の本棚には、例えば「4級小型船舶操縦士免許の取り方」であるとか、結局は一度も実際に利用しなかったコンピュータ・ソフトウエアの詳細な操作法ガイドの類の書物があふれているのである。我ながら情けなくなる。インターネットの方は大丈夫だろうか。
 『卒業論文の書き方』という本書には、きっと多くの先生方の貴重な体験から得られた様々なアドヴァイスが収録されていることだろう。自分でも満足のいくような論文をほとんど書いた記憶もなく、またどちらかと言えば遅筆で編集者泣かせの私がその中にまじって語るべきことは、正直に言って何ひとつない。私に伝授できる秘技秘術は、せいぜいのところ「言い訳の術」と「居留守の術」くらいのものなのだが、それは少なくとも私が卒論指導する学生には(自分のことを棚上げして)封じ手として厳禁してあるのでここで明かすわけにはいかない。それでもあえて執筆をお引き受けしたのは私ではなく、「論文の書き方など本当はない」という、ある意味で本書の価値を真っ向から否定することになりかねない悪巧みを企てている私の中のあまのじゃくである。以下の文章は、そのあまのじゃくが私になり代わって書いたものである。

 『知的生産の技術』や、昨今、2年連続で大ベストセラーになり世間の話題をさらっている『知の技法』と『知の論理』など、書店のコーナーに行けば「論文の書き方」に類したタイトルを冠した指南書があふれかえっている。しかし本当に「論文の書き方」などあるのだろうか。確かに注の付け方や、論文を書くための材料を調査・収集するテクニックは存在する。さらには引用の仕方や出典明記義務のごときエチケットに類するものも存在する。それらを無視した論文は「文」ではあっても「論文」ではない。もっともホントかウソか定かではないが、文芸評論の大家であった小林秀雄が東大仏文科に提出した卒論はレポート用紙2〜3枚であったとの神話的武勇伝もあるし、20世紀の大哲学者ヴィトゲンシュタインの名を高からしめた『論理哲学論考』には一切の注も出典明記もない。逆に世間で評価の高い専門書の中には、末尾に十数頁を費やして参考文献リストなるものが添付されていても、絶対その著者が読んでいるはずがないと断言できるものも少なから含まれていることがままあるのだから、このテクニックやエチケットも天才には無用だし、こけおどしの権威主義者には悪用されかねないものである。また仮に、これらのテクニックやエチケットをマスターしたからといって、それで論文が書けるかというと、そのようなことはない。換言すれば、それらは必要条件であり、十分条件ではないのである。
 だとすれば、論文を書くための十分条件とは何なのだろうか。先の小林秀雄の例を待つまでもなく、何枚以上書けばよいという規準など本当のところは存在しない。枚数稼ぎに無意味な記述をするくらいなら、しゃれた俳句のひとつでもひねった方がましであるという意味で、十七字以上、上限なしが私の指導する学生に与える卒論作成指針である。また内容レベルに関してみても、十分条件の統一的・絶対的規準などあるはずがない。個人的には、頭がいいくせいに努力をしない学生が一番嫌いな私は、秀才が手抜きしつつ要領よくまとめた論文より、精いっぱい背伸びして自分の能力以上のものを書こうとしたのはいいが、結果として論理的に瑕疵のある論文の方をかう。ただひとつ、卒業論文からノーベル賞クラスの論文まで、共通した十分条件の規準があるとすれば、それは自分が提示した問題に答えていることであろう。
 大胆に言えば論文とは首尾一貫した「問題解決」行動にほかならない。このことはよく言われる「問題意識を明確にせよ」というアドヴァイスと重なるようで重ならない。換言すれば、自分が論じようとしているテーマが何なのかはっきりと自覚できていることなど、問題解決行動の出発点にもならないということである。それよりも重要なのは「問題の発見」であろう。
 ある意味ですべての人間の活動は、それ自体が問題解決行動とみなしうるのだから、何だって「問題視」できる。今日の昼飯に何を食べるか、どの服を着るか、からはじまって理想社会を作るにはどうしたらいいかという壮大な問いまで、すべて「問題」にしようと思えばいつでもできる。しかしこれらの問題が論じる価値があるかどうかとなると、それは別問題である。すぐに答えのでる問題、もうすでに先人が十分満足のいく解答を出している、解決済みが周知の問題、どうあがいても答えの出しようのない問題に対してあらためてそれを取り上げ、解決しようとするのは滑稽ですらある。そもそも何が論ずるに値する問題なのかを発見すること、このことは極めて創造的な行為なのであり、単なる思いつきでも、人からそれだけ教えられるものでもない。そしてこの問題発見があれば、じつは論文はもうかなり実体化したも同然である。なぜならば、ここで私が言う意味での「問題を発見する」ということは、従来の解決案にどのようなものがあったのかを知り、またその各々にどういう欠点があるのかまでが分かっていることを含意しているからである。
 私の専門が政治哲学、政治思想史であるということもあって、よく出会うのが、この「問題発見」の意味を全く理解できずに、「私はヨーロッパの政治思想史全体をギリシャから現代まで概観してみたいと思います」と真顔で言いつつ卒論指導に現れる学生諸君である。教科書の如き概説書を書くのが、ある意味で学者の仕事のひとつであることはその通りだが、それを「真似する」ことが論文を書くことだという勘違いがそこにある。断言しておくが、学者が概説書を書くのは、読み手の学生諸君が正しく問題発見を行えるためのサーヴィスでしかないのであり、それを真似てみたところで、二番煎じの二番煎じにしかならない。誰も飲みたくない出涸らし茶は、飲まされる方も迷惑だし、作る側からしても資源と労力の無駄使いにすぎない。
 このように書くと、「先人の誰もが成功してこなかったのに、たかだが学生にすぎない私がそんな難題を解決できるはずがない」とあきらめてしまう諸君がいるかもしれない。これに対して私が言いたいのは、泣き言を言うくらいなら、実際やってみて失敗すればよいということである。「あいまいに正しいよりも、はっきりと間違っている方が有益である、」と述べたのはバートランド・ラッセルだったと記憶している。はっきりとした間違いの方が情報量が多いからである。その解決だけは選択肢にならないことがはっきりしていれば、次に考える時はそれを除外することができる。そして人間は、自らの誤りから一番多くのものを学ぶことができるのである。テストで「いい答案が書けなかった」と自覚している学生ほど、実は成績が良く、「できた」と思っている学生が本当は問題の意味も理解していないからそう思うにすぎないのもこのためである。
 実際に論文を書いてみて、多くの諸君は、頭の中で考えていた「天才的アイディア」を実際に文章にしてみると、思った以上に陳腐なものであることが判明して愕然となることも、また自分の頭の中にあった構想の数分の一も表現できなかったというもどかしさに歯がゆい思いをすることもあろう。論文を書くとはそういうものなのである。その思いは、それを次の糧にするためのものなのである。それを目指すのは結構だが、完璧なものなど、存在したとしても人間には認識不可能であり、それにとり憑かれると論文など書けない。
 論文を書く、このことはlearning by doing という原理とlearning from errorという原理を結合させた問題解決行動である。失敗するのが恥ずかしいなら、論文など書かなければよい。論文はそれで名声を獲得するためにあるのではなく、失敗し、それから学ぶためにあるのだから。



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