一九六八年、オーストリアのウィーンで開催された第十四回国際哲学会議は、こうした学会の常として、退屈なぺーパーの朗読の繰り返しとおざなりな形ばかりの討論に始終しつつ、その幕を閉じた。統一的見解、統一的哲学が存在していたから、意見の対立もなく、したがって議論など不必要なものだったのではない。今日と同様、当時においても、哲学界はさまざまな流派、学派に分岐しており、混沌とした様相を呈していたのである。こうした戦国時代さながらの状況が、なぜ論争、対立にいたらないのかは、学問の世界を知らない一般の人間にとって奇異に思われよう。しかもこのことは、学生運動に触発されつつ「実践的学問」が要求されていた時期、今こそ哲学者たちからの、アクチュアルな発言が期待されていた時であっただけになおさらである。とはいえ、本来、こうした展開の火付け役を演じ、「実践」を強調しつつ登場してきた「フランクフルト学派」が、アドルノの「裏切り」、ハバーマスの「左翼ファシズム発言」1以来、その支持者たちからさえも見放されてしまったという当時の状況を考えあわせれば、この「平穏無事な」学会の進行を「なれあい主義」と批判するのも酷かもしれない。真面目に社会的実践を考える哲学ならば、哲学的専門用語で武装した、難解極まりない議論で語ることをやめ、「普通の」ことばで語らなければならないだろうが、そんなことでもすれば、みずからの哲学が実際はいかに陳腐なものであるか露呈してしまい、恥をさらすことにもなろう2。全般的な哲学界の動向を見れば、フランクフルト学派はまだ正直であった。大半の者たちは、自らの哲学が「実践」で躓き、威信失墜するのを恐れ、一番安全なアカデミズムヘの逃げ道、すなわち、「素人」はおろか、専門哲学者にも、おいそれと口出しできないような高度な専門化、秘教化を図る方向へと流れていったからである。哲学を語ることが許されるのは、長い哲学的修練をつんだ「エリート」だけである。ウィーンでの国際会議を支配していた、見ため上の「平和共存」も、実はこうした状況を微妙に反映させていた。この会議に、当時ベルリン大学から参加していたハンス・レンクは、次のように報告している。
ウィーン哲学者会議の閉幕後、将来の哲学営為がどのようなものとなるか、それを語りえる者は誰もいなかった。そうした展望を与えてくれるような創造的な論争がそこには欠けていたからである。だが次のことだけは確かである。すなわち、哲学の偉大なる統一言語、統一体系への一縷の希望など、かなえられはしないということがそれである。さまざまな傾向や学派の多種多様化をおしもどすことはできまい。
こうしたこと(多様な学派の乱立)は、哲学の対象の複雑性、多様性の不可避の表現なのであり、また、哲学の認識の歴史的制約性の表現でもあるのだ。この多元性は、だがしかし、それなりの長所を有している。すなわち、さまざまな歌声が交錯するコンサートでは、極端な立場の一面性が、批判的対決、吟味によって正されようし、また同時に、ドグマにとらわれない議論の余地が開かれよう。さまざまな側面や決断が議論され、合理性を標傍する基本的立場のそれぞれの間での批判的比較が議論されるのである。こうしてみると、哲学的に見た、この会議の最大の成果は、ひょっとして、ウィーンでのこの会議ではあまり注目をあびなかった、ある小著だったのかもしれない。それは、この会議と時を同じくして出版され、この会議ではじめて発表紹介されたわけなのであるが、その書物とは、ハンス・アルバートの『批判的理性論考』である3。
2 生い立ち−−思想遍歴の時代
ハンス・アルバートは一九二一年、ケルンに生まれる。父はラテン語とプロテス夕ント宗教の教鞭をとる高校教師、母は中流商家出身のごくふつうの女性であって、裕福とはいえないまでも、何不自由のない少年時代をすごすことができた。そのような家庭環境の中で、物心ついてからのアルバートはひたすら歴史書を読み漁るようになる。そのなかで彼は、二十年代初頭ドイツの圧倒的ベストセラー、シュペングラーの『西洋の没落』に共感をおぼえるようになる。シュペングラー・ブームは、ワイマール共和国を特徴づけるオプティミズムとともに三十年代にはドイツで急速に衰退していったのだが、この早熟な少年は、仲間に対して、あるいは課題作文のなかで、シュペングラーばりの英雄的歴史ペシミズムを吹聴してまわっては得意になっていた。同じ頃、父の厳格な宗教教育への反発も手伝ってか、信仰に対して疑問を抱くようになり、堅信式を待たずして彼は無神論者に転ずる。ハンス少年が一四歳のころである。
シュペングラーの歴史哲学的ヒロイズムに熱中するあまり、ハンス少年は、いつの頃からか将校になることを夢見るようになる。戦史や軍事関係の書物を好んで読み漁るようになった彼は、やがてヒトラー・ユーゲントに入隊、一九三九年末、望み通り軍人となり、間もなくはじまった第二次世界大戦にヒトラー・ドイツの砲兵隊下士官として従軍してゆく。終戦の年、アメリカ軍の捕虜となり、その年のクリスマスに釈放されたアルバートを待ち受けていたのは、戦火によって完全に破壊され尽くした故郷ケルンであり、ナチスの兵士だった彼にたいする世間の冷たいしうちであった。
「殺人を職業として選んだ人間の大学入学など、もってのほかである」、戦争から戻り、復学の手続きをとろうとした二十四歳のアルバートが、マインツ大学教授会から受け取った返答には、こうしるされていたのである。
さいわいなことに、取りなしをしてくれる人の力ぞえもあって、一九四五年末、紆余曲折の果てにやっとのことでケルン大学経済社会学部への入学を許されたアルバートは、国民経済学を学ぶことになる。それでも、彼の哲学への関心はこの頃にますますふくらんでくる。彼が哲学を専攻するのをためらったのは、哲学科を卒業してみたところで、就職口は大学、あるいは高校の教師以外にはないという事情からだけであった。「権威をすすんで行使することが期待されるような地位につくことなど、士官の時からすでに、私にとって何の魅力もないことがわかっていたので」6、実務家への道を選んだアルバートは、一方で哲学書を手当たりしだいに読み漁るものの、大学では、簿記、商法、実務演習を学ぶ決意をする。彼の語るところによると、この時に学んだことが、後に、ユートピア的夢想に対する彼の批判の下地をつくったとのことである。
いずれにせよ、この時期のアルバートは、哲学面ではシュペングラーから、ベネデッド・クローチェのリベラルなへーゲル主義へとその傾倒を変えていく反面、フーゴー・ディングラーの著作にも共感をおぼえるようになる。
ケルン大学で、ドイツ社会学の長老的存在、レオポルト・フォン・ヴァイゼとめぐりあったアルバートは、彼の指導のもとで学位論文、博士論文を提出している。その博土論文「合理性と実存(Rationalitaet und Existenz), 1952」で彼は、カントに依拠したプラグマティズム的構想を展開するディングラーをその論旨の支えとしているのであるが、そこにはまた、自然科学を単なる道具的知識(クローチェ)、あるいは「労働知」(シェーラー)として位置づける考え方、あるいはアーノルト・ゲーレンの人間学の刻印が顕著に認められる。アルバートは後に、カール=オットー・アーペルやハバーマスの認識関心論、すなわち、知識をその根底にある認識関心によって三分類する見解への批判者としても立ちあらわれてくるのだが、アルバート自身、彼の博土論文では、まさにそれと類似した知識論を展開していたのである。
当時のアルバートの見解によれば、認識は実践的観点からのみ考察される。さまざまな学問は、そこでどのような行為が適切とされているかという、その関心によって区分される。したがって認識とは、ある行為に対して、どのような可能性が存在しているかということを分析する場合にのみ考慮されることであり、こうした意味で、それは実践の合理性に役立つものとされる。これに対して、決断の間題はまったく実存的な問題であって、いかなる意味でも合理性とは無縁である。こうしてみると、当時のアルバートがいかにハイデガー的なカテゴリーを用いた思考の影響のもとにあったかがわかろう。認識、および合理性と、実存的決断とは完全に相容れないものであって、両者の間にはいかなる架橋も不可能であるという当時の彼の基本的立場は、政治的「決断」という価値問題を合理化し、それによってある種の決断を正当化しようとする新古典派経済学の「政治的算術」の試みのイデオロギー性を暴露するものであった。だが、この種の「イデオロギー批判」は、『批判的理性論考』第4章で批判されているガイガーの実証主義的イデオロギー批判の経済学への適用以外の何ものでもない。アルバートは、こうした認識と決断の実証主義的二元論を、その後しばらくのあいだも信奉しつづける。
博士号を取得したアルバートは、その同じ年、ゲルハルト・ヴァイサーの助手としてケルン大学社会科学・行政学研究所に職を得る。ヴァイサーは国民経済学者でありながらも、哲学的な造詣が深く、レオナルト・ネルソンの弟子として、カントに依拠する一種の規範主義の立場をとる学者であった。よき理解者にも恵まれたアルバートは、彼の勧めもあって、一九五四年、博士論文に加筆訂正を加えた最初の書物『経済学的イデオロギーと政治理論』8を発表する。この頃には彼は、認識理論上は、ディングラー的なプグマティズムからヴィクトーア・クラフトやヴィトゲンシュタインによって再び注目を集めるようになったウィーン学団の論理実証主義へとその考えを修正してゆくが、倫理の問題においては、あいかわらず実存主義的立場を貫いていた。
ヴァイサーのもとで教授資格申請論文の準備をすすめていたアルバートは、ある一つのスキャンダラスな「事件」に巻き込まれることになる。当時彼は、社会学・国民経済学の教授資格を取得しようと研究をすすめており、満を持した論文「商関係の社会学としての国民経済学」が提出されたのは一九五五年のことである。そこに突如として「アルバートは実証主義者であり共産覚員である」とのうわさが流布される。圧倒的にカソリック色に包まれていた当時のケルン大学はあわてふためいた。大学当局は、正しくも、中世さながらの「教説の純粋性」に関する哲学的鑑定、「思想検閲」を行なうことは慎まなければならないとの決定を下したが、そこでカソリック神学部は黙ってはいなかった。「あくまでも個人的見解」として、カソリック神学者ヴィルパートの悪意にみちた鑑定が大学内に流布され、アルバートの教授資格申請論文は八対七の僅少差とはいえ、却下されてしまったのである。この時に彼が味わったドグマ的−全体主義的なカソリック神学の実体は、後に彼が行なう痛烈な神学批判と無縁であるとは言えまい。
指導教授ヴァイサーの機転により、それまでに書きためてあった論文を寄せ集めたかたちで、一九五七年、アルバートは、なんと専門外の「社会政策」で教授資格を取得するのに成功する。その後、現在のマンハイム大学(当時マンハイム経済大学)からの招聘があるまで、ケルン大学で私講師をつとめたあと、アルバートは今日にいたるまで、同大学で社会科学方法論の講座を担当している。(現在はもちろん、定年退官している。)
3 『批判的理性論考』成立をめぐって
今日のアルバートの思想に決定的なまでの影響を与えたのは、 彼の著作を読まれた方なら容易に察せられるように、何と言ってもカール・ポパーとの出会いである。お互いに意気通ずるところあって親交のあったエルンスト・トーピッチュ(私事ながら付け加えると、筆者のかつての指導教授)の勧めから、オーストリアの小村、アルプバッハで毎年開催されている市民大学週間に一九五五年以降参加していたアルバートは、一九五八年、そこでポパーと個人的に知り合うようになる。アルバートはもちろん、それ以前にも、彼の処女作『経済学イデオロギー』を出版したころから、ポパーの著作とは接していたが、当時、ヴィトゲンシュタインやガイガーの実証主義的見解に心酔していた彼は、ポパーをそうした実証主義の一変種としてしか理解できなかったのだった。
ポパーと個人的に意見を交換して初めて、彼はそこに、従来から彼が支持してきた認識と決断の実証主義的二元論を克服するための重大な手懸りが存在することに気づくようになる。詳しくは、『批判的理性論考』、特に第二章、第三章で展開されている議論を参照していただきたいが、ここで簡単にポパーに触発された、認識と決断の問題をめぐるアルバートの修正された見解を要約しておきたい。
一、認識それ自体が、実は人問実践の一部なのであり、したがってそれもまた、決断に満たされたものである。さて、こうしてみると、このポパーに触発されたアルバートの批判主義のプログラムを要約している『批判的理性論考』という書物自体が、まさに自己批判の書、自らの過去との訣別であるとおわかりいただけよう。アルバート自身、何のてらいもなく次のように述べている。「かくして、この書物(批判的理性論考)は、私自身がそれ以前に擁護していた見解への批判を含んでいるのであるが、フランクフルト学派のメンバーが批判的合理主義を一種の実証主義であると攻撃してきた時には、私はポパーの思想の影響のもとで、そうした見解をとっくに放棄していたのである」9。
二、それ故にまた、科学もひとつの実践的活動であるが、そこにも価値判断、規範、決断が存在する。
三、合理性の問題は、人間実践一般の、すなわち問題を解決しようと行動する方法的実践の問題なのであって、認識の領域にのみ限定されるものではない。
四、問題を合理的に処理しようとする実践のすべてに理性が関与してくるが、その理性は無謬ではなく、誤りうる。
五、理性は誤りうる。このことには例外はない。それは、論理学や数学、哲学や政治から、神学に対してすら言えることである。
六、このような首尾一貫した可謬主義にまっこうから対立するのが、基礎づけを追求しようとする思考であるが、基礎づけを完遂することは、ミュンヒハウゼンのトリレンマに帰着せざるをえず、したがって支持できない。
七、何ものも批判を免れることはできない。何らかの理論に対して、それを批判からくいとめようとする「免疫化戦略」(ポパーの用語では「規約主義の戦略」)は拒否されなければならない。
八、そのような免疫化戦略を用いてなされるドグマ化は、理論のドグマ化といった認識面だけでの問題なのではなく、すべての人間実践にみられることであり、拒否されなければならない。
九、以上のことから、真理と確実性とは無縁であると言える。確実なるものが存在するとしても、確実にそれを認識することはできないからである。とはいえ、分析哲学にありがちな懐疑主義や相対主義は拒否されなければならない。批判的吟味の方法によって、「真理への接近」をなしうるからである。
4 『批判的理性論考』の投げかけた波紋
先にも示唆しておいたように、『批判的理性論考』は、その公刊以来、おびただしい数の批判に遭遇することになる。アルバート白身、そうした批判者に答えて、一九七五年の第三版では、あとがきとして「批判主義とその批判者たち」という章を特別に追加している。このあとがきはその後、一九八〇年の第四版でさらに加筆補充されているが、ここではそうした批判のうちの代表的なものをいくつか簡単に紹介するにとどめておきたい。
古典的合理性のモデルに認められる基礎づけ思考を批判しつつ、アルバートは、こうした思考の袋小路を、自らの髪の毛をつかんで、溺れそうになっている自分を沼から引きずり出したとの自慢話を語るほら吹き男爵ミュンヒハウゼンの手口と大同小異であるとして、ミュンヒハウゼンのトリレンマと命名する。(ちなみに、この「ほら吹き男爵」はハンス・アルバース主演で映画化され、当時のドイツでは有名であった。アルバートは洒落気たっぷりに自分の名前をそれにかけているのである。)批判者たちの多くは、ある時にはその首尾一貫性の欠如を指摘し、またある時には、それは支持できない、あるいは限られた範囲でのみ妥当性を有するにすぎないと反論する。筆者自身、正直に告白すれば、この「ミュンヒハウゼンのトリレンマ論」は「自己言及」の間題に帰着してしまい、「嘘つきのパラドックス」、すなわち「私の述べることはすべて嘘である」という言明の持つパラドックスを内包するが故に、そのままの形では無制限に妥当すると考えていない。ヴィクトーア・クラフトがいみじくも述べているように、「アルバートは基礎づけの不可能なことを論理学をもって基礎づけた」14、のであって、つまりはそれ自身もまた「基礎づけ」だからである。このクラフトの批判に対して、アルバート自身、先に述べた「あとがき」の中で、「基礎づけ」という概念が古典的意味でのそれと、批判主義での意味とでは異なったものであることを示唆しているが、今ひとつその論旨は明解とは言えない。
同じような観点からアルバートを批判するのが、かつての「実証主義論争」でアルバートと対抗したハバーマスの僚友、カール=オットー・アーペル15である。彼の批判の骨子はクラフトのものと大差がないが、決定的にちがうのは、アーペルが何としても絶対的基礎づけの保証を確保しようとしていることであろう。アーペルの構想に関しては、わが国でもすでにもう十分に紹介されているので16ここでは多くを述べないが、それはコミュニケーション共同体を軸にした、一種の真理合意理論であると特徴づけておくことができるだろう。
こうしたアーペルの「超越論的遂行論(transzendentale Pragmatik)」構想に対して、アルバートとアーペルの間で、その後しばらくの間、論争が続けられることになる17。アルバートの批判を簡単に要約しておくならば、アーペルが、ハバーマスと同様に、知識を認識の根底にある利害関心をもとにして三分類していることがまず批判される。この分類によって、例えば自然科学は、単なる道具的なものの地位におとしめられ、自然科学の方法とされる「説明」が、精神科学において無効とされたあげくに、それに代わるものとして「解釈」といったものが持ち出されるのである。アーペルによれば、批判的合理主義など、あらゆる知識を技術知に遺元するテクノクラシー的な試みに他ならない。アルバートはこうした議論に逐一反論を加え、認識を実践に役立てようとする批判的合理主義のプログラムが、いい意味にせよ悪い意味にせよ、社会を操縦するという意図を持ったものであるだけでなく、啓蒙という課題を担ったものであることを強調する。逆に彼は、アーペルのいうところの正しい認識を保証するコミュニケーション共同体という発想の中に隠れた神の存在を嗅ぎだしている。
アーペルとの関連で、「解釈学」の問題をめぐる誤解について、一言記しておきたい。『批判的理性論考』第六章では、アルバートはハイデガー=ガダマー流の「普遍的解釈学」に対して痛烈な批判を行なっているが、彼は決して、「解釈学」そのものが無用のものであると言っているのではない。むしろ彼が行なっているのは、批判主義の観点からする解釈学再構築の試みであると理解されなければならない。アルバート自身、「理解」の重要性を認め―−そうでなければ、どうして彼がウェーバーを高く評価するのか理解不可能であろう―−、そのためにこそ、まさに合法則性に関する知識、すなわち「説明」的知識が活用されなければならないと強調しているからである18。
それはさておさ、『批判的理性論考』は、さらにまったく別の角度からの批判にも直面することになる。プロテスタント、およびカソリック双方の神学者たちからの批判がそれである。日本の読者には想像しにくいことであると思うが、ョーロッパー−−西側ブロック、東側ブロックを間わず−−において、キリスト教、教会が今日でも有している政治的、文化的影響力の強さには、けっこうヨーロッパ滞在の長い筆者にしても、時々おどろかされることがあろ。キリスト教や教会に対する批判は、それだけで多くの人にとって不愉快この上ないことなのである。このことは、例えば一世代前の日本人が「天皇批判」に対してどのような感情を持つのが普通だったか思いおこしていただければ、その種の憤激の程度を想像していただけるかと思う。アルバートの宗教批判は、そうした環境の中で、この書物の中でなされている、どの哲学的、学間的批判よりも大きな社会実践面での波紋を投げかけた。
『批判的理性論考』第五章で、プロテスタント神学、特にブルトマンの「脱神話化」の神学が批判にさらされているが、このアルバートの批判はドイツ・プロテスタント神学界にとって見て見ぬふりをきめこむには、あまりにも大胆な挑戦であった。ドイツ・プロテスタント神学の論客、ゲルパルト・エーベリンクの反批判の書物『批判的合理主義?』19はこうした神学界の動揺の一端をうかがわせている。この書物自体、紹介するに足るだけの内容のあるものではないが、その中でなされている、意図的なまでの誤解をもとにしたアルバート批判は目をおおうばかりである。それでもアルバートはただちに、その同じ年、それに答えつつ、『神学的迷い道』20という書物で応酬している。他方で、アルバートの議論を大幅に受け入れるという「奇妙な」神学者もあった。ヴォルフハルト・パンネンベルグがその人であり、彼は一九七三年、『科学理論と神学』21という書物を発表している。その中で彼は、「神の存在」を仮説として想定するという立場を表明しているが、その「仮説」は、まともな「批判的吟味」に付されているわけではなく、ただひたすらに擁護されているというしろものである。アルバートの議論を受け入れるというポーズ自体が、そこでは「免疫化戦略」として用いられているのである。この書物は、反イデオロギーを標傍する批判的合理主義とて、そのつもりさえあれば、簡単にイデオロギー化されうるということの見本とみなせよう。
アルバートが同書の神学批判の中で、カソリック神学をあまり中心的に扱っていないのは、決して、カソリックがプロテスタントよりましだからなのではない。むしろ逆である。アルバートは、神学の中でもまたプロテスタントの中に、批判するに足るだけの自由な批判的姿勢をみているのであって、徹頭徹尾ドグマ的体系であるカソリックは彼にとって問題外のものなのである。ドイツ・カソリック界の大御所、ハンス・キュンクが『神は存在するか』22という書物を発表した時、アルバートはそれに応酬するかたちで、『神学の貧困』23を執筆し、そこで、「理性」と「信仰」を調和させようとする神学者の試みを批判している。
いずれにせよ、アルバートにおいては、宗教批判は全体主義批判の一ケース・スタディー的な意味を持っていることが見落とされてはならない。「私が稀ならずおどろかされるのは、どれほど多くの人たちが、キリスト教の歴史、この宗教の名のもとになされた迫害、暴力行為、抑圧の歴史を忘れたがっているかということである。そこにおいては、近年になって特に強調されているような慈愛よりも、不寛容とファナティズムが極めて大きな役割を演じていたにちがいないのだ」24。
5 アルバートの周辺
批判的合理主義においては、「父親殺し」、「恩師への攻撃」が美徳とされているようである。その創始者、カール・ポパーに対して、あるいはドイツにおけるその「筆頭番頭」アルバートに対して、最も痛烈な批判者として立ちあらわれてくるのはきまって、彼らが一番弟子と認めた者たちだったのである。ポパー批判として特にすぐれたものを発表してきたのは、彼のかつての弟子たち、パウル・ファイヤーアーベントであり、イムレ・ラカトシュ、あるいはウィリアム・バートレー、ジョン・ワトキンスなのであるが、アルバートの場合も事情は同じである。アルバートのもとで長らく助手をつとめたヘルムート・シュピナーは、批判的合理主義を不徹底であるとして、「批判的多元主義」を提唱している。その彼による批判的合理主義批判ほど徹底的で壊滅的なものは存在しないと言ってよい25。また、もうひとりの助手、へルベルト・コイトも、その書物『現実と真理』26で、批判的合埋主義一般に対し、非常に緻密な批判的議論を展開している。こうした事態は、哲学史上、極めて例外的な事例のなのではなかろうか。
アルバート自身、そうした批判がでてくることを内心喜んでいるかのようである。彼の眼中にあるのは、ひとえに、批判活動による学問、社会の進歩、改善のみである。個人的な成功や功名心のひとかけらも彼にはみられない。ドイツ的水準からみて、どう見てもおんぼろ長屋といった風情のハイデルベルクのアパートに、書物に埋もれるようにして暮しているアルバートのもとには、毎日のように若い駆けだしの学者たちが自然と集まってくる。彼らとアルバートの間でかわされている熱のこもった議論をぼんやりと眺めながら、筆者が身震いするほどに感じたのは、ここに学問の批判的精神が生きている!ということであった。